7-2 ボードゲーマーの兄さんとプレイヤーの角くん

 ■■


 兄さんは眼鏡越しに何か企んでいるかのような笑顔を浮かべて、人差し指の先をわたしに向ける。


「で、瑠々るるは今『そんなに難しくない』って言ったけど、これが案外難しい。まず、お題の単語は抽象的なものも多いし、そもそも人に説明するのが難しいものがほとんどだ。その上、記憶カードの絵も扱いに困るものが多い。さらには」


 わたしに向けられていた人差し指が、上を向いて、ぴんと立てられる。


「プレイヤーの中には一人、主人格であるダニーが紛れている」

「主人格?」

「そう。プレイヤーの目的は、コミュニケーションを成立させてダニーの心の中に自分の居場所を作ること。コミュニケーションが成立、つまりはお題当てに成功すれば、プレイヤー全員の勝ち。ただし、主人格のダニーだけは目的が違って、自分以外の副人格たちを消し去りたいと思っている。ダニーのプレイヤーは、コミュニケーションを失敗させたら、勝ちだ」

「ダニーは、お題当てを邪魔してくるってこと?」

「そうなんだけど、ダニーもこの心の中では副人格のフリをしている。そうやって正体を隠したままこっそりと、お題を当てさせないようにしたり、議論を誘導したりする」


 わたしは首を傾けて、少し考える。


「まだちょっとわからないんだけど、ダニーが正体を隠す意味ってあるの?」

「お題当てを間違ったとしても、最後にダニーの正体がバレてしまったら、副人格たちの勝ち。だから、自分がダニーだとバレないように、でもお題を当てさせないように、しないといけない」


 なんだかまだよくわからなかったけれど、そういうものか、とわたしは頷いた。そして、なんだかダニーになるのは嫌だなって思ってしまった。

 だって、そんなふうに嘘をつきながら邪魔をするなんて、自分にできる気がしなかった。


 ■□


 兄さんの部屋には大きな棚がある。何度か増設されていびつな形のその棚のほとんどを埋めるのは、ボードゲームだ。それでもまだ棚に入りきらないボードゲームの箱が、棚の前に溢れて積み上がっている。

 兄さんは、その棚の前に立って、ゲームの箱を引っ張り出している。

 わたしとかどくんは、兄さんの部屋の大きなローテーブルの前に、並んで座っている。せめて着替えたいと言ったのだけれど、兄さんには「そのまま部屋から出てこないつもりだろう」と言われて、引っ張ってこられた。

 角くんは困ったように、兄さんとわたしの間で視線を動かして、そわそわとしている。


「兄さんと、知り合いなの?」


 小さな声で、隣の角くんに声をかける。角くんはびくりとしてからわたしの方を見て、やっぱり困ったような顔をした。


「ボドゲ会でよく一緒に……お世話になってるっていうか。大須だいすさんのお兄さんだったんだね」


 角くんはちょっと溜息をついて「世間は狭いや」と呟いた。


「わたしの、兄さんだって知らなかったってこと?」

「ボドゲ会だと本名知らない人の方が多いよ。名札に書いてある名前で呼び合うし。ボドゲの話しかしないから、相手がどういう人かもわからないし。俺もずっと、いか・・さんとしか呼んでなくて……名字はさっき表札見て知ったし、下の名前も知らないし」

伊佳瑠いかるだよ。大須だいす伊佳瑠いかる

「いかる。ああ……だから『いか』」


 角くんの話を聞きながら、そんなこともあるのかと少し不思議な気持ちになる。二人が知り合いだったということも、お互いの本名すら知らずに仲良くなったということも。

 それから、そんなふうに名前も知らない人たちが集まってボードゲームを遊んでいるってことも。


「カドさん、この辺り手放そうかなと思ってるんですけど、どうです?」


 兄さんがボードゲームの箱を重ねてテーブルの上に置く。


「あ、はい、確認します」


 角くんはびくりと身体を竦ませてから、積み上がった箱に視線を走らせる。


「『エバーデル』手放しちゃうんですか?」

「英語版と日本語版を両方買っちゃって……拡張は日本語版で買っちゃったから、英語版は手放そうかなって」

「日本語版の方が遊ぶの楽ですよね、やっぱり。あ、『アイル・オブ・スカイ』も手放しちゃうんですね」

「ああ、それは棚の都合で。悩んだんですけどね、あとこれとかも。箱開けて状態確認します?」

「いかさんは丁寧だから状態は心配してないですけど。あ、『011ゼロワンワン』はコンポーネント見てみたいかも」

「あー、あのボード、カドさん好きなやつだと思いますよ」


 ボードゲームを前に、角くんと兄さんが何やら盛り上がって話をしている。わたしは少しの間それを眺めていたけれど、特に自分がいなくても良いんじゃないかって思い始めていた。


「話がないなら、わたし部屋に戻るね」


 立ち上がろうとテーブルについた手を、兄さんが掴む。


「待てって。ボドゲ部の話を聞きたいなって思ってカドさんを呼んだんだ。家なら瑠々るるもいるし」

「え……俺、いかさんが手放すゲームを格安で譲るって言うから来たんですけど」

「それも別に嘘じゃないですよ」


 兄さんは眼鏡越しに何か企んでいるかのような笑顔を浮かべて、わたしと角くんを交互に見た。


 □■


 ルール説明──インストが終わったら、頭の中で声がした。


「わたしたちはただ、居場所が欲しいだけなんだ」「消えたくない」「ただここにいたいだけだ」「存在したい」「誰かこの言葉に気付いてくれ」


 思わず両手で耳を塞いでしまったけれど、その言葉は頭の中に直接流れ込んでくる。


「ダニーに正気を取り戻させるな」


 わたしの目の前で、兄さんが片手を耳に当てて固まっていた。それできっと、同じように声が聞こえているんだと思った。

 隣をそっと見上げると、かどくんは口元に手を当てて、目を見開いている。そして、ふとわたしの方を見て、目が合った。


「角くんも、聞こえた? 今の」


 聞こえた声の内容を話そうとするわたしを、兄さんが遮った。


「声の内容は口に出すな。今のは多分、正体に関わる話だ。今の声で、みんな自分がダニーなのか、副人格なのか、わかったんじゃないのか?」


 わたしは瞬きをして、声の内容を思い返す。「ダニーに正気を取り戻させるな」っていうあの言葉、あれはつまり、わたしがダニーじゃなくて副人格の方だってことだろうか。

 そこまで考えて、わたしは違和感に気付いた。


「待って。今、角くんも兄さんも、あの声を聞いたの?」

「だから、その話は」


 兄さんが、呆れたように眉を寄せる。わたしは首を振った。


「違う、内容のことじゃなくて。今まで、角くんとゲームの世界に入ったときは、プレイヤーはわたしだけで、角くんはプレイヤーじゃなかった。でも、今回は角くんもプレイヤーってこと? 兄さんも、ひょっとしてプレイヤーなの?」


 隣で角くんが小さく「あっ」と声を出した。


「そう、だね。確かに今回は俺もプレイヤーだ。初めてかも……」

「そうなのか? 小さい頃は、いろいろだっただろ」


 兄さんが眉を寄せたまま言う。わたしは兄さんのその表情を睨み上げる。


「前のことは覚えてないもん」

「まあ、だとしても、だ。なんでこうなってるのかわからない以上、そこを気にしても仕方ないだろ。とにかく、今回のプレイヤーは、俺と、カドさんと、瑠々るるの三人。この中の誰かがダニーだ。ゲームを遊ぶのにはそれで支障はないわけだし」


 兄さんの言葉に納得がいかないわたしは、隣の角くんを見上げる。角くんはちょっと瞬きをして、それから穏やかに笑った。いつもみたいに。


「いかさんの言う通りかもね。考えてもわからないし。とにかく今は、ゲームを進めよう」


 自分のことなのに全然わからないのがもどかしくて、落ち着かない。

 けれど、角くんや兄さんの言う通り、考えてもわかることじゃないし、ゲームを進めるしかないんだろうな、と溜息をついた。今はとにかく、ゲームを進めて終わらせてしまいたい。

 周囲の並んだ額縁を見回して、自分がダニーじゃなさそうで良かったなんて思ってから気付く。


 わたしがダニーじゃないってことは、角くんか、兄さんのどちらかがダニーってことだ。


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