第23話 女の子
「あ。
申し出られて、志乃は慌てて返事をする。
「かしこまりました。お手を」
手早く糸を通し、先端を珠止めにして千代の手に握らせた。
「……ごめんなさいね、志乃さん」
一瞬、何を謝られたのかわからず、動きを止めて千代を伺う。
「手がそんなに荒れて……。女中がいれば、あなたが水仕事なんてしなくてもいいのに」
済まなそうにうなだれる。
「いえ、そんな……」
「この家は昔から女中が続かなくて……」
ほう、と千代は溜めた息を吐く。
「
「そうなのですか」
では、千代は入り婿を取った、ということだろう。瀧川の直系は彼女らしい。
「そのころには、もう、今みたいに、この家しか瀧川の名が継げる者はいなくてね。気味が悪かったろうに、旦那様は文句ひとつ言わずに、来てくださったわ」
口元を緩める。
「妾のこの目は、十年ほど前に完全に見えなくなってしまったけど、慶一郎さんのお父さんになる
「そうでしたか」
頷きながらも、千代の目元辺りにうっすら浮いた隈が志乃には気になった。
数日前から、千代の顔色が悪い気がする。
春の、透明度が高い日差しが差し込む座敷で、それははっきりと見えた。
(やはり、お身体の調子が悪いのかしら……)
そもそも、慶一郎は『祖母の世話を』と言っていた。
元気そうだし、動作に不便もないので、「目が悪いだけなのだろう」と思っていたが。
少しずつ、疲れやすくなっているのは気づいていた。
「慶一郎も、ほら。眼鏡をかけているでしょう。あの子も少し、目が悪いのだけど……。瀧川の家の者は、血が濃ければ濃いいほど、目が悪い人間が多くて……。妾の父も、盲目だったの」
千代は、針を持っていない方の手を畳に這わせ、端切れの一枚を摘まみ上げる。
「でも、目の悪い人間の方が長生きするのよ、妾のように。だから、慶一郎も長く生きると思うわ。慶春のように真っ当な身体で生まれた人は、短命だもの……」
ぷつり、と針を布に刺す。
「瀧川の家はね、お金には不自由しないの」
つー、と糸が布を通る音がする。
「船を手配したら、その積み荷は無事届くし、何かを売れば、それは誰かにとって価値のあるものとなる。人と知り合えば、素晴らしい人脈にたどり着くし、学んだことは、すぐに生きてくる」
歌うように千代は言葉を連ねた。
「でもね、人がどんどんいなくなるの。まず、分家に子どもが出来なくなって、消滅して……。本家であるこの家でも、五体満足な人間は必ず早死にする。目の悪い人間だけが、こうやって残っていくのだけど……」
また、ぷつり、と布に針を刺す。
「女中も下男も、瀧川家に来ると、必ず恐ろしい目にあう、ということで来てが無くなるし……」
つー、と静かな音が室内に響いた。
「お婿さんや、お嫁さん達は、瀧川の者が毎日、毎日、呼気を吹き込んだり、体液をかわしていないと……」
(呼気……、体液……?)
ふと鼓膜を撫でたのは、慶一郎の声。ついで、唇に蘇るのは彼の呼気と感触。
『朝晩、わたしとキスはしてもらう』
初めての日の、あの晩。
彼は、自分にそう告げた。
「そうじゃないと、連れて行かれてしまうの」
「……連れて、行く?」
どこに、だ。
今までじっと千代の話を聞いていた志乃だったが、つい口を挟んだ。
「あら」
途端に千代が取り繕った。
「いやだわ、妾ったら……。年を取ると、なんでも話が長くなってしまって……。志乃さんの手を止めてしまったわね」
「いえ、それは別に……」
「妾はしばらくこうやっているから、どうぞお気になさらないで」
千代は言うと、黙々と針を動かし始めた。
なんだか尻切れトンボで終わってしまった会話だったが、勝手口の方から魚屋の威勢の良い声が聞こえてきたため、志乃は返事をして立ち上がった。
「失礼します」
声をかけ、障子を開いて廊下に出る。
そこに。
「……え?」
見知らぬ女の子がいた。
年は十歳ほどだろうか。
長く艶やかな黒髪を結いもせずに下し、あでやかな緋色の振袖を着ている。
白磁のような肌に、黒檀よりも黒い髪。豪華な金の帯は、だいぶん崩れてしまい、帯揚げもほどけていた。
だがなにより少女の容貌で目を引くのは。
「……え?」
黒い布で目隠しをされていることだ。
「あ、あの……」
この子は誰だ。
そう思ったとき、女の子は両腕を志乃の方に延ばす。
違和感にはすぐ気づいた。
袖から左こぶしが覗いていない。
右手だけが、何かを探そうと揺れている。
「……違う? 瀧川のにおいがする」
女の子は、ふと、そう呟くと、姿を消す。
「……え?」
茫然と立ち尽くす志乃の耳に、がさり、と木々が揺れる音が聞こえてくる。
とん、と軽い音を立てて庭から飛び込んできたのは、水雪だ。
ふう、と背中を丸くして唸ると、ぱしんぱしんと長い尾を廊下に打ち付けながら、志乃の周囲をぐるぐる回る。
「み、水雪……、いま……」
ここに女の子が……。
そう言おうとした志乃の口を塞いだのは、再び訪いを告げる魚屋の大声だ。
「すぐに参ります」
志乃は慌てて返事をし、足早に走った。その後ろを水雪がぴたりとついてくる。
(……見間違いかしら)
そんなことを考えながら、志乃は勝手口に向かった。
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