第9話 手毬

 その後、食器の片づけをし、洗濯物を干し終わった志乃しのは、千代に声をかけて、掃除にとりかかった。


 雪宮の家に居る時から、掃除は好きだった。


 明確に成果がわかるし、自分としても気持ちがいい。

 指が凍えて動かなくなるほど寒い日や、拭いている傍から汗がしたたり落ちる暑い日でも、志乃は無心に床を拭き、畳を掃いた。


 ここでも、それは同じだ。


 廊下を磨き、玄関を掃き清める。

 次に、来客部屋、居間、千代の居室を掃除に入った。障子の桟や欄間に丁寧にはたきをかけ、それから箒で掃いて、最後に雑巾でぬぐう。

 来客部屋のように調度品があるものも、丁寧に埃を取って行く。


 千代の部屋については、掃除中、自分の部屋にいてもらって、お茶と菓子を楽しんでもらっていた。


「志乃さんは、本当にテキパキしているわねぇ」


 千代が感心しきりで、面はゆい。

 綺麗になった部屋に千代を誘導し、最後に、慶一郎けいいちろうの部屋に向かう。


(……失礼します)


 なんとなく、そろー、っと襖を開いたのは、本人不在の遠慮のためだ。


 八畳ほどの慶一郎の部屋は、廊下を挟んで居間の向かいになる。

 洗濯の済んだ衣類や、慶一郎から手渡された鞄を、入り口にそっと置くことはあっても、中に入ることはなかった。


 はたきや箒を持って足を踏み入れる。

 雨戸は開いていた。


(なんというか……。旦那様らしいお部屋ねぇ)


 千代の部屋には、和裁の道具と、きれいな端切れがたくさんある。

 慶一郎の部屋は、壁一面、本棚だった。


 この国の文字のものもあれば、あちらの国の文字のものもある。

 それらが理路整然と並べられている。

 庭に面しているであろう障子を開け、光と風を中に入れた。


(旦那様の部屋)


 改めて眺める。

 足の長い椅子とテーブル。

 壁一面の本。

 布団がないところを見ると、きちんと押し入れに片付けられているのだろう。


 本人は、机の上のものを触るな、と言っていたが、触るようなものはほとんどない。


 書類は、書類箱に。インク壺とペンはその隣に。

 きれいなガラスの幌を持つランプは、すました顔で志乃の顔を映している。

 志乃の部屋のように、「モノがないから片付いている」のとは違い、彼の部屋は「あるべき場所にあるべきものがある」部屋だった。


「さて」


 いつまでも眺めていたい、というか。

 このまま一日ぼんやりとこの部屋で過ごしてみたいと思わなくもないが、志乃は手際よく掃除に取り掛かる。


 時折吹き込む春の風が室内の空気を揺らし、慶一郎の香りを鼻腔に運ぶ。

 なんだか、彼が近くにいるような気がして、志乃はそのたびに顔を赤くし、掃除に集中した。


「よしっ」

 過ごしやすい日が続くとは言え、身体を動かしていたら、やはり暑い。

 額に浮かんだ汗をぬぐい、慶一郎の部屋を出る。


 途端に。

 ぽんと、廊下を手毬てまりが跳ねた。


 白地に赤や黄色などで、幾何学模様を施された、比較的派手なものだ。

 ぽん、ぽん、と廊下をはずみながら、玄関の方へと転がる。


「……千代様?」

 呟き、首を玄関とは反対の方向にねじる。


 最奥が、千代の部屋だ。

 千代が手毬で遊んでいたのだろうか、と考えたが、彼女の部屋でそのようなものを見たことがない。


 また、季節を大切にしている千代が、正月遊びに使う手毬を、今、取り出すだろうか。


 首を傾げ、再度、毬が転がったほうを見やる。


 ふと、廊下に刺繍糸が落ちていることに気づいた。

 さっき、拭き上げた時には、こんなものはなかったはずだ。


(あ。きっと、修理なさっていたのだわ) 


 赤い刺繍糸は、手毬から外れたに違いない。

 千代は、手毬を修理していたのだ。


(だったら、お渡ししなきゃ)


 目の不自由な千代のことだ。転がってこんなところまで来てしまっていたら、わからないに違いない。

 志乃は、箒やはたきを一旦廊下に置き、玄関に向かう。


「あれ……」


 てっきり、たたきにでも落ちたのだろうと思っていたのに、手毬はない。

 上がりかまちにもなく、志乃はきょろきょろと視線を巡らした。


 その耳に。

 ぽん、ぽん、と。


 廊下を弾む、音がする。


 反射的に顔を向けた。

 奥だ。


 玄関の左には廊下が伸び、居住空間が広がるが。

 右手には、厠や風呂、厨房などがある。


 手毬は、弾みながら、そちらに向かう。


「……どういうこと……?」

 さっき見た手毬は、弾みながら次第に力を失い、廊下を転がっていた。


 だが。

 今、手毬は、さっき誰かがついたかのように力強く廊下をはねている。


 志乃は訝しく思いながらも近づく。

 手毬は、その志乃の少し前を、ゆっくりと弾み、そして転がる。


 手を伸ばして捕まえようとした矢先。

 右目が「暗闇」を捕らえた。


 自然に、そちらに顔を向ける。

 気配を、感じたからだ。


 なんの、と問われても、志乃は答えられない。


 ただ。

 何かいる。


 そう思ったのだ。


「階段……」


 そこにあるのは、二階へと続く階段だ。


 細く、長い階段は、上に行けば行くほど闇に飲まれている。

 外見からも予想はついたが、二階には、窓がないのだ。


「千代様の部屋ではなく、二階から、転がって来たのかしら」


 ぼんやりと階段を見上げ、志乃は思う。

 だが、違うとすぐに気づいた。


 自分が慶一郎の部屋から出てきたとき、手毬は千代の部屋の方から弾んできたではないか。


「……まあ、いいわ」


 踏ん切りをつけ、さて、目の前の手毬を拾おうとしたのに。

 すでに跡形もなく、姿を消していた。


「あら?」

 慌てて志乃は厠や風呂、厨房までのぞいたが、手毬は見つからない。


「あの……。千代様」

 最後には、千代の部屋に行き、廊下に膝をついて尋ねた。


「さっき、手毬を補修されていましたか?」

 ちくちくと針を進めていた千代は、不思議そうに小首をかしげた。


「いいえ。わたしはずっと、これを作っていましたよ」

 そうして、彼女がわずかに掲げて見せたのは、青い半纏はんてんだった。

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