5 赤い視界と青い涙

「あああああああああああアアアアアア!」

 紅葉が怒りで雄叫びを上げていた。

 彼女は短くなった斧頭の柄を持ち、ユビキタスの元へ駆け寄っている。

 ユビキタスは最後の力を使い切ったのか、膝を折って座りこみ、焦点が合わぬ瞳でぼうっとしていた。


「————やめるっスぅうう!」


 ペーター刑事は刃がかち逢う寸前に、ふたりの懐に潜り込んだ。

 鍛え上げた筋肉で紅葉の腕をガツッと掴み、同時にユビキタスの肩をバシッと掴む。

「⁉︎」

 視野が恐ろしく狭くなっていた紅葉は、突然飛び込んできた警官の存在に驚愕し、斧を地面に取り落とした。ペーターはすぐさま彼女の落とした斧を手に取り、ユビキタスの背後を抑えて、斧ごと体を地面に押し付けた。



「——ユビキタス・ストゥルソン、確保っす!」

 兎警官はあっという間に、ユビキタスの体を覆うように跨がっていた。

 老教師は、年齢と職にふさわしい穏やかな顔貌に戻り、大人しく静かにじっとしている。

 獲物をかっ攫われてしまった紅葉は、しばらく棒立ちであっけに取られ……すぐに顎をワナワナさせて、ペーターの背中をバシバシ叩いた。


「……ちょ、ちょっと待って! 何すんの、だめ、そいつを殺さなきゃ!」

「ダメっす」

 紅葉は両手でバンバン体を叩き、時には蹴るが、ペーターは背中を丸めて鉄の塊のように動かない。

「私が殺すの!」

「殺しちゃダメっす!」

「コロス、コロス……った、痛ぁああああ!」

 緊張が解かれ、己の怪我を知覚してしまった紅葉が、地面に転げてもがき苦しみ始めた。


「……あんた、ジブンが思ってる以上にボロボロっすよ。ジッとしてるっす」

 ペーターはその場から動かぬまま、冷静に彼女を説き伏せた。ラヴァ州警察の桃色の制服が、赤く血まみれになっている。

 紅葉は、それが自分の血だと今さら気づいてゾッとした。自分の手のひらが見れない。全ての指の感覚がない。

「ショー……ン…………は?」

 足の裏が痛い。石の小粒を、剥いだ皮膚の全面に貼り付けたような痛みだ。唇が震える。声も遠のく。真っ赤だった視界がどんどん青くなっていく。

「大丈夫、無事っす。みんな無事っす。誰も死んでないっす」

 ペーターはあれから後ろの様子を一度も見ていないが、しっかり全員の心音を聞き分けていた。


「そ……ぅ」

 視界が青い。青い涙が出た。唇が、全身が、痛みで震えていた。

 紅葉は、子供の頃のショーンの笑顔を、瞳の裏に浮かべながら意識を閉じた。

 同時にユビキタスも静かに瞳を閉じる。

 ペーターは強張った背中をようやく緩め、代わりに大きな耳をグッと前に寄せた。コンベイ街の方角から、集団でやってくるギャリバーのエンジン音を聴き取った。





「——これはいったいどういう事だ!」

 ようやく到着したクレイト市警のアルバ、猫狼族のベンジャミン・ダウエルは、腕組みをして鋭く吠えた。

「申し訳ありません。賊に襲われ……逃しました」

 警部補のオールディスが、うなだれて膝をついている。

「仮面をつけた謎の人物がひとり現れ……恐ろしい呪術を次々と繰り出し、我々の力ではとても……敵いませんでした!」


 ベンジャミンは激怒していた。

 警官6人アルバが2人も付いてこの惨状——新人アルバのショーンは失神し、一般人の女性も重傷、目の前で膝をつくオールディスも、ギャリバーから投げ出された時の衝撃で左腕の骨を折っている。アルバがいれば多少は安心かと、甘く見ていた自身にも強い怒りを感じていた。

「まあまあ、ベンジャミン。全員の命が無事だっただけでも一縷の幸いというものだ。風神と土神に礼を言いたまえ」

 集団の中で最も元気な人物、クラウディオ・ドンパルダスは、優雅にハンケチで汗を拭い、金細工の櫛で髪を整えていた。


「クッ…………ああ、いいだろう」

 ベンジャミンは細い眉を90度近くまで吊り上げながら……風の神と地の神にそれぞれ感謝の辞を述べた。

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