第42話 ふたりと、長い夜1
三週間ぶりに我が家に帰って来てみたら、千代と松の力が増大していた。
「とにかく、寝ない子なのです、
「あれでは、志乃さまがいつか倒れてしまいます」
「代わってあげようにも、
「あれは抱き癖ですよ、抱き癖。大奥様。泣いても放っておくべきです」
「まあ、なんということを言うの、松。泣くというのは、子が親を呼んでいるのです。それを放っておくなんて」
「ですが、志乃さまの手なんて、腱鞘炎で……」
「そうなのよねぇ……。妾なんて、少し抱っこしただけで、肩が凝って、肩が凝って……。鍼灸師を呼んでしまったわ」
「きっと、
「だから、松。そんな非科学的なことを言わないで頂戴。仮にも今は、街灯が夜を照らす時代ですよ」
「でも、抱っこばっかりしているから、志乃さまは、あんな包丁すら握れない手になってしまって」
「包丁?」
「なぜ志乃がまだ料理作りなどしておるんだ。お前の仕事ではないのか」
旅装を解く暇もなく、右側から千代。左側から松にしゃべりかけられていた慶一郎は、目をすがめた。
「……それが、ねぇ、大奥様」
「……慶一郎。それが、松の料理というのが……」
千代は頬に手をやり、眉を下げる。
「ものすごく、美味しくないの……」
目を剥いて睨みつけると、当の本人はけろっとしたものだ。
「洗濯や掃除は得意なんですが、料理はねぇ」
「努力をせんかっ」
おもわず怒鳴りつける。志乃なら泣き出すんじゃないか、と思う勢いで言ったのに、反省の色はない。つらつらと、「人には向き不向きというものが」とか言い出した。
そういえば、志乃が妊娠中の時も、松とふたりで料理をしていたような気がする。
慶一郎は、いろいろと申し送りをしていたのだと思っていたが、どうやら志乃が万事取り図っていたらしい。
産後も、松の料理の腕は上がらず、察するに、調理に関しては志乃が行っているようだと知れた。
これではなんのために雇ったのか分かったものではない。
「とにかく、慶一郎。あれでは志乃さんが倒れてしまいますよ」
まだ文句が言い足りない、と歯ぎしりをしている慶一郎に、千代が言う。
「妾では頼りないかもしれませんが、少しは頼ってもらえるように言ってくれないかしら」
「そうですよ。少し坊ちゃんを甘やかせすぎなんです。放っておけばいいんです」
「だから、松。あなたは黙っていて頂戴」
ぱしり、と千代が言い放つが、松はけろっとしたものだ。
出張から帰宅し、出迎えてくれたのは、千代と松だった。
志乃がいないことを訝っていると、子を寝かしつけているのだ、という。
そこから、どうやら志乃が育児に疲れている、と聞かされたのだが。
(……原因は、このふたりにもあるんじゃないか?)
おもわず、眉間にしわが寄る。
なんだか古臭い育児論を振りかざす松と、「頼ってほしい」という割には体力に乏しい千代。
その意見に振り回され、余計に疲れ果てているのではないだろうか。
「とりあえず、志乃に……」
会って来る、と言いかけた矢先、居間にまで赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「ああ……」「また起きた……」
落胆の声を千代と松が漏らす。
ちらりと一瞥して、慶一郎は無言で居間を出た。悪気はないのだろうが、こういう態度が志乃を傷つけているような気もする。
廊下を進む。
この家に来たばかりの頃使っていた、千代の隣の間は、松が使っている。慶一郎は、志乃がいるであろう、洋間に向かった。
「志乃。入るぞ」
横引の扉を開けると、一気に泣き声が大きくなる。
「旦那様」
志乃が赤ん坊を抱いたまま振り返る。
その姿に、少し驚いた。
寝間着姿だ。
嫁いで来てからというもの、志乃は慶一郎より先に寝間着を着ることはなく、朝も慶一郎より先に起きて着替えていた。
自分が洋装で、彼女が寝間着姿、というこの状況が、ひどく非常時で、切迫したように思えて、慶一郎は、後ろ手に扉を閉める。
「すいません。お出迎えもせず、こんな姿で……」
必死にあやしながら、頭を下げる。
そんなことはどうでもいい。
言いかけて、咄嗟に口をつぐんだ。
また自分の物言いがきつい気がしたのだ。
志乃の腕の中では、赤ん坊が大きな声で泣いている。むずがるように、腕を振り上げていた。
その赤ん坊を抱く志乃の手首には、ランプの光をはねつけるように、真白な包帯が巻かれている。
腱鞘炎だ、と松も言っていた。
「代わろう」
慶一郎が両手を伸ばすが、志乃は驚いたように目を丸くした。
「いえ、そんな……。お仕事でお疲れでしょうに。あの……。すぐに、寝かしつけますから」
よく見れば、目の下の隈もひどい。
それなのに、志乃は一生懸命子をあやし、「眠いのね」と優しく声をかけていた。慶一郎はなんと言えば彼女を気遣えるだろうか、と、頭を巡らせる。
『いいから、よこせ』
これは明らかに間違いだ。本心だが、間違いだ。
『わたしが代わるから寝ろ』
言いたいことは分かるが、多分、志乃は従わない。
散々思い悩む間も、慶尚は、ぐずぐずと泣き、志乃はなだめるための声掛けをしていた。
「志乃」
「はい……」
恐縮しきりの目をこちらに向ける志乃に、慶一郎は言う。
「……慶尚が生まれてすぐに出張に出たから、久しぶりに抱っこしてみたい」
自分史上最高に穏やかな声で話しかけてみる。
内容に嘘はない。
志乃が慶尚を産み、五日も経たずに、前々から予定されていた商談のために西国に向かったのだ。
これなら、自分に引き渡すのではないか。
ごくり、と知らずにつばを空気ごと飲み込む。
「……あの。まだ泣いていますが……」
志乃は申し訳なさそうに近づいてきた。
(よし……っ)
心の中でガッツポーズを取りながらも、表面上は無表情で、腰をかがめた。差し伸べる志乃から慶尚を受け取る。
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