第31話 綾子
慶一郎に許可をもらったその日から、
「
声をかけるが、当然、返事はない。
二階から出られないのかとおもったが、手鞠や袋帯のことを考えたら、出られないのは「この屋敷の外」ではないのか、と志乃は思っている。
その予想の通り。
彼女は、次の日に姿を現した。
志乃が居間の掃除をしていると、しゅるしゅると、帯を引きずる音がする。
慌てて飛び出すと。
廊下で、彼女と出くわした。
相変わらず目隠しをしており、伊達締めだけの、振り袖姿だ。手には金色の袋帯と派手な帯揚げ、帯締めを、だらりと下げている。
以前、聞いたとおり。
左腕はないようだ。袖から手首が見えない。
危機を感じたのが、水雪が庭から飛び込み、しゃあ、と毛を逆立てるが、志乃は「大丈夫、大丈夫」と宥めて、福子を見る。
「私でよろしければ、帯を締めましょうか」
そっと声をかける。
「そこにいるのか?」
涼やかな福子の声に、「はい」と返事をする。すると、ゆっくりと、帯を差し出し、ぐるり、と後ろを向いた。
志乃は帯を受け取り、彼女に近づく。
そして、更に哀れに思った。
その背丈に。
華奢な身体に。
子どもだ。
千代も、十二歳と言っていたではないか。
道理で、部屋に散らかっていた道具が、幼かったわけだ。
志乃は、警戒を緩めない水雪を従え、彼女の腰に帯を回す。
細く、頼りない。
(こんな子を、目隠しして閉じ込めるなんて……)
胸が詰まりそうだ。
志乃は、できるだけ丁寧に、そして見栄え良く、帯を結う。
「どうですか? ふくら雀にしてみました」
襷を使って、娘らしく、飾り帯にしてみたのだ。志乃は福子に笑いかけた。
「女の子らしいものにしました。福子様によくお似合いですよ」
福子は、ゆるゆると顔を上げ、表情の窺い知れない顔で志乃を見上げる。咄嗟に水雪が志乃の肩に飛び乗った。その重さに、身体が揺らぐ。
「福子、ではない」
女の子は、長い髪を揺らし、首を振った。
「それは、皆が勝手に呼んでいるだけ」
きっぱりと言い切り、志乃は思い出す。
水雪も言っていた。
『もう、名前なんてだあれも覚えていないにゃ』
「あやこ。糸偏の、綾子」
ああ、そうか、と志乃は、ぐっ、と唇を引き絞る。
この子は、閉じ込められただけではなく、名前さえ、奪われていたのだ。
「綾子様でいらっしゃいましたか。これは失礼いたしました」
ぺこりと頭を下げると、水雪が背中に移動する。
ゆっくりと顔を上げた頃には。
もう、綾子の姿は消えていた。
だが、次の日も、彼女は姿を現した。
志乃がお茶と洋菓子を供えるからなのか。
それとも、慶一郎と毎晩同衾しているせいで、瀧川の気配がつよくなっているせいなのか。
綾子は、志乃に害を加えるそぶりは見せない。
「志乃はどこ」
そう声をかける。
そうして、遊びをねだるようになった。
手鞠をついたり、お手玉で遊んだり。
時間とすれば数分程度だ。それが、日々、何度か起こる。
志乃は彼女が現れると、家事の手を止め、遊んだ。
不思議なことに、アメリアが居るとき、彼女は姿を現さないので、どうしてなのだろう、と尋ねたことがあった。
『あの女人は、まじないが違う』
短く答えられたので、多分、言語が違うことが関係しているのだと推測した。
だから、あれだけ頻繁に彼女が瀧川家に訪問しても、彼女にはなんの危害もなかったのだ。女中や下男はすぐやめるというのに。
当初、お茶や洋菓子を供えることに不安を示していた千代だが、志乃を介して、だんだん、綾子と交流を深め始めた。
本来、目の見えない者同士なので、遊びが共通するらしい。
綾子にお茶とお菓子を供えてから四日目、「香合わせはご存じ?」と、千代が綾子に尋ねた。
このときも、水雪はどっしりと千代の膝に座り込み、「最後の砦はわっしにゃ」と琥珀色の瞳で睨み付けていた。
「道具は、ある」
綾子が言った瞬間、畳の上に道具箱が現れる。
「では、勝負」
うふふふ、と千代が笑い、綾子との闘いが始まった。
香合わせ自体、志乃にはまったく知らないもので、ただただ、傍観していたのだが。
勝負が決した後、ふたりは、なんだか友情を深め合ったように頷いた。
その後、次第に不思議なことが起る。
まず、ずっと体調不良だった千代の病が改善し始めた。
次に、「度が合わない」と慶一郎が言い出し、眼鏡を外したところ。
「……。普通に、見えるな」
眼鏡が不要になったのだ。
その代わり、一日の大半、瀧川の家には綾子が姿を現した。
特に、家人の邪魔をするわけでもない。
志乃と少し遊び、後は、千代と一緒に過ごすだけだ。
時折、夕飯時に姿を現しては、慶一郎に仰天され、「綾子さんじゃないの。いやねぇ」と千代にたしなめられていて、志乃が吹き出す事態も起った。
そうやって。
一週間が、過ぎた。
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