第30話 おはよう
目を覚ました時、一番に耳に入ってきたのは、
そっと瞼を開けると。
すぐそばで彼が、自分を抱きしめて眠っている。
くう、すう、と無防備な状態で眠る慶一郎をひとしきり眺め、
起こさないように、と気を遣って布団から出ると、下着や着物をかき集めて手早く身に着ける。
なんだかまだ痛みと違和感があったけれど、それ以上に筋肉痛がひどい。
昨晩のことを思いだして、ひとり真っ赤になりながら、志乃はそっと部屋を出た。
四月にもなると、もう寒さも冷気も残っていない。
志乃は手洗いと洗面を済ませてから、厨房に向かい、朝食の用意をすることにした。
廊下に落としたままだった前垂れを拾上げ、手早くつけて、階段の前を通る。
ふと、足を止めた。
見上げる。
全体的に薄闇に包まれた階上。
漆喰で埋められた扉は、その向こうにある。
(……あの、帯。戻ったのかしら……)
ふと、心配になった。
あの手と目では、自分で帯が結べないのではないだろうか。
慶一郎は自分が倒れた、とは言っていたが、帯がどうなったかは告げていない。
志乃は少し迷ったが、今は傲然と閉じられた扉を前にしては、どうしようもない。
小さく息を吐いて、厨房に向かった。
「さて、今日も一日やりますか」
襷で袂をくくり、てきぱきと朝食の準備を始めた。
ガス釜で米を炊き、味噌汁を作るために、鍋でだしを取る。隣のコンロで、やかんをかけた。お茶のためだ。その後、具となる豆腐を用意し、浅漬けを入れている桶をのぞく。
料理の手順を考え、手と足を動かしていると、なんだか無心になれた。
しゅん、しゅん、と湯が沸く音に顔を上げると、からり、と厨房の扉が開く音がする。
顔を向けると、慶一郎だ。
「おはようございます」
まだ、時間より早いのにな、と目を丸くした。もう、身支度を整えている。志乃自身が洗面を使った時、慶一郎の準備をしておいてよかった。
「おはよう」
眼鏡をかけた彼は、いつも通りだ。
昨晩のように、うなだれたり、熱っぽく自分を欲した彼ではなく、なんだか、ほっと頬が緩む。
「まだ、お時間前ですよ」
言ってから、やかんを火からおろし、ついでに鍋の様子を見る。手早くだしを取り出しながら、慶一郎の声を背中で聞く。
「まあ、うん。いや……。ちょっと心配になって」
豆腐を掌に載せ、さいのめに切りながら、なにがだろう、と彼に目を向ける。
「昨日、その……。痛がっていたし……、その……」
目元を赤くして、歯切れ悪く慶一郎が言うから、うっかり豆腐ごと自分の掌を切るところだった。
「だ、だだだだ、大丈夫です。ありがとうございます。あの……。お布団、そのままにしておいてください。あとでその……、いろいろ洗濯を……」
「いや、こ、こちらこそ……、その、もろもろ、よろしく頼む」
ふたりして顔を赤くし、ごにょごにょと言いあっていたが、ふと目が合い、互いに噴き出して大笑いした。
「こちらが片付きましたら、千代様を起こしてまいります。もうしばらくお待ちくださいませ」
くすくすと笑って、鍋の中に豆腐を落とす。
「わかった」
口の端に笑みをにじませたまま慶一郎は答え、それから厨房を出ようとしたのだが。
ふと、志乃は呼びとめる。
「なんだ?」
不思議そうに尋ねられ、志乃は躊躇った末に、彼と向き合った。
「あの……。差し出がましいとは思うですが、階段の下のところに、お茶やお菓子をお供えしてはいけませんか? あの……。
「階段? 二階の主にか?」
訝しげに問われる。
志乃はこくこくと頷き、なんとなく不安になって近くにあったお玉を両手で握る。
「私、昨日あの方を拝見したとき、自分と似ている気がしたんです」
「志乃に?」
眼鏡の向こうで、瞳がわずかに見開かれた。
「私は瀧川家に来るまで、何一つ知りませんでした。外国のことも、慶一郎さまのお仕事のことも、お菓子のことも……。あそこにいらっしゃる
志乃の言葉は段々と潰えていき、最後には身体を強ばらせて、慶一郎を見上げる。
「だめでしょうか……」
「……いや、好きにしたらいい。和織にも連絡をしておこう」
しばらく志乃の様子を見ていた慶一郎がそう言うので、ぱ、と顔に喜色を浮かべる。
「だが、絶対に二階に近づくな。あくまで、階段の一番下に置け」
「はい」
頷く志乃を見ると、慶一郎はするりと厨房から出て行く。
ほ、と息をついた志乃はその後、一気に味噌汁の仕上げにかかり、空いたコンロで今度は、塩鮭を焼いた。
ぱちぱちと爆ぜる音と香ばしい匂いに、志乃の顔は再び緩む。
塩鮭は、千代の好物だ。
このところ、調子が良くないようだったが、きっとこれは喜んでくれるに違いない。
膳を整え、一旦、厨房を出る。
雨戸を開けながら、千代に声をかけ、それから居間に膳を運んだ。
慶一郎はすでに席に座っていて、新聞を広げて読んでいる。
「おはようございます」
身支度を調えた千代が現れ、志乃は手を添えて席まで一緒に歩む。
膳のどこになにがあるかを告げると、やはり、塩鮭で顔をほころばせた。
「匂いでわかっていたのよ。でも、やっぱりそうだったのね」
ほくほく顔で箸をとり、上品にいただきます、と口にした。
「志乃」
自分の席に座ると同時に、慶一郎から名前を呼ばれる。
「はい」
「新聞受けに、お前のご実家からの手紙があった」
見せられた封書の宛て名は慶一郎だ。
差出人は、父。
「来週の日曜日、我が家にいらっしゃるらしい」
「父が、ですか」
思わず尋ね返す。
嫌な予感しかせず、眉根を寄せると、千代がごほん、と咳払いをした。
「慶一郎」
「はい」
「まさか、結納も祝言も挙げていない苦情を仰りにいらっしゃるのでは……」
わなわなと震えて千代が言う。
「それは無いと思います。父は、この条件で私を嫁に出したのですから」
志乃が口を挟んだ。
むしろ、花嫁道具が必要ないと知って喜んだぐらいだ。
「私が思いますに……。なにかのお願いでは……。その、お仕事にまつわる」
言いながら、やはり不安で胸が詰まりそうだ。
あのカネの亡者達は、結婚を機に、慶一郎にたかろうとしているのでは。
「……まぁ、会って話をするほかあるまい。準備を」
言われて、志乃は小さく、「はい」と返事をした。
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