第10話 アメリア

◇◇◇◇


 ぱちり、と千代が糸切ハサミを動かした。


 その後、何度も運針に指を這わし、広げたり引っ張ったりしながら造作を確認する。その時も、瞳は閉じたままだ。


「どうかしら」

「お見事でございます」


 千代が志乃しのに広げて見せたのは、ずっと縫い続けていた青地の半纏はんてんだ。


 縫い目といい、形といい、盲目の老女が作ったとは誰も思えない。ちゃんと裏地がついていて、中に綿も入っている。


 志乃は彼女の側にそっと近づき、針を受け取った。こまごまとしたものを、裁縫道具が入っている木箱にしまう。


 針に糸を通す、とか、片付けを手伝うだけで、裁断も縫製も、すべて千代が行っていた。


「あの子は寒がりだから」

 ふふ、と笑みこぼれる千代に、志乃は改めて思う。


(この半纏は、誰のものなのかしら)

 人形のものだろうと思ったのだが、その人形がここには見当たらない。


「障子を開けてくださらない? 水雪みずゆきがいないかしら」

「はい」


 朝方、庭を一緒に眺めていた白猫は、志乃が家事をしている間に、どこかに姿を消してしまっていた。


 志乃は火鉢を引き寄せ、千代に場所を教える。

 二月の末。日中は暖かかったが、夜になると冷える。時刻は夕方になろうとしていた。


 障子を開け放つと、きっと寒かろう。

 志乃は立ち上がり、障子を開く。


 思った通り、室内に流れ込む空気には、ぴん、と張りがあった。


 襟首をかすめる風に、身体が強張る。


 目の前の庭に視線を走らせた。

 夕暮れに沈む庭。

 そこに。

 猫がいた。

 背中に、間違って墨汁を垂らしたような黒いブチのある猫。


「なおう」

 それは、蝋梅の枝から姿を現した。


 黄色い花びら散らしながら枝を歩き、ふわり、と苔むした岩に着地する。

 のしのしと、昨晩見た通りの尊大な足取りで縁台までやってくると、身軽に飛び上がり、廊下や敷居を横切って近づいてきた。


 志乃の側を通る時、ちらりと見上げる猫の目は琥珀色だ。

 どうも、と言いたげに水雪と呼ばれた猫は髭を揺らして通り過ぎる。


「水雪。どう? ほら。いいでしょう」

 遠慮なく千代の膝に乗った猫は、ぐるりと丸くなり、目を閉じてしまっている。


 だが、千代はその猫に対して半纏をかざしたり、裏返したりしていた。

 聞いてはいるのだろう。猫の耳はぴん、と立っている。


「千代様。お茶の準備をいたしましょうか」

 志乃は障子をわずかに閉めて尋ねる。


「そうね。さっきお菓子屋さんが持って来てくれたものは何?」

「どら焼きでした。お持ちしますね」


 くすり、と志乃は笑う。

 本当に甘いものがお好きらしい。前の使用人はよくもこんなに愛らしく笑う女性の日々の楽しみを自分だけで独占できたものだ。


「ああ、貴女も一緒にここで食べましょうよ。夕飯まで、まだ時間があるでしょう」

「……は?」

 部屋を出ようとした志乃は足を止めて振り返る。


慶一郎けいいちろうの分もあるんでしょう? あの子は甘いものが好きではないから。貴女が食べればいいわ」

「いえ、そんな……っ」


「どら焼きだって、好きな人に食べてもらう方がいいわよ。ねえ、水雪」

 千代は膝で丸まる水雪の背中に半纏を羽織らせてやっている。温かいのか、くふう、と猫は寝息を漏らした。


わたしだって、ひとりで食べるより誰かと食べる方がいいもの」

 そんなことを言われ、戸惑っていると。


「ごめんください」

 訪いの声と、玄関扉が開く音がした。


「見てまいります」

 口実に、部屋を抜け出した。


 足を進めるたびに、廊下がきゅきゅ、と鳴る。

 さっき千代の手伝いに入る前に磨き上げた。飴色の廊下は、年代物だが、まだ脆さを感じない。志乃も掃除のし甲斐がある。


「はい。どちら様でしょうか」

 上がり框で両膝をつき、たたきにいる女性を見て、志乃は、あんぐりと口を開けた。


 そこにいるのは、長い金髪を結いもせずに下した女性だ。


 肌も白く、眼は緑色。

 腰のあたりに膨らみがあるスカートをはき、丈の短い上着を着たその異国人は、志乃を見て目をまたたかせた。


 長いまつげまで、金色だ、と志乃は感動する。


「あなた、新しいメイド?」

 彼女はきれいな声で問うた。


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