9-3 その速さは心地良かった
馬に乗ったまま、スタートのゲートに並ぶ。全部で五頭の馬が並んでいる。わたしと角くん以外のプレイヤーは、色違いのような騎手姿の人たちだ。
色によってゲートの位置が決まっているらしい。一番左は栗毛の馬に乗った緑の騎手。黒い乗馬服の角くんは白馬に乗って左から二番目、わたしはその右隣。わたしの右には、月毛の馬に乗った黄色の騎手。そして一番右端には鹿毛の馬に乗った青の騎手。
最初のカードはいつ選ぶんだろうか。不安を紛らわせるように、目の前の馬の体を撫でる。
「よろしくね」
艶のある毛並みは触り心地も良かったけれど、それでもまだ緊張は解けなかった。
小さく息を吐いて左隣を見る。角くんは姿勢良く真っ直ぐに前を見ている。それを見て、わたしも慌てて不安で丸まっていた背筋を伸ばす。大きく息が吸い込める。
ふと、角くんがこちらを見て、目が合う。角くんはそれはそれは楽しそうに、にっこりと微笑んだ。
どうしよう、余計に緊張してきた。ちゃんと走れる自信なんか全然ない。心配だらけだ。
ちっとも心の準備ができないまま、ゲートが開いた。馬が走り出す。まだカードを選んでないのにって思ったら、その瞬間、世界が止まった。
世界の色が、なんだか薄くなって見える。厚いガラス越しに見てるみたいに。その中で、走り出した格好のまま、馬が止まっている。
隣を見れば、角くんも馬の上でわたしの方を見た。ひょっとして、声が届くかもしれない。そう思って、わたしは口を開く。
「角くん、これ、どうなってるの?」
わたしの声は、角くんに届いたらしい。角くんは周囲を見回して、それから自分の目の前をじっと見て──わたしからは見えないけど、多分そこに、角くんのカードがあるんだと思う──そして、わたしの方を見た。
「多分、この間にカードを選べってことじゃないかな。確かにこれなら、走りながらカードを選べるね」
「こんなやり方ってありなの?」
「ボドゲだと思えば、まあ、俺としてはあり」
なんだか落ち着かないまま、わたしは自分のカードを見た。一から六のカード。スタートから六マスの間は何もない草地で、七マス目に池がある。池は障害物だから止まれないマスのはず。
最初にどのカードを出せば良いのか、わからない。
数の大きいカードを後に取っておいた方が良いのか。それとも、先に大きな数を出してリードした方が良い?
「最初に大きい数を出すのって、良くないのかな?」
角くんは、困ったように眉を寄せる。
「それは駄目。今日は二人ともプレイヤーだからそういう話はしないよ。お互い、手の内は晒さない方が良いよね」
「それは……そうだね」
角くんの言葉はその通りで、わたしは小さく溜息をついて自分のカードを見た。別に答えを教えてもらえると期待してたわけじゃないんだけど──もしかしたらわたしは、ちょっと角くんと話して不安を紛らわせたかったのかもしれない。
「まあでも、この先こんなふうに話せるかわからないから、先にいくつかヒントだけ出しておくけど」
角くんがそんなふうに言い出して、わたしはまた角くんの方を見る。角くんはきっと、わたしの不安に気付いている。わたしを安心させるように、穏やかに微笑んでいた。
「まず、インストの時にも言ったけど、カードを六枚出すまでは選択肢がだんだん減っていく。だから、次の次くらいまで考えておくと良いよ。ここでその数を出して、その次にはどの数を出すつもりなのか、その次は。うまくいかなかった場合……他の馬に越されて後退したらどうなるかまで考えられると良いけど、最初はうまくいったときのことだけでも大丈夫だから」
「え、いきなり考えること、多くない?」
「言っても、選べるカードが少ないから、そんなに大変じゃないよ」
眉を寄せたわたしに、角くんは少し苦笑して言葉を続ける。
「それから、他の人がどの数を出したかを覚えておくのも大事かな」
「覚えておけるかな」
「だいたいでも大丈夫だけど。例えばさ、自分の三マス後ろにいる人のところに三のカードが残ってるとしたら、追いつかれて後ろに退がることになるかもしれない。後ろに退がったせいで目の前の障害物を跳び越え損ねた、なんてこともあるからね。その時は、それよりも先に動くか、後ろに退がっても良いようにカードを選ぶか、考えることが増えるんだよね」
そうか、出したカードの数が小さい人から動くから、後ろの人が三の数を出すってわかっていれば、それより小さい数を出せば良いのか。
「でも、三のカードを持ってないって知っていれば、その心配はしなくても良いよね」
角くんはなんでもないことのようにさらりと言った。わたしはやっぱり覚えられる気はしなかったのだけれど、角くんとこうしていつもみたいに話すことができて不安が少し薄らいだ気がした。きっと、角くんがいつもの通りだったから。
だからちょっと力が抜けて、笑うことができた。
「なんだか、うまくできる気はしないんだけど……頑張ってみる」
「大丈夫だよ、頑張って」
角くんはいつものように穏やかにわたしを励ましてくれて、わたしはそれに頷いて答える。それに対して角くんはふふっと笑って、その笑顔のまま言葉を続けた。
「でも、俺も勝つつもりで遊ぶから」
わたしが最初に選んだのは、六のカード。池の手前まで進んでしまって、その次で池を跳び越えて一気に進めたら、と思った。
何を選ぶかはすごく悩んで──最初は三とか四とか、他の人の様子を見てからとか、いろいろと考えてしまったんだけれど、三を出した次の数でまた悩みそうな気がして、だったら一気に進んでしまおうって考えた。
わたしがカードを選んだら、止まっていた世界が動き出した。ぼんやりと薄く見えていた色が鮮やかに戻ってくる。景色が動き出す。
風を切って走るって、こういうことなんだと思った。草地を蹴る音と、通り過ぎる景色と、髪をなぶる風。
きっとこれはボードゲームだから、本当の乗馬とは違うんだと思う。握る手綱とか、背中の揺れ方とか。実際に馬に乗って走るのは、もっと大変なんじゃないかって気がする。
それでも、今このときは本当に走っているのと変わらなくて、その速さは心地良かった。
池が見えてきたところで、世界が止まった。次のカードを選ばなくちゃいけない。
スタートで一気に走り出したのはわたしだけで、他の人は様子を見るように後ろにいる。わたしの少し後ろ──マスで言えば二マス後ろには栗毛に乗った緑の騎手。その後ろには鹿毛の青い騎手。角くんの白い馬は月毛の黄色い騎手に追い越されて、一番最後。
次はあの池を跳び越える。カードを選びかけて、角くんの言葉を思い出してふと考える。栗毛の馬は今、わたしの二マス後ろ。あのプレイヤーが二のカードを出したら、わたしは追い越されて一マス退がるってことだ。
でも、二のカードよりも小さい数は一しかない。一を出せば目の前は池だから、わたしは進むことができない。
例えばここで二のカードを出した場合、後ろにいる人の方が先に動くから、わたしは一マス退がることになる。その状態で二マス進もうとすると、そこは池だ。だから結局、わたしはその場から動けないまま。
池の向こうは、草地が終わって砂地になっている。池から次の障害物の生垣まで六マス。だったら、と、わたしは五のカードを選ぶ。
世界が動き出す。栗毛の馬がわたしの横に並んで、追い越される。そのさらに向こうから、月毛の馬が追い越して前に出て、栗毛の馬が失速する。わたしが乗ってる馬はそこでさらにスピードを上げて、栗毛の馬も月毛の馬も追い越して、その勢いで池を跳び越える。
浮遊感。着地。
そしてスピードを緩めないまま、さらにその先まで走った。
視界に見えているゲームボードのコース上だと、わたしは栗毛の馬──緑の騎手にちょうど追い付かれて一マス退がったことになっていた。けれど、馬がいきなり後ろ向きに走り出したり、走っていたのが突然巻き戻ったりするようなことはないみたいだった。今みたいに追い抜いたり抜かれたり──ゲームボード上で表現されているのは、そういう攻防なんだと思う。
また世界が止まって、ゲームボードを確認する。月毛の馬に乗った黄色の騎手はまだ池を超えていない。栗毛の緑の騎手はさらに後ろ。その後ろにぴったりと鹿毛の青い騎手、角くんはさらにその後ろだった。
ずいぶんと差がついてしまっているけど、角くんは大丈夫なんだろうか。
ちょっと考えた後に首を振って、わたしは自分の手札に集中する。今は自分のことを考えなくちゃ。
次の障害物まで四マスだ。六と五を使ってしまったから、残りの数は一から四。次のカードであの生垣を跳び越えるのはできない。それでも、三マスは進める。
今度は追い越されることなく、生垣の手前まで走ることができた。わたしのすぐ後ろに、黄色の騎手を乗せた月毛の馬がぴったりと付けて走っている。他の馬だってみんな最初の池を跳び越えているのに、角くんはまだ最初の池の手前だ。
角くんのことも気にはなっていたけど、それよりも気にしないといけないのは、すぐ後ろの月毛の馬──黄色の騎手だ。その少し後ろにいる、青と緑の騎手だって、わたしにちょうど追いつけるだけのカードを持っているような気がする。あのプレイヤーたちがさっき出していたのは、どの数だったっけ。
角くんに言われてたのに、やっぱりわたしは他のプレイヤーのカードまで覚えていられなかった。
大丈夫、と首を振る。今のところうまくいっている、大丈夫。心の中でそう唱えながら、わたしは手綱を握り締めた。
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