⑯正しい願いはこれでしょ? 副題:八頭鳥の敗走
島崎画伯はアトリエの一角で小休止していた。LEDのライトなのに室内を照らす光の量が少ないのは部屋のあるじである彼がそのように調節しているからである。
繊細な容貌からも解るとおり、島崎画伯は繊細で神経質な部分があった。絵の作成に取り掛かっている時は日頃の繊細さを十万億土の彼方にぶん投げたような動きを見せるのだが……その境地に至るまでが中々難しいのである。
秒針を刻まずに滑らかに動く置時計に視線を送る。既に休んでから十分以上経っているだろう。枯渇していた気力が満ちてくるのを島崎画伯は感じていた。彼ももう二十代後半のアラサーである。出自ゆえに一般人よりも若々しく見えるが、十代後半や二十代前半の頃よりもスタミナが切れてきたのは感じている。身内からは、単に不摂生だからだと言われるかもしれないが。
――よし、そろそろ再開しよう。
「こんにちはおにーさん。面白い絵を描いているんだね」
制作という名の目標に向けて爆発の時を迎えんとしていた島崎画伯のモチベーションは、見る見るうちにしぼんで消え去ってしまった。変な邪魔が入ったからに他ならない。部屋の灯りにも気を配るような男なのだ。急に話しかけられれば、そりゃあもちろんモチベーションの一つや二つは消失してしまうだろう。
「一体どちら様ですか」
真横にいた声の主にじっとりとした視線を送り、島崎画伯は問いかける。警察を呼ぶという考えはなかった。施錠しているアトリエに入り込んだ闖入者はまさに不法侵入者ではある。しかし――人間の警察には手に負えない存在であろう事も島崎画伯は薄々察していたのだ。
「おや島崎センセイ。ボクを見てもそんなに驚かないなんて、やっぱり九※の血を受け継いでいるだけあって、肝が据わっているんだね。ボクの事は、気軽にシュモネイとでも呼んでくれるかな」
シュモネイと名乗った青年を見つめながら、島崎画伯は盛大にため息をついた。彼はきっと、称賛するために島崎画伯の血統に言及したのだろう。島崎画伯自身は、その血統に何の意味も見出していないというのに。
「ねぇねぇ島崎センセイ。センセイはさ、この世に対する不満とかいっぱいあるんじゃあないの?」
仏頂面の島崎画伯の方に身を乗り出し、シュモネイは問いかける。その間島崎画伯は彼の眼から視線を逸らしていた。首許を飾る七つのファーボールが、異様な鳥の頭部をかたどっているのがはっきりと見えた。よくよく耳をすませば、「いあ・いあ……」だの「コタエロ、コタエロ……」だのと言っているのが聞こえてしまう。
爽やかな笑みを浮かべているであろうシュモネイの問いに、島崎画伯は仏頂面のままやり過ごした。確かに彼の言うとおり、この世に対する不満やどうにかしたいところはあるにはある。けれど、それを口にしてはならないと本能的に感じていたのだ。
「そんなに硬くならなくたって良いのにさぁ……」
シュモネイは足音も立てずにこちらに向かってきた。白い手指で島崎画伯の肩を撫で、そっと耳許に口を近づける。甘い香りの奥には、鉄錆と腐肉の入り混じった奇妙な臭いが立ち上っている。
「考えてごらんよ島崎庄三郎君。君はさ、素晴らしい能力を持っているのにこんな片田舎のアトリエに引きこもってるんでしょ? それで毎度毎度やっている事と言えば、自己満足自己完結の世界を満たすだけじゃないか……
青春の日々をそれで過ごしちゃってもったいなくないのかい?」
すぐにでも目を閉じて耳をふさぎたかった。しかし既に自分はシュモネイの術中に嵌っているのかもしれない。肩に添えられた手指が万力のような力を発揮している気分だった。身動きを取ろうにもままならない。意識せずにできるのは呼吸と拍動くらいだった。
密かに島崎画伯が追い詰められる中、シュモネイは言葉を重ねる。
「ね、ボクに願いを言ってごらん。キミのその類まれなるカリスマ性を発揮できるとっておきのステージを、ボクは用意してあげる。そこでキミは、主演男優として踊れば良いんだよ」
シュモネイの言葉は優しげだった。その声に耳を傾けながら、島崎画伯は血路を拓く方法を考えていたのだ。得体の知れない相手ながらも、僅かに好機があるように感じていた。ほんの少しだが、シュモネイの呪縛が緩んだ気がしたのだ。
だがそう思っているうちに、今度は苛立たしげなシュモネイの声が降りてくる。
「どうしたんだい島崎君。ボクはねそんなに短気じゃあないけれど、願い事を聞くのをのんびり待てるほど優しくは無いからね。だってさ、キミもあの※尾の血を引いているって言っても、所詮は地べたを這いずる哺乳類には変わりないんだよ? そんな劣等種族が偉そうにしても不愉快なんだけどなー」
さぁ、早く早く。シュモネイにせかされながら、島崎画伯は正しい願いを見つけ出した。
「わかったよシュモネイ。僕の願いを言うよ」
島崎画伯は臆せずシュモネイの顔を見た。美しくも禍々しいシュモネイの顔は歓喜の色が濃く浮き上がっていた。
「僕に関わるな、放っておいてくれ。これが僕の願いだよ」
シュモネイと島崎画伯の表情はこの発言の前後で一変した。シュモネイは虚を突かれたように呆然としていたが、迫りくる憤怒を押し込めようと奮起している。一方の島崎画伯は、勝ち誇ったと言わんばかりの、清々しい笑みをたたえていた。
「成程ね、成程……キミは中々賢いみたいだねぇ」
笑みの背後に血を吐くような悔しさを押し隠しながらシュモネイは呟いていた。賢い、が彼なりの皮肉である事は島崎画伯にも明らかだった。
「だけど残念だねぇ! ボクはボク自身の制約によって願いを叶えられるのは一人につき一つだけなんだ! だからもうキミはボクに願いを叶えて貰うチャンスをこれで失ったんだよ。後になってから、偉大なるシュモネイ様におすがりしたかった、と思っても無駄だからね。あはは、あーははははは……」
シュモネイの笑い声は途中から獣の声に代わり、鳥の啼き声に変った。唐突に広げた両腕は翼に代わり、八つの頭を持つ奇怪な鳥獣の姿に変化すると、彼はそのままアトリエを去っていったのだった。
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