第24話 和織

 次の日。


「へえええええええ!!! お前、本当に嫁を貰ったのか!」


 慶一郎けいいちろうに連れて来られた喫茶店で、志乃しのは肩を丸めて小さくなっていた。


 というのも。

 友人だという和織かずおりは、遠慮もなく、じろじろと志乃を眺めまわすからだ。


「やめろ。嫌がっているだろ」

 慶一郎が不機嫌な声で唸る。


 上目遣いに彼を見ると、高足のバースツールに座り、片手でグラスを弄んでいた。


 メガネの奥の鳶色の瞳が不機嫌そうに細まり、志乃など、その顔を見ただけで心臓がちくちくするというのに、和織は一向構わない。


「嫌がってるだろ、だって。かー、大切にしちゃって、もう!」


 ばしり、と慶一郎の肩を叩くから、ひぃ、と志乃は飛び上がりそうになる。


 拍子に、ぐらり、とバースツールの上で体勢を崩した。

 足の長い慶一郎は、どっしりと床に足がつくようだが、志乃は座ったものの、つま先しか床に届かない。


 じたばたとみっともなく足掻いたところで、慶一郎が手を伸ばして支えてくれる。


「大丈夫か」


 呆れたように慶一郎が言い、志乃は顔を真っ赤にして、こくこくと頷いた。

 今度は、無様にならないよう、しっかりとカウンターを握りしめる。


「しかし、お前、これ……」

 慶一郎は、ぐるりと店内を見回し、眉根を寄せた。


「いろんなものが、ごちゃまぜだな。なにをどうしたら、こんな節操のないことになるんだ」


 その語尾は、かーん、という甲高い音と、いくつもの球が転がる音。それから、気だるそうな拍手に潰える。


 志乃は、前かがみになり、慶一郎の陰から、店の奥を見やる。


 そこにあるのは、ビリヤード台だ。


 今は、四人ほどのスーツ姿の男性が、くわえたばこでゲームをしているらしい。見たこともない長い棒で球を突く姿は、なんとなく、獲物を狙う猫のようにも見える。


 そして、部屋の中央にあるのは、色とりどりの酒瓶やグラスが並ぶ、バーカウンター。


 店内入ってすぐの、大きな窓から通りが望める場所は、ソファや重厚そうな椅子が設置され、喫茶空間となっていた。


 数人の洋装をした女性が上品にカップを傾けておしゃべりに興じ、一組のスーツ姿の男たちが、商談を行っていた。そこそこの客の入りだ。


 ちなみに、二階は完全にバーで、夜はそちらを稼働させるのだそうだ。


「最初は、カフェにしようとおもったんだ」


 蝶ネクタイにベスト。ギャルソンエプロンをした長身の青年は、がりがりと短髪をかき上げた。黙っていると絵になる美青年なのだが、ひとたび喋ると、くるくると表情が変わるため、どこか三枚目の印象になってしまう。


「そしたら、ほら。当世、コーヒーを楽しむというより、女給目当ての盛り場みたいになってきたじゃないか、カフェって」

 顔を顰めて言うから、へぇ、と志乃は素直に驚いた。そういえば、カフェの女給といえば、顔がいいことが条件だと聞く。


「まぁ、なあ」


 ちらりと慶一郎が志乃を見たのは、話の内容にためらいがあったからだろう。志乃はなんとなく、「おふたりの会話は聴いていませんよ」という風を装い、カウンターに顔を向ける。


 そこには、さっきウェイターが運んできてくれた紅茶があった。


(きれいなカップ)


 柄といい、佇まいといい、なんとなく古風なものを感じさせるカップとソーサーだ。

 白磁に紅茶の水色がよく映えている。


「べたべたべたべた、女給が客に寄り添ってさ」

「……まぁ。そうやってチップをもらうんだろうし」


「それってもう、男しか客が来ないじゃないか! それは嫌だ!」

 力強く断言するから、志乃は紅茶を噴き出すかと思った。


「おれは、店中を女の客でいっぱいにしたい! で、誰もがうらやむハーレムにするんだ」


「……運営の方向性は完全に間違っているが……」

 眩暈を覚えたかのように、こめかみを押さえる慶一郎だったが、店内を見回し、苦笑いを浮かべた。


「それなりに客がいて安心した」


「今が一番暇な時間帯なんだよ。このあと、三時ごろにまた、がーっと人が来て、あとは夜の洋食だな」

 腕を組み、ふん、と和織が胸を張る。


「最近、うちにも問い合わせが何件か来ているぞ。あの店で使っているマイセンが欲しい、とか、バカラを取り寄せてほしい、って」


「は。手が出せる値段かね」


「偉そうに。この店、初期費用は伊織おじさんだろ」

「ちゃんと返していますー。返済計画通りですー」


 口を尖らせて言い返す和織を見ながら、志乃は自分の手元のカップを見やる。これもそのマイセンとやらなのだろうか。高価なのかな、と首を傾げながら見つめる。


「でもあれだなー。もう、お前、これで夜遊びできなくなったなあ。芸妓遊びとか」


「誤解のある言い方はよせ。わたしは仕事で行ってるんだ」


 不機嫌そうな慶一郎とは対照的に、和織はどこか楽しそうだ。志乃と目が合うと、人の悪い笑みを浮かべて見せる。


「すっごくモテるんだぜ、こいつ。だから、外国人の商人たちも慶一郎と行きたがるんだ」


「やめろ、って」

 ぶすっとしたまま、慶一郎が言い放つ。


「旦那様は、それはそれはお優しいですし、お顔も良いですから……。人気者なのは当然です」

 真顔で頷くと、慶一郎は困惑し、和織は腹を抱えて笑う。


「いいなー。おれも早く嫁を貰いたい。それで、うちの親みたいに仲良く暮らすんだー」


「お前のところの親御さん、仲いいからな」

 慶一郎は苦笑いを浮かべ、グラスの中の琥珀色の液体を飲む。中身は、ウイスキーの水割だ。


「所帯持って、もう、二十年以上だろ? 子どもも5人いてさ。それであの仲の良さだぜ」


「伊織おじさん、穏やかな方だからなぁ」


「穏やかなもんか。気が強ぇ、強ぇ。そうじゃなきゃ、店をあんなに繁盛させられるもんか」

 顔をしかめて和織は、目の前で手を振って見せる。


「おれ、何回も親父とケンカしたもん」

「きょうだい衆のなかで、ケンカばっかりなのはお前だけだろ」

 あきれて慶一郎が言う。


「一回、つかみ合いのケンカして、おれの拳が親父の顔に当たった時があってさ」


「……信じられん。まず、あの伊織おじさんがつかみ合いをしているところが想像できん。何やったんだ、お前」


「いろいろ。で、おれもさすがに、『やべ……』って思ったんだけど。おふくろがさ」


「さぞかし、驚かれただろう」


「『伊織さんに何するの、バカ息子!』って、おれの顔を殴ってきてさ」


「…………信じられん。あの小夏さんが……」


「ほら、おふくろ、人殴ったことなんてなかっただろうから、フルスイングなのよ、もう、おれ、床にぶっ倒れてさ。数秒、意識なかったんだよな」


「……なにやってんだ、お前」


「『大丈夫ですか、伊織さん』って親父に言うんだけど、おふくろの手もパンパンに膨れ上がってんだ。ほら、おれを殴ったから。親父、それを見てまた、めちゃくちゃ怒って、『この放蕩息子がっ』って、倒れたおれを蹴りまくるんだよ。おれ、まじで死を覚悟したし、このふたりを敵に回すのはやめよう、っておもったな」


「…………」


「で、同時に、ああ、こんな夫婦になりたいなぁ、って思ったんだよ。ま、息子を殴ったりけったりする親だけど」


「その前に、お前がいろいろしたからだろ」

 ため息交じりに慶一郎が言っても、和織のなかでは、なんか、いい話になってしまっているらしい。しきりに頷き、それから志乃を見た。


「志乃ちゃんは、こいつと、どんな夫婦になりたいの?」

 立てた親指で慶一郎を指し、首を傾げる。


「どんな夫婦」

 ぱちくりと目を見開き、志乃は慶一郎を見る。


 以前、アメリアに夢を問われた時、千代と慶一郎と。いつまでも家族仲良く暮らしたい。そう言ったことはある。そして、それは今でも願っているし、そうなるように努力もしている。


 だが、これは〝家族〟のことだ。


 和織が問うているのは、もっと最小単位。


「……わかりません」


 ぽつり、と唇から洩れたのは、本心だ。


 眼鏡の奥で、慶一郎の瞳が揺らぐのが分かった。

 ふ、と強い風を吹きかけられたろうそくの火のように、頼りなく揺れる。


「このままが私にとっては、とても幸せなのですが、それは旦那様にとってはどうなのですか?」

 志乃はその瞳に尋ねる。


「和織さまのご両親のように素敵な夫婦を私は知りません。だから、私にとってお手本になるような夫婦と言うのはないのですが……」

 一生懸命頭をひねり、志乃は言葉を紡ぐ。


「私は、旦那様との暮らしが、とても心地よくて安心できるのです。これは、どのような夫婦なのでしょう。そして、旦那様も私と同じ心持ですか?」


 真剣にそう言うと、目の前の慶一郎の頬が朱を刷いたように赤くなった。

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