第7話 夫としての務めを果たしに来た
唐突に眠りを遮られたのは、しゅる、と障子の開く音がしたからだった。
(……なんだろう)
ぱちりと目を開く。
障子を見た。
人影がある。
一瞬誰だかわからなかったのは、彼が眼鏡をしていなかったからだ。
だが、長身で、そして身に着けている寝間着は確かに彼のそれだった。志乃自身が用意したのだから、間違いない。
「どうかなさいましたか」
時刻がよくわからないが、喉が渇いたか、小腹でもすいたのだろうか。
片手で上半身を起こし、布団から出ようとしたのだが。
「どうかもなにも」
慶一郎は後ろ手に障子を閉め、近寄ってきた。
「夫の務めを果たしに来ただけだ」
つまらなそうに鼻を鳴らすと、きょとんとする志乃の肩を両手でつかむ。
同時に布団に押し倒された。
ほんの一瞬、ふわりと石けんの香りがしたと思ったが、そんな感覚などすぐに消え失せる。
慶一郎の唇が志乃の唇に重なった。
唐突に、自分がなぜ瀧川家に来たのかを思い出す。
嫁に、来たのだ。
来た途端、家事ばかりをしていたせいで、そんなことはすっかり忘れていた。
使用人ぐらいの気持ちでいた。
だいたい、慶一郎と自分では、なにもかもが違いすぎる。
彼を、夫だとは思えなかった。
だが。
『夫の務めを果たしに来ただけだ』
鼓膜を撫でる彼の声。
「……あ」
あの、と言いたくて開いた唇から、彼の舌が忍び込んでくる。
ひ、と口を閉じようとしたら、慶一郎の指が寝間着の合わせから胸に入ってきた。
器用そうで、細くて、白くてしなやかな。
自分とはまるで違う指に素肌を触られ。
志乃は、恐ろしくて震えが止まらない。
がたがたと震えながら首をのけぞらせると、彼の唇が首を這う。
ぼろり、と涙が流れたのは。
情もまだ通じていないのに、ただただ、「嫁」として扱われたことへの悲しさだったのかもしれない。
家族だ、と。
認めてもらえたのは、こういうこともあるのだ、と。
「おい」
不意に声をかけられたが、返事が出来なかった。
がちがちと顎を鳴らし、志乃は身体をこわばらせる。
「……おい」
真上から声がする。
闇の中でも、彼の鳶色の瞳ははっきりと見えた。
鼻が触れ合う距離に、慶一郎の顔がある。
「は……」
はい、と応じたいのに、喉が萎んだように苦しい。一気に慶一郎の顔がぼやけたのは、また涙があふれたからだ。
寝間着を脱げと言われるのか、足を開けと言われるのか。
志乃は、こういったことに疎かった。
何を命じられるのか。
がちがちと志乃は震える。
「悪かった。急ぎすぎた」
だが慶一郎はぼそりと告げると、大きなため息とともに、志乃の上から離れる。
「………え」
ぎこちなく首を横に向ける。
畳の上に、慶一郎は胡座をかいて座り、無造作に髪を掻きむしっていた。
「………悪かった。だから、泣くな」
気づけばじっと彼を見ていたからだろう。
ばつが悪そうな顔で慶一郎は謝る。
「いえ……、その……。私こそ……」
慌てて布団から跳ね起きた。
乱れた胸元を掻き合わせ、だけど、身体がまだ震えている。
「私こそ……、その」
なんと言っていいのか、と暗闇に視線を走らせた。
(どうしよう……。こんなことで離縁されたら……)
だんだん、身体が冷えてきた。
嫁に拒絶された。離婚だ。家に帰れ。
そんなことを言われても、志乃にはもう帰る家がない。父に叱られる。
「志乃さん? どうかしましたか」
急に、襖の向こうから寝ぼけたような千代の声が聞こえてきた。
志乃は狼狽えたが、ぎょっとしたのは慶一郎も同じのようだ。
立てた人差し指を唇に押し当て、必死の形相で「しぃ」と合図を送って来る。
「いえ……、その。なにも……」
慶一郎に合図されずとも、まさか「今、寝込みを襲われていました」とは言えない。
「あら……。そう」
応じた千代の声は、すでにまどろんでいる。
なんとなく。
慶一郎とふたり、身じろぎもせずに襖を凝視する。
しばらくすると、すうすう、という寝息が聞こえてきて、ほ、と肩から力を抜いた。
「よかった」
それは、慶一郎も同じ気持ちだったらしい。
はぁ、と大きく息を吐いて、胡座した姿勢のまま、後ろに手をつく。
そんな慶一郎の姿を見たら、無性に可笑しくなり、志乃は小さく噴き出した。
「静かにしろ」
途端に、小声で叱られるが、笑いは容易におさまらない。
「す、すいません……」
両手で口元を覆い、なんとか必死に笑いを押し殺す。
襲いに来たくせに、と思うが、彼とて祖母に、「無理やり手を出している」とは思われたくないのだろう。
「……その、なんだ」
ようやく笑いがおさまり、目に浮かんだ涙を指でぬぐった時、慶一郎がぶっきらぼうに話しかけてきた。
「妻だと思って迎え入れたが……。気遣えず、すまん」
「いえ、私の方こそ」
慌てて首を横に振る。
「その……。突然すぎて……、あの……。なんとなく、自分では使用人の気持ちでいたもので」
正直に伝えると、慶一郎が、ぽかんと口を半開きにして自分を見やる。
「は? 使用人?」
「まだ、自分が誰かの妻だ、などという実感がなかったのです。すいません。あの」
ごくり、と息を呑み、志乃は布団に正座した。
「あ、あの……。その……。頑張りますので、その……、もう一度」
その後の言葉が続かない。
もう一度、何というのだ。
続きをしましょう、だろうか。よろしくお願いします、だろうか。
だんだん、自分が何を慶一郎に伝えようとしているのかを冷静に考え、頬が真っ赤になった。
(なんと、はしたない……)
俯いたが、耳まで熱い。
「……いや。無理強いするつもりはないし」
緩い声に、そっと視線を上げる。
慶一郎が、首の後ろを掻きながら、うなだれて居る。
「こっちこそ、使用人などと思わせて申し訳ない。わたしとしては、ちゃんと妻を迎えたつもりだったが……。至らぬ点が多々あった。許してくれ。今日はもう、部屋に帰る」
「そんな……」
とんでもない、と首を横に振ると、「だがな」と切り出され、ぎょっと肩をこわばらせる。
「朝晩、わたしとキスはしてもらう」
「き……?」
キスとはなんぞや、と目をしばたかせる志乃に、慶一郎が真顔で答えた。
「くちづけだ。夫婦だから、それぐらいかまわんだろう」
「……は、あ……」
まぁ、閨を共にするよりは障害が低い気がする、と志乃は思った。
だいたい、来て早々、玄関でされたのだし、と。
「かしこまりました」
真面目に応じると、再び胡座した慶一郎が、大きく頷く。
「あの……。それも、西洋風の何かなのでしょうか?」
ふと、志乃はそんなことを思って尋ねる。
母は、志乃が十歳になるまで生きており、別宅で父の訪問を待っていた。
月に数度やって来るが、あのふたりが朝晩、そのようなことをしているのを見たことがない。
それとも、子どもには見せなかっただけで、普通の夫婦は、洋の東西を問わず、行っているのだろうか。
(でも、さっき、旦那様は〝キス〟とおっしゃっていたし……)
瀧川家は、貿易関係の仕事をしている、と聞く。海外の顧客も多く、慶一郎自身も洋服を身に着けている。
朝晩、口づけをする、というのは、西洋の儀式なのだろうか。
「……まあ、そうだ」
なんだかぎこちなく慶一郎が言う。
「あちらの、夫婦はそうなのだ」
「さようでございますか」
はぁ、と志乃は感心した。
仕事相手になじむため、きっと慶一郎はその儀式を行うのだろう。
「それでは、おっしゃる通りに従います」
志乃はぺこり、と布団に手をついて辞儀をした。
「そのように」
慶一郎は言うなり、そっと部屋から出て行った。
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