【KACPRO20211】香ちゃんの将棋盤【第1回お題:おうち時間】

なみかわ

香ちゃんの将棋盤

 父方の祖父おじいちゃんが将棋好きなこともあってか、私の名前は香車きょうしゃから香子きょうこ、弟は桂馬けいまからけいと名付けられていたけど、将棋自体はあまり知らないままだった。駒の動かし方と、相手の陣地の3列までたどりついたら裏返して『成る』、歩は成ると『と金』になって金と同じように動くーーくらいでも十分と高校の友達には言われたが。小さい頃は、私と桂と、隣の五歳年上の哲太郎君や、哲太郎君のお姉ちゃんのあゆみちゃんと、ばあっと駒を撒いて『山崩し』をしていた。



 あれから10年。


 我が家では、大学1年生の私が食事当番である。お父さんのリモートワークも週数回になり、弟は高校に通い、お母さんは、母方の祖母おばあちゃんの家に介護でかえったままだ。


 また、何度目か。テレビで「大学生はオンライン授業ばかりで大学に行けない」と流れ出して、私は「今日の晩御飯何でしょう?」にチャンネルを変えた。


 私の部屋は、来るべき独り暮らしに備えて買ったものに半分占拠されたまま、秋を迎えていた。あのまま、何もなかったらーーいまさら何が「なにもない」で、何が「なにかある」のかもわからないがーー、私は3月に、新築1LDKのフローリング、ロフトつきの部屋に引っ越して、大学生ライフを満喫するはずだった。ーーいまさら何が「大学生ライフ」かもよくわからないが。


 せめてもの救いは、隣の哲太郎君が大学院生で、研究室に寝泊まりできなくなった(?)から戻って来ていて、大学とはどんなものか、を(いちおう万全を期して)ラインで教えてくれたことだった。

 どうもワイドショーで見聞きする感じ、ほとんどの新入生は、初めての大学生活もわからず、友達もできず、情報も(取りに行ってない?らしくて)無くて不安が募るばかりらしい。


『図書館行けるようになったら、とりあえず山ほど本読むわ』

『香ちゃんとこは、自習スペースも設備ええらしいで』

 哲太郎君はニコニコする犬のスタンプを送ってきた。そういえば、誰かに見せられるようなスタンプも、高校の卒業式の後から買っていなかった。





 大学で使うために買ってもらったモニターつきのパソコンは、リビングに置くことになってーーそれまであった古いパソコンのかわりにーー、桂がだいたい夜は独占する。持ち主の手を離れたゲーム機を、そういうときに借りる。大学の入学式が開催されるのか毎日ホームページを見ていた2月3月の頃、将棋のゲームの広告が目に入った。「これって桂のんでできるん?」「できるけどレンタル料くれ」「あんたはこれパソコン勝手に使つこてる(使ってる)やろ」、と、ゲーム代は桂に渡して、ダウンロードしてもらった。


 さいきん、若いプロ棋士の活躍が話題で、せっかく時間があるのなら、この初心者向けのゲームで、復習しようかと考えた。


 パンをつくって発酵させているあいだとか、おでんを煮込む間とか、大学の宿題が煮詰まった時とかに、少しずつすすめてみた。はじめは本当にすべての駒がどこへ動かせるかというレクチャで、さくさく進んでいったけど、途中から、相手との対局で勝たないと先に進めないところになり、しばらく投げ出してしまった。なんどか夕飯の支度の時に、挑戦したけど負けてしまう。上を見ればきりがなく、この将棋に命を懸けて生きている人がいるくらいなのだ、私のような暇潰しには適度な息抜きでいいかな、と、ピーラーでにんじんの皮をむく作業に戻った。


やなかったら香ちゃんのカレー食いたかったわ』

 哲太郎君からのラインにはカレーライスの絵文字がついていた。あゆみちゃんは(お盆に続き)年末も戻ってこないらしいとか、そういう雑談のなか、将棋のゲームの話になった。『なつかしーな!』



『新聞に将棋の懸賞みたいなんあるで』

『そうなん、また見てみるわ』

 今度はビックリマークの絵文字がきた。

『香ちゃん、将棋盤あるんやし、ゲームの問題とか並べてみたらええんちゃう?』



「将棋盤」

 不意に声が出た。



 しばらくみんなで遊ばないうちに、将棋盤のことはすっかり忘れてしまっていた。たしかに、『うちで』集まって挟み将棋や山崩しをするとき、お母さんが将棋盤を出してきて、それは裏の蝶番ちょうつがいで折られていてーー開いてくれた。そこにばらばらと駒を落とし、「おれ飛車な、姉ちゃんは香車」「あんたは桂馬やろ?」などなど、使いたい駒ーーいまならその角や飛車は大駒といわれることを知っているーー、を取り合ったものだ。

 ゲームの画面をひたすら見るよりも。ほんとうに10年ぶりに、駒を並べてみようと思った。



「姉ちゃん、なんか今日の肉焦げてへん?」

「桂さ、将棋盤どこやったか覚えてへん?」


 将棋盤があったと思う棚の中が空で首をかしげている間に、野菜炒めは若干焼き色が強くついていた。

「そんなん覚えてへんわ、おとんにきいてみや、部屋にあるんちゃう?」


 いままで気にもしていなかったのに、いざ探すとなかなか見つからないことに、もどかしくなった。

 そういう日に限って、お父さんは久しぶりに残業をして遅く帰ってきた。父さんの部屋は、リモートワークをするようになってから、あまり勝手には入らないようにしていたので、寝る前にドアを叩いた。


「昔みんなで遊んでたやん」

「あー、あれなあ。もともとおかんが持ってたやつやから、お母にきいてみ?」

「そやったん? おじいちゃんのやつや、と思てたわ」

「じいちゃんのは、じいちゃんの部屋とこにさ、脚ついたやつあったん、覚えてへん?」

 うーん、と最近、おじいちゃんの家にも行っていないから、和室の独特なにおいしか思い出せなかった。


 わざとおたがい顔を合わせないまま、お父さんは机の上のノートパソコンでぱちぱちとニュースサイトをクリックしていた。私は開けたドアのそばにある、ビーズクッションに座っていた。


「あれ10年くらい前やったね。帰ってきたら、四人でお母のカレー食べとったな」

「ほんでみんなで映画見に行ったりしたやん」

「せや、帰りに梅田の観覧車乗ってなーーそうか、10年か……」

 急にお父さんは、しみじみとつぶやいた。お父さんだって、もうすぐ50歳だった。



 将棋盤のありかは、翌朝お母さんに電話したらすぐにわかった。押し入れの、たまに使うドライバーやらの工具入れの脇に置いていたのだ。

 今日の午後の授業は休講になっていたので、リビングでドラマの再放送を流しながら、私はほぼ10年ぶりに将棋盤と駒の蓋を開けた。


 将棋盤は保存の仕方がよくなかったのか、蝶番が錆びてしまっていて、新聞紙の上で開いたら細かい砂のようなものが落ちた。これは桂にでも取り替えさせればいいと思う。

 傷だらけの表面は、あの頃みんながぞんざいに扱っていた証拠だ。その勢いで、駒がくなっていないだろうか。ひとつひとつ駒を、並べてみた。

 表面は印刷された文字の、木の駒。いくつか、中心からずれて刷られたものがあり、そんなに高級なものではなかったのだろう。しかしそれでも、駒が足りなかったらと、だんだん指が震えてきたが……、きちんと40枚の駒は、升目に収まった。



「はあ……」

 ほっとして、並べきったままでしばらく盤を見ていたが、将棋盤の紙蓋の裏に、文字をみとめ、息を止めた。ーーそれは、あの頃、お母さんが書きこんだものだった。私はこの文字を、覚えていた。




『このしょうぎばんは 香ちゃんのです。


 こまは 桂ちゃんのです。


 みんなで なかよく あそびましょう。 』




 あのとき、毎日どんな感じで遊んでいたか、どんな会話をしたか、カレーにソーセージを入れてもらっていたか、私は髪に何色のピンをつけていたか。すべてを細かくは、思い出せない。

 けれど、この家にいた時間、今ここにいる時間も、大事にしよう、と、盤の上の7七にある歩を持ち上げた。





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