第8話 朝晩する、と言ったろう
◇◇◇◇
次の日の朝。
朝ご飯の準備を整え、千代に膳のどこに何があるのかを説明していると、しゅるり、と障子が開いた。
「おはようございます、旦那様」
深々と頭を下げる。
「おはよう」
ぶっきらぼうな声は昨日と同じだ。
顔を上げると、すでに洋装に着替えており、髪や髭も整えているらしい。
(洗面所の用意をしておいてよかった)
志乃は胸をなでおろす。
昨日、簡単に起床時間と出発時間を告げられたが、何をどのような順番で行うのかを聞いていなかった。
そこで志乃は早めに起き出し、朝食と弁当の準備と並行して、洗面所を整え、洋装一式も、えもんかけに吊るしてわかるようにしておいたのだ。
「おはようございます、慶一郎」
千代がきっちりと慶一郎に向かって頭を下げる。本当は視えているのではないか、と思うほどだ。
「おはようございます、お祖母様」
座布団に座り、慶一郎が応じる。まだ二十代だが、一家を構える家長の風情だ。
(お父様が、婚姻関係を望むほどだものね)
かなりのやり手ではある、と聞く。
そんな彼の妻が自分である、ということが、いまだに信じられない。
「いただきます」
慶一郎と千代の声に、志乃は我に返る。いけない。今に集中しなくては。
志乃は千代の側から離れ、自分の膳の前に座った。
「昨日も思ったのだけど、志乃さん、本当に料理がお上手ね」
千代が手に持った汁椀に顔を寄せる。匂いを楽しむその様子は、まるで幼子のようだ。
「ありがとうございます」
頭を下げながらも、ちらりと慶一郎の様子を盗み見る。
彼は、どうだろう。
本当にそうだ、と言うのか。そうは思わない、と否定するか。
どちらだろう、と思ったが、慶一郎は無表情のまま、箸を進めている。
「今日も夕飯の準備を頼む」
ことり、と膳に茶碗を置き、慶一郎が告げる。
「かしこまりました」
目線を下げて応じると、あら、と千代が意外そうに声を上げた。
「二日続けてなんて珍しいこと。やっぱり、奥さんをもらうと違うのねぇ。お茶屋通いはもうおやめなさい」
お茶屋通い、という言葉に志乃はわずかにたじろぐ。
堅物に見える慶一郎だが、芸妓に入れあげているのだろうか。
(……そういえば、妙に手慣れているような……)
昨晩、部屋に忍んできたときのことを思い出す。
「誤解をするような言い方はやめてください」
おもわず慶一郎を見ると、ぎょっとしたように背を逸らされた。慌てたように千代に言い、慶一郎は鼻からずり落ちかけた眼鏡を指で擦り上げた。
「接待だ。外国人が珍しがるから座敷に連れて行っているに過ぎない」
なんだか早口に言われ、ああ、そうかと思った。
顧客だ。
この国に居る外国人の観光案内なのだろう。
ぱちぱちと目をまたたかせる前で、彼はどんどん不機嫌になる。
「あら。そうね。大切な部分が抜けていたわ」
ころころと千代が笑い、慶一郎はむっつりとした顔で茶を飲む。
湯気がぽわりと彼の眼鏡を曇らせ、小さく舌打ちをする様子が、どこか人間臭くて、思わず頬が緩んだ。
志乃は茶瓶を持って立ち上がり、慶一郎の側で膝立ちになる。
ぐい、と慶一郎が無言で湯呑を突き出すから、茶を注いだ。
「あの」
「なんだ」
湯呑を口に運びかけ、慶一郎は動きを止めた。
「今日、各お部屋を掃除しようと思うのですが、旦那様のお部屋はいかがいたしましょう」
茶瓶を畳に置いて尋ねた。
「昨日は確認が出来ませんでしたので、お部屋には入っておりません。もし、触ってはならぬもの、動かしてはならぬものがありましたら、お伺いしたいのですが」
「書類や本は動かすな。基本、机の上のものには触れるな」
返事は簡潔だった。
慶一郎は茶を飲むと、また食事をし始める。
「かしこまりました」
ぺこりと頭を下げ、自分の席に戻る。
千代に視線を向けると、もうあらかた食べ終わったところのようだ。
「千代様。お茶は……」
「いえ。結構ですよ」
のんびりとした返事に、ほっとして、志乃は箸を持った。
この後、千代を部屋に連れて行かねば。
ゆっくり食べていられない、と箸を動かす。
「ああ、そうだ」
ふ、と慶一郎が呟いた。
「はい」
自分に話しかけているのだろうか、と訝し気に思いながら返事をした。
「二階には入るな。階段もさわるな」
慶一郎は言い、立ち上がる。
「は、い……」
なんだろう、と目をまたたかせる。
やはり、この家には、二階がある。
ただ、窓や明り取りが作られていないので、どういう構造になっているのかはわからない。
(……物置き、として使用しているのかしら)
なにか大切なものが仕舞われている、とか。志乃が内心首を傾げていると、千代が、ことり、と湯呑を膳に置いた。
「ご馳走様」
志乃に告げるから、慌てて立ち上がった。
「お部屋に戻られますか?」
「そうねぇ。今日はお天気がよさそうだし……。縁側で
ゆっくりと立ち上がる千代の前から、膳をどける。
(みずゆき……。そういえば、昨晩もおっしゃっていたわね。猫の名前かしら)
あの、残雪と見間違えた猫。
「お手を」
声をかけると、自然に千代は志乃の左腕を取った。
そのまま、廊下に出て縁側に向かう。
雨戸をあけ放っているから、この時期らしい澄んだ空気と、のどかな陽光に溢れている。
志乃は一旦千代を廊下に待たせ、庭に飛び降りて縁台を運んだ。
「どうぞ。足元にお気を付けください」
声掛けをして、座らせると、どこにいたのか、昨日見た白猫がやってきて、ちょこんと彼女の隣に座った。
「水雪、桜の具合はどうかしらねぇ。教えておくれ」
手を伸ばし、千代は猫の背中を撫でてやる。
(やっぱりこの猫のことね。でも、ほんと、不思議な柄だわ)
間違って墨汁を垂らしたように見える。
「なあああお」
まじまじと見ていたら、高らかに鳴かれた。
「なにか、羽織るものを持って来ましょう」
志乃は咄嗟にそう言い、千代の部屋に向かう。箪笥から、彼女の
縁台に戻り、千代に着せていると、廊下の方から「行ってくる」という慶一郎の声がする。
「お待ちくださいませ」
慌ただしく縁台に足をかけ、廊下を小走りに玄関まで急いだ。
慶一郎は、上がり
足元には、昨日彼が持っていた鞄がすでにある。
「水雪はいたか」
「はい」
ぶっきらぼうに問われたから、頷く。それから、上がり框の端っこに用意していたきんちゃく袋を差し出した。
「こちらが、お弁当です」
今朝、台所の水屋を探すと、わっぱの弁当箱ときんちゃく袋が出てきたのだ。
「わかった」
慶一郎が手を伸ばす。
ほ、と志乃は胸をなでおろした。「これじゃない」とか「変だ」とか言われたらどうしようと思っていたが、正解らしい。
志乃が両手で持つきんちゃく袋をつまみ上げた慶一郎は、だがそのまま上半身をかがめ、唇を合わせてきた。
「……ひ」
おもわず息を呑むと、唇を離した慶一郎が鳶色の目をすがめる。
「朝晩する、と言っただろ」
「いえ、それはわかっておりましたが……。その、いきなりだったもので」
なんとなく半歩後ろに下がる。慶一郎と目が合った途端、自分でも顔が真っ赤になったのが分かった。
「こ、今度から、なさる前におっしゃってください。こちらも、心構えをしておきます」
「……ありえん」
ぼそりと慶一郎は言い、くるりと背を向けた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
頭を下げながら、志乃は思った。
心臓がもたない、と。
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