幕間:ワンコといた風景

《七世紀 碧波潭某所》


「おのれ……ド畜生共が……」


 九頭駙馬きゅうとうふばと名乗っていた異形は、忌々しげに吐き捨てた。その瞳、八対ある瞳は一様に血走っている。血走っているどころかある頭からの視点などは血で染まっていた。今の九頭駙馬は頭が八個しかなかった。たった今、頭の一つを犬に咬み落とされたばかりである。相手はただの犬ではない。哮天犬こうてんけんだ。二郎真君とかいう仙界でもかなり強い仙人の、心強い従者である。

 旧き神の血、「道ヲ開ケル者」の血統を誇る九頭駙馬だ。哮天犬と闘う事は難しくても、彼の攻撃をかわし、隙を見て逃れる事ならば普段の彼でもまぁできなくはない。しかし今回は分が悪かった。

 表面が緑がかった玉虫色に光る鮮血は、落とされた首の付け根から流れ出ているだけではない。本性を半ば晒した彼の背面、奇怪な二対の翼の片方も血染めだった。変幻自在に形を変える片翼は、銀の弾丸に鋭く射抜かれていた。九頭駙馬と言えどもこれは痛手だった。致命傷ではないにしろ、首を狙って襲撃してきた哮天犬をかわし切れなかったのだから。


「残念だったなぁ九頭鳥よ。貴様も貴様の姉同様悪だくみを重ねてきたようだが、それも今日限りという所だな」


 憤怒と憎悪の焔を燃やす九頭駙馬に応じるのは哮天犬だった。未だに咬み落としたばかりの頭部を咥えながら、実に流暢に人語を操っている。だが考えてみれば彼は仙界随一の二郎真君に仕えている身分だ。その気になれば斉天大聖孫悟空さえ咬み倒す事さえできる彼にしてみれば、人語を操るなど苦もない話であろう。


「……カハッ。あー臭う、臭うぜ。こんなクッサイ頭なんかずっと咥えていたら脳がやられるかもしれんな」


 頭を振りながら哮天犬は咥えていた物を放した。遠心力で投げ出された九頭駙馬の頭は、一度だけ大きく跳ねた。紅色と緑色が混ざった毒々しい血糊の軌道がまた新たにできる。


「咬み落とされた頭が一つで済んだ事については、天蓬元帥殿に感謝するんだな、九頭鳥」


 血で汚れた鼻面を舌で舐めながら、哮天犬は言い添える。


「貴様が先祖たる『道ヲ開ケル者』をどうしようもないほどに信仰していた事は俺も知ってるさ。信仰する事そのものは罪じゃあなかった。万聖龍王のところに取り入って、本来の婿だった玉龍太子を蹴りだしたのも……まぁ許容範囲かもしれん。

 しかしそこから先は大きく出過ぎたな。みそっかすと言えども四海龍王の子息を打ち負かし、瑠璃の宮殿に通じる万聖龍王の許に縁組して、慢心していたのだろうな。

 血と身分に胡坐をかいていい気になっていたようだが、上には上がいるという事を、貴様も身をもって知った事だ」

「…………」


 今や八頭になった九頭駙馬は、口を引き結んだまま哮天犬の言葉に耳を傾けていた。

 確かに九頭駙馬には信仰心と、野心があった。異形そのものの彼であるが、系譜そのものは貴い。五代十代と遡らずとも、この大陸で十二分に通用する往古の神に遡る事が出来るのだから。

 しかし貴き神の血は途中で腐り零落していた。九頭駙馬の親やその親は、神の範疇には入らず、ただ尊大さと悪夢のごとき高貴な面影を残しただけの異形に成り果てていた。

 その身に流れる神としての栄光に縋った先祖らは、自分たちとは異なる系譜、大いなる世界を俯瞰するものと接触し、彼の血を取り入れた。それは天界や仙界からも超越したところにおわす者、何処にでもいて何処にもいない上位存在である。だが彼は、次元の向こう側からこちらに接触する事を遥か昔より心待ちにしている。

 道ヲ開ケル者。これこそが九頭駙馬の先祖であり、彼が崇拝してやまない神だった。

 九頭駙馬は道ヲ開ケル者の存在を知ってから、彼の願いを叶える為に画策を繰り返してきたのだ。下界の妖怪や人間たちの暮らしを引っ掻き回し、実姉と仲違いをしたとしても、その目的は色あせる事は無い。


「それにしても忌々しい犬っころだねぇ……だけどキミこそいい気になっているんじゃあないかな」


 口内に仄かに漂う血の味を感じながら、九頭駙馬は言い捨てた。落とされた頭の断面と射抜かれた翼はまだ脈打つように痛む。しかし、哮天犬と交戦した時よりも幾分マシになっていた。

 力を込めて九頭駙馬は翼を広げる。どうにかなりそうだ。確証はないが本能的にそう感じた。


「こういうときってさ、きっちり止めを刺しておくに限ると思うんだけどね! キミはどうもボクを仕留めないみたいだけれど、その判断が間違いだったっていつか思わせてやるよ。キミもボクも、いくらでも時間なんてあるんだからさ」


 九頭駙馬は翼を展開し、その場に舞い上がった。傷はまだ塞がっておらず、生臭い鮮血がしたたり落ち続けていた。


「はっは、私たちから逃げるんだね、それもまた乙という物だ。元九頭駙馬よ、八頭怪よ。お前さんは逃げて逃げ延びて……それでも大望をなそうと画策するだろう。その度に混乱が生じ血が流れ屍の山ができるだろうね。ああそうすれば、私たちの仕事も増えるってものさ」


 飛び去ってゆく九頭駙馬を見据えながら笑ったのは、哮天犬ではなく彼のあるじの二郎真君だった。玉帝の、天界の王の甥とは思えぬ邪悪な物言いが気になったが、額に光る第三の眼を見て九頭駙馬は納得した。三つ眼に無数の変化術を会得する存在。二郎真君は這い寄る混沌の一体なのかもしれない。そいつとそいつの犬に狙われたがための敗走……仕方ないという思いが、今や八頭となった九頭駙馬の心を緩やかに覆っていった。


九頭鳥:中国に伝わる怪物の一種。鬼車ともいう。九個の頭を持ち、人の魂を捕食したり滴り落ちる血によって凶事を招くとされている。元々は頭が十個であり、犬に頭を咬み落とされて九頭鳥になったという伝承が存在する。

「西遊記」に登場する九頭駙馬も九頭鳥の一種と思われるが、頭が九個だったところをひとつかみ落とされ、八頭の姿になって逃げ去ったとされている。(作者註) 

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