番外編
第40話 ふたりと、花火1
「お帰りなさいませ、旦那様」
上がり框に両膝をつき、
正確には、慶一郎、というより、慶一郎が持つ鞄に、だ。
「松はどうした」
顔を動かさず、視線だけで屋内を見やる。
廊下に照明器具はないが、障子越しに居間がぽわり、と明るい。千代と共に、そこにいるのだろうか。
だとしても、女主人とともに出迎えるべきではないのか。
「お松さんは、千代様と一緒に、アメリアさんのところに行っています」
「は?」
口を突いて出たのは、きつい言葉だったが、志乃は少し目を見開いた程度で、すぐにまた、緩く笑んだ。
「今日は港の方で花火が上がるとか」
「……ああ。もう、そんな時期か」
ふと、言葉が漏れる。
居留地区で行われる、花火大会だ。
夏を目前にして、外国人たちが花火師を雇い、毎年盛大に夜空に打ち上げる。
アメリアの屋敷は位置的に絶景に違いない。
去年まで誘いがなかった、ということは、目の見えない千代に配慮したのだろう。
「アメリアさんがお招きくださって……。千代様おひとりで伺うのもどうかと思いましたので、お松さんに同行していただきました」
志乃は相変わらず両膝を床につき、見上げるような姿勢だ。
なんだか、その態勢が腹に悪そうで、慶一郎は不安になった。
「その場合、志乃が同行すべきではないのか」
なんとなく、口早になるし、なんの疑問も抱かず、千代に同行した松にも腹が立ってきた。
松は、女中だ。
二階の主が姿を消し、この屋敷に怪異が去ったため、慶一郎が口利き屋を介して雇い入れた女だった。
年のころは五十代。
ふくふくとした体形と陽気な性格に、志乃や千代とも上手くやれるだろうと思った。
引き合わせたところ、案の定、女同士はすぐに打ち解け合った。
ただ、かしましい。
雇ってみて気づいたが、とにかくよくしゃべる。
慶一郎にとっては欠点だが、女たちにとっては、美点のようだ。志乃も、いつもにこにこと松に接している。
今まで家事は志乃が取り仕切っていたとはいえ、腹が大きくなり、子も産まれたら人手は大いに越したことはない。
慶一郎は現在、商品の販路を帝都と海都だけではなく、地方にも拡大させようとしており、海路だけではなく、鉄道運輸に手を伸ばしている最中だ。
実際、今回の出張はその地方との打ち合わせや、組合との顔合わせだった。
今後しばらくはこの忙しさが続くだろう。
自分不在の間、高齢の祖母や身重の妻に負担をかけたくない。
だから、女中を雇った、というのに。
「なぜ志乃が残って、女中がアメリアのところに行くんだ」
自分の出迎えなど女中にやらせればいいのに。
「……申し訳ありません」
志乃の口から、ぽつり、と漏れた声が、慶一郎の頬にあたって、儚く潰える。
そこで、やっと我に返った。
今まで全く意識していなかったが、志乃にとって、自分の物言いは随分と荒く、そして言葉が足らないらしい。
あくまで、慶一郎は、「アメリアが招いたのはお祖母さまと志乃だろう」「志乃にもあの花火を見せてやりたかったのに」という意味が含まれた、『なぜ志乃が残って、女中がアメリアのところに行くのだ』だったのだが。
目の前の志乃は、しょぼくれ、自分に伸ばしていた手も、膝のあたりで丸まってしまっている。
「いや……」
慌てて慶一郎は口を開く。
「別に志乃の判断を責めているわけではない」
急いで喋ったせいで、こちらもまた、語気がきつくなってしまった。思わず舌打ちしたくなったが、それはそれで、また志乃の態度を咎めているようだ。
「お松さんは、自分が残ると申し出てくれましたし、千代様は三人で行こうとおっしゃってくださったのですが……、その」
志乃は相変わらずうなだれたまま、目線だけ自分に向けた。
「今日は旦那様が久しぶりにご帰宅される日ですし……。どうしても……。ちょっとでもその……」
つい、と上がった視線は、だけどすぐに下ろされた。
「少しでも早く、旦那様にお会いしたくて……。それで、私が残る、と、わがままを」
志乃の発言が慶一郎の脳を一巡りし、それから内容を理解して、言葉のひとつひとつが身体を巡ったあたりで、慶一郎は自分でも自覚するほど、顔が熱くなった。
おもわず身じろぎすると、気配を察したのか、志乃が視線をこちらに向けた。
「あの……。また、お叱りを受けるでしょうが、こうやって、旦那様が無事に戻られたのを確認することができて、ほっとしました。旅先で、お怪我をなさったり、体調を崩されたりしてないか不安で……」
「小さな子どもでもあるまいし」
首まで赤くなった顔を見られたくなくて、慶一郎はぶっきらぼうに言い放ち、背を向ける。
靴を脱ぐふりをして、顔を隠した。
「あの、鞄を……」
「いい。自分で運ぶ」
重たいものを持たせられない、と断ったのに、これもまた、志乃には『触るな』と聞こえたらしい。
気まずい沈黙の後、志乃が、そっと声をかけてくる。
「では、お食事を用意しましょうか。それとも、先にお風呂になさいますか」
「風呂」
短く言い放ち、廊下に上がる。
数歩進んだところで、慶一郎は足を止めた。
明らかに、この態度はダメだ。
さっきの「風呂」しか返さなかった、言葉もまずかった。
現に、背後から感じる志乃の雰囲気は明らかに澱んでいる。
「志乃」
「はい」
試しに呼んでみたら、やはり、声が沈んでいた。
「その……」
鞄の持ち手を握りしめて振り返る。
「はい……」
自信なさげに自分を見上げる妻に、おもわず逃げ出したくなる。
違う、違う。そうじゃないんだ。
志乃と出会って、何度そう思ったことだろう。
こんなに自分は志乃のことを大事に思っているのに、時折まったく通じていない時がある。
志乃の愛情は自分に伝わって来るのに、どうして自分の気持ちは相手に上手く伝わらないのだろう。
一生懸命に何を言うかを考えていると、無駄に時間ばかりが過ぎ、気づけば長い間無言で見つめ合っている。
結局。
「……ただいま」
慶一郎が告げたのは、それだった。
「留守を、ありがとう」
自分で自分の言葉を聞き、後頭部を殴られたのではないかと思うほどの衝撃を受けた。
もっと気の利いた言葉はないのか、と愕然とする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます