第41話 ふたりと、花火2
「とんでもありません」
だが、ぱ、と志乃は華やいだ声で応じてくれた。
「お仕事お疲れさまでした、旦那様」
とろけるような笑みに、思わず鞄を床に取り落とす。同時に、志乃に手を伸ばし、その身体を引き寄せた。
そ、と顔を寄せ、唇を重ねようとしたとき。
遠雷に似た音が、響いてきた。
「……花火、ですか?」
すぐ間近で、ぱちぱち、と志乃がまばたきをする。
「この辺りでも見えるのですか?」
「さあ……。どうだろうな」
なんとなく、ふたりで庭へと移動した。
雨戸を開け、縁台に出る。
並んで、夜空を見上げて。
顔を見合わせて苦笑した。
「やはり、見えんな」
「音は聞こえてきますけどね」
居留区の打ち上げ花火は有名だが、慶一郎の屋敷から見えた、ということを聞いたことはなかった。
だが、そもそも関心がなかったし、目の悪い祖母との暮らしで、『花火』などという単語が出てくることもなかったので、ひょっとしたら、見えるのだろうか、と期待したのだが。
音ばかりで見えない。
「あら」
屋内に戻ろうとしたとき、志乃が声を上げた。
「旦那様、ほら」
志乃が指さす方を見やり、慶一郎も口元を緩める。
ホタルだ。
ちらちらと蛍光色の光がふたつみっつ、舞っている。
「水辺に集まるのでしょうか。ホタルが来るなんて、素敵ですね」
しきりに志乃が感心しているが、慶一郎も、自分の庭にホタルがいるなど、知らなかった。
(よく考えれば、夜の庭を見ること自体、初めてかもしれん)
今まで、夜に自室を出るなど。
ましてや、庭に行くなど、考えられなかったからだ。
闇が濃くなると、二階の主の力が強まる。
屋敷の住人は、ひたすら朝になるのを部屋でひっそりと待つしかない。
慶一郎は、ちらりと隣に座る志乃を見る。
志乃は珍し気にホタルを眺め、時折響く、花火の音に合わせて夜空を見上げた。
整った、きれいな顔立ちの娘だ。
肌のきめも細かく、髪など上等な黒絹のようだ。
(志乃が来てから……)
そう。
彼女が来てから、すべてが変わった。
穏やかで、物静かな娘だが。
この瀧川家に疾風を呼び込み、そして、変化をもたらした。
志乃が起こした変化は。
ドミノ倒しのように、瀧川にいたすべての者を幸福へといざなってくれた。
「しばらく眺めていてもよろしいでしょうか」
ふ、と志乃が視線をこちらに向け、首を傾げる。
「もちろん」
みつめていたことに気づかれただろうか、と、慌てて顔を背ける。
「暑くないか?」
なんとなく尋ねると、微笑んだまま首を横に振った。
「平気です」
「そうか。……座らないか?」
立たせっぱなし、というのに、気が引けた。
慶一郎が呼びかけると、素直に志乃は自分の隣に腰かける。
肩を寄せ合って並んでホタルを眺めていたが、思い出したように志乃が顔をこちらに向けた。
「そういえば、アメリアさんから、絵本をいただきました」
「絵本?」
なんだ、それはと慶一郎がいぶかると、志乃は目元に笑みをにじませた。
「子が生まれた時に、読んであげて、と。外国の絵本ですが……。絵がとてもきれいで……。今、少し訳しているところです」
なるほど、生まれてくる子のためのものか。
慶一郎は、ふと、志乃の腹に目を向ける。
「……本当に、そこに子がいるんだろうか」
心底、不思議だ。
特段、目立っているわけではない。
出張前に閨で見ても、つるん、としていた覚えしかない。
二階の主は、腹に子が居る、と言っていたが、今でもどうにも信じられない。
「月のものが止まっていますし……。多分」
はにかむ志乃に、それでも慶一郎は首を傾げた。
「もっとこう……。腹が出てくるものなのだと思っていた」
ためらいがちに、彼女の腹部に触れる。
「触ったら、動く、とか」
着物越しに触れても、温度すら感じない。
「まだ、腹帯も巻いてませんし……。もう少し、お待ちください」
くすくすと志乃が笑うので、なんとなく口をへの字に曲げる。
「まあ……。大事にしろ。それから、翻訳だなんだと無理をするな」
「それはもちろん」
志乃は満面の笑みで下腹部に手を当てた。
「来年はきっと、この子も一緒に花火を観るんでしょうね」
言われて、はた、と気づく。
そうだ。
きっと来年にはそうなることだろう。
今はこうやって二人並んでいるが。
来年はきっと、ふたりだけではない。
「志乃」
「はい」
彼女の手を強く握った。夜闇の中で、志乃が驚いたように目を見開く。
「今から、花火を観に行こう」
「今から、ですか」
きょとんと自分を見上げる彼女に頷く。
「花火はさっき始まったばかりだろうし……。人力車でも馬車でも。アメリアの屋敷まで行かずとも、とにかく、港の方に行けば、観えるだろう」
「ええ、まあ」
戸惑う志乃は、小首を傾げて尋ねる。
「ですが、どうして……」
そんなに観たいのか。
志乃の目はそう問うている。
「ふたりで、観たい」
慶一郎はきっぱりと言う。
言ってから、頭の中でいろいろ考えた。
来年、新しく産まれた家族と三人で観るのもいいだろう。
再来年、千代も交えて観てもいい。
その次の年には、さらに家族が増えているかもしれない。
それはそれできっと賑やかで楽しいことだろう。
だけど。
志乃とふたり。
花火を見上げ、思い出を作れるのは、今年しかない。
だから。
ふたりで、観たい。
そう言いたいのだけど。
やはり、自分は言葉が足りない。
「では、急いで準備をしなくては」
どう言えば伝わるだろう、と散々悩んでいたのに、志乃はにっこり笑ってそう応じた。
「ふたりだけで、花火を観に行くなんて贅沢ですね」
照れたように笑う志乃の手を、慶一郎はぎゅ、と強く握る。
「行こう」
すっくと、立ち上がる。
言葉が足らずとも、なんとか通じたらしい。
慶一郎は志乃の手を取り、縁台から玄関に向かった。
ふたりっきりで、花火を観るために。
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