第19話 これは、これは。ご挨拶が遅れました

 ふふ、とアメリアは笑い、それからシャンパンを傾ける。


「あなたと慶一郎の子なら、きっと可愛いわねぇ」

 言われて、耳まで赤くなった。言ったものの、実際子ができるようなことを今はしていないのだが。


「あの……。ひとつ、お尋ねしたいのですが」

 ふと、志乃しのはアメリアに声をかけた。


「なに?」

 シャンパンを半分飲み干し、小首をかしげる。


「アメリアさんの国の御夫婦は、朝晩、口づけをかわすのですか?」

 問うた瞬間、彼女がぱちくり、と目を丸くする。


「あの……、ほら。初めてお会いした時、アメリアさんは、旦那様の頬に……、その、口づけを……」


「ああ。あれは、実際に口をつけているわけじゃないのよ」


 くつり、と笑い、アメリアはシャンパングラスを持ったまま、上半身を志乃の方に傾ける。


 咄嗟のことに身体を硬直させたが、アメリアは、ちゅ、ちゅ、と音を立てて頬と頬同士を触れ合わせて見せた。


「ね? チークキスって言って、ほっぺた同士を合わせるの」

「では、夫婦で行うもののそのようなものですか」

 ほっとして志乃はアメリアに言う。


「どうかしら。そりゃあ、キスは当然するけども……。あなた、慶一郎になにか言われたの?」

 不思議そうに目をまたたかせるアメリアに向き合い、志乃は真剣な顔で言った。


「外国の夫婦は、朝晩キスをするのだ、と。もう、これは決められたことなのだ、と」


「ぶっ!」

 アメリアは吹き出し、それから必死に笑いをかみ殺しながら、志乃に話の先を促す。


「私とて、嫁いだ身ですから、その家の方針に従いたいと思いますし、異国での習わしなのであれば、ずっと続けられてきた、意味のあることなのでしょう。ですが」

 言いながら、だんだん志乃は頬が熱くなってくる。


「どうしても恥ずかしいのです。こういったことには、慣れるものなのでしょうか。それとも、幼き頃から風習としてあるそちらの国の方は、照れたりしないのでしょうか」


 真っ赤になる頬に片手を添え、志乃が目を伏せると、くくくくくく、という忍び笑いと、かかかかか、と床をヒールで連打する音が隣から聞こえてくる。


「うひー。面白いっ。なに、あいつそんなことをあなたに……」

 うひひひひ、と笑いながら、緑の瞳がこちらに向けられる。


「わ、わかる……。だって、可愛いもの……。こんな反応するのだもの……っ。そりゃ、強制したくなるわ……っ。だめな男ね、慶一郎。悪い男だわ。愚かだわ」

 ひー、っとひとしきり笑うと、きょとんとしている志乃に、大きく頷く。


「大丈夫よ。わたくしの国の夫婦は、確かにキスをするわ。わたくしのパパとママも、もちろんよ」


「まあ、そうですか……。では、私も慣れなくては……」

 拳を握って決意する。途端にまたアメリアは吹き出し、すっくと立ちあがった。


「ちょっとわたくしは、慶一郎をからかって……、いえ、意見してくるわね。ここで待っていて」

 言うなり、ドレスの裾を翻してまっすぐに人ごみの中に入っていく。


(まあ……。まるで、緋鯉のよう)


 彼女の姿は颯爽としていて、それでいて優雅だ。

 見惚れていると、不意に視界が遮られた。


 視線を上げる。


 気づけば、女性たちに囲まれていた。


 郁代いくよの顔もある。

 どうやら、さっき一斉に睨まれた一団のようだ。


 志乃は慌てて立ち上がり、持っていたグラスをどうしたものか、と視線を泳がせる。給仕の男性が気づき、近寄ってくれたので手渡して、女性たちに頭を下げた。


「はじめまして。瀧川慶一郎の妻、志乃です」

 深く腰を折り、しばらくその姿勢で待っていると、たくさんのあきれたようなため息が頭の上に降ってきた。


「挨拶が遅いのよ」「外国人たちの前に、まずはこちらに来るべきでしょう」


 ひそひそと小声が耳に入り、背中に冷たいものが走った。

 久しぶりに、雪宮の家にいたときのことを思いだす。


「どうも、はじめまして」

 顔を上げると、一番年配らしい三十代の女性が横柄に応じた。いらただし気に扇をぱたぱたと動かし、志乃を見上げる。


「あなた、どこの女学校の出身なのかしら。ここにいる誰かの後輩になるのでしたら、ご紹介して差し上げてよ」

 一重の目でじっとりと見つめられ、志乃は顎を引く。


「いえ……。女学校は、出ておりません」

「まあ」

 その場の全員に大げさに驚かれ、腰がひるみそうになる。


「じゃあ、花嫁修業はなさっていないの?」

 志乃と年が変わらない女が訝しそうに尋ね、それから志乃の手を見る。


「なるほどねぇ……。あなた、『妻』として迎えられたのではなく、『使用人』として扱われているのねぇ」


 その場にいる誰もが志乃の手を見る。

 かさついて、ひび割れて、短く爪が切りそろえられた指。


 咄嗟に握りしめると、「お可哀そうに」と、いくつもの声で言われて耳まで赤くなる。


「ほら、瀧川家って、女中が……」

「雇っても雇っても出て行くんですってね」

「あそこは、目の不自由なおばあ様もいらっしゃるでしょう?」

「気難しいのではなくて?」

 扇で口元を隠して女たちが囁いた。


(女中が……、出て行く?)


 しびれそうな頭で、必死に考えた。

 女中がいないことは結婚前から聞いていた。だから、家事をしないといけないことも知っていたが……。


(辞める……?)


「瀧川の旦那様も、それはそれは気難しいとお聞きしますわ」

「きっと、女中にひどいことなさるのね」


 言われて、かっとなる。


「旦那様はそのようなことをなさいません」

 力強く言い返すと、途端に眉をひそめられた。だが、志乃は言い返す。


「旦那様はお優しくて、気高くて……。博識で……。誰かを傷つけるようなことをなさる人じゃありません」


「きっと、あなただから、耐えられるんだわ」


 きつい言葉を投げつけられ、反射的に声の主を見る。

 郁代だ。

 志乃を見て、にぃ、と意地悪く笑った。


「妾腹の子ですものね」


 途端に、周囲の女性たちが意味ありげに頷いた。

 ひとりの女性が、くくく、と喉を鳴らす。


「きっと、母親と同じで、閨でどんなことを命じられても、嫌がらないのでしょう。男うけすることをなさるのでしょうねぇ。はしたない」


 一斉に、「まあ」と声が上がり、好奇の目で見られた。

 口惜しいやら腹立だしいやらで奥歯をぐっと噛み締めた時だ。


「これはこれは、奥様、お嬢様方。ご挨拶が遅れました」


 聞き覚えのある声が聞こえて来た。

 女たちの垣根を押しのけ、慶一郎が自分の隣に立つ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る