⑬異世界に逝ってみたい!(中) 副題:百花の誘惑

「この度は助けていただいてありがとうございました……」


 裕司は呆然とした心持で少女の言葉を聞いていた。ミドリと名乗った少女は今では有事の許にしなだれかかり、うるんだ瞳でこちらを見上げている。意味ありげに裕司の鎖骨あたりをなぞる指先と、彼女の襟元を飾る羽毛の感触が服越しに伝わってくる。

 美少女と呼んで遜色のない存在だ。だがそれ以上に不思議な印象を抱かせる存在でもあった。見た目は確かに若々しく、ともすれば幼ささえ感じられる。しかし、こちらを見上げるその笑みには、成熟した女が見せるような気配も見え隠れしていた。奇妙な話だが、この娘はもしかすると自分よりもうんと年上なのかもしれないという考えさえ浮かぶほどだ。


「いや、別に僕は……」


 感謝の念を一心に受けている裕司だったが、その状況そのものに彼は戸惑っていた。少女を助けようと柄の悪い男たちの前に立ちはだかったのは事実である。しかし取り立てて派手な事を行った訳でもない。裕司は単に男たちと問答をして、向こうが勝手に面倒だと思って去っていっただけだった。

 それに少女は途中から機転を利かせ、裕司――半ば締まりのない肉体をしたアラサーのオッサンである――の事を兄と言い張りすり寄るというアドリブまでかましていたのだ。だから尚更、自分の手柄とは言い難い。


「僕は特に何もやってないよ……ただ近付いて、そうしたら向こうが勝手に逃げただけでさ」


 ううん。少女は裕司の言葉を聞いて軽く首を振った。


「そんな事ありませんわ。あなたは、私が困っているのを見て助けようとここまで来てくださったではありませんか。何もせず見て見ぬふりだってできたかもしれないのに……」

「ボクもね、松姫様の言うとおりだと思うよっ!」


 少女に続き、若々しい青年の声が鼓膜を震わせる。

 はっとして裕司は首を巡らせる。いつの間にか二人の斜め前には一人の青年が佇立していた。もちろん裕司よりもうんと若い。真っ白なワイシャツに黒いズボン姿と、辺鄙な公園にやって来るにはきちんとし過ぎた服装だ。首許を飾る細かな金色の鎖で繋がれた奇妙な七つのモコモコの首飾りも気になったが、それよりも青年が片手に提げているレジ袋も中々に存在感を放っていた。執事めいた姿の青年だったが、この袋を下げているために庶民風の雰囲気を漂わせてしまっている。

 それに――裕司の眼には、レジ袋の中身がモソリモソリと動いているように見えたのだ。まるで、何か生物が入っているかのように。


「ボクからもお礼を言うね。松姫様を助けてくれてありがとう!」


 この娘は松姫と言うのか……裕司はぼんやりと思った。そう言われると、彼女が高貴な存在、深窓の令嬢のように見えてきた。もっとも裕司の心中にあるような深窓の令嬢とは異なり、松姫は幾分コケティッシュな部分が目立つが。

 そんな事をあれこれと思っている間に、松姫は裕司から離れていった。レジ袋の青年とはやはり面識があるらしい。彼の許に迷わず近付いているし、その顔には怯えと緊張ではなく、安堵と親しみがありありと浮かんでいる。


「ええと、こちらこそどういたしまして」

 

 裕司は居並んだ松姫と青年を見やりながらそう言うのがやっとだった。歳の近い妹を持つ裕司であるが、こうして少女に感謝されたり懐かれたりする経験はほとんどない。あるのならばこうしてニートなどに身をやつしていないだろう。

 そんな鼠色の考えなど気にかけず、青年はにこやかな調子で声をあげた。


「初めましておにーさん。ボクはハッカンとでも呼んでくれるかな」


 ハッカンとはまた奇妙な呼び名だなぁ……裕司は無言のままそんな事を思ってしまった。他人の名前についてあれこれ考えるのは褒められた事ではないだろう。しかし思うだけならばまだ良いのかもしれない。或いは本名ではなくてある種のあだ名なのかもしれないし。


「それで、今キミが助けてくれたお嬢さんは碧の松姫って言うんだ! ボクの友達だと思ってくれたら良いよ!」

「友達……なんですね」


 友達と言う部分をことさら強調し、裕司は少し首を傾げた。松姫はコケティッシュな美少女であるが、ハッカンも白皙の面に爽やかさとそこはかとない色香を湛えた美しい青年である。この二人が、単なる友達などではなかろうと裕司は邪推したのだ。


「そう、ボク達はなんだ」


 ハッカンは裕司の問いにすぐに答えた。照れもてらいも疑問もない、まっすぐな声色である。


「もしかして、おにーさんはボクが松姫の恋人だとか、そんな事を思ったんでしょ? アハハごめんねおにーさん。生憎ボクはもう恋愛とか結婚には興味なんてないんだ。うん、一度結婚した事もあるけどね、結婚は人生の墓場って言うのはあながち間違っていないかもしれないよ。まぁ、ボクの場合は嫁入りじゃなくて婿養子だったから余計にしんどかったのかもしれないけれど」


 今にも笑い出さんばかりの調子で紡がれたハッカンのカミングアウトに裕司は瞠目した。この青年は暗に結婚経験が自分にはあると言ってのけたようなものだ。しかしどう見積もってもハイティーンの、二十歳前後の青年にしか見えない。

 窺うように、視線をそっと松姫に向ける。驚いた事に、彼女はハッカンの発言に驚いた素振りは見せていない。そう思っていると、松姫と目が合った。


「そんなに驚かなくて大丈夫よ。実は私もハッカン君も、あなたが思っているよりもうんと年上かもしれなくてよ」

「そんな、まさか……」


 茶目っ気たっぷりの松姫の言葉に裕司は苦笑いを浮かべる。


「大人をからかうんじゃないよ、君たち。まさか本当はジジババだなんて言うんじゃあないだろうね」


 裕司の言葉を聞くと、松姫はあっけらかんと笑い出した。


「あら、可愛らしい事を言うのねお兄さん。私もハッカン君も別にお婆ちゃんでもお爺ちゃんでもないわよ。そうよね?」

「まぁ、少なくともジジババじゃあないかもねー」


 微妙なやり取りののち、ハッカンは少しだけ真面目な表情になって裕司に向き直った。


「さてお遊びはこれくらいにしておいて、本題に入ろうか」


 ハッカンの真面目そうな表情を見た時、裕司は心臓をぐっと握られたような気分に一瞬陥った。彼の瞳のきらめきに不穏な……いや理解不能なものを感じ取ったからなのかもしれない。こいつは人ならざる存在なのでは? 人の姿を取っているだけで、衣装を脱ぎ捨てるように人の皮を脱ぎ捨てて、中からおぞましい異形の本性をさらけ出すのではないのか――? そのような考えが、裕司の脳裏で駆け巡っていた。


「竹島裕司君。今回はボクの友達を助けてくれたみたいだし、折角だからお礼がしたいんだ」


 ハッカンの言葉を裕司はのっぺりと聞いていた。いったい彼は何をしてくれるのだろう。ぼんやりとした頭で考えていたが、上手に考えがまとまらない気もした。


「フフフ。お礼と言ってもキミに迷惑がかかるような事をするつもりはないよ。やっぱり、キミが悦ぶような事が僕らにとっても悦びであり愉しみな訳だからさ……」


――俺に迷惑が掛からないのならば、こいつの言うお礼を受け取るのもやぶさかではない。裕司はそのような考えを抱き始めていた。先程まで抱いていたハッカンや松姫に対する

疑問の念や不信感は今や薄れ始めていた。

 裕司は気付いていないが、それは相手の術中に嵌った事とも同義だった。


「そういう訳で、キミの願いを叶えようと思うんだ」


 ついにハッカンの口からその言葉が漏れ出した。願い。叶える。裕司の近眼気味の瞳に怪しい光が灯る。裕司の心中には叶えたいと思っている願いがあった。しかしこれは誰にも告げる事の出来ぬ代物であった。そもそも実現するとも思っていなかった。だからこそ心中の中でしっかりと抱え温め、その温さで半ば腐りかけている事を彼だけが知っていた。

 ハッカンの瞳も怪しく光ったような気がした。或いは目の動きから、裕司の心の動きを読み取ったのかもしれなかった。


「遠慮しなくてもいーよ。ボクはどんな事だってできるんだ。それはすなわち、キミがどんな願いを持っていたとしても叶える事が出来るって話なんだ」


 裕司は既に食い入るようにハッカンを見つめている。ハッカンの隣にいる松姫などはもう眼中になかった。


「あ、だけど一人あたり叶えられる願い事は一つだけっていう縛りは設けているんだ。幾つもたくさんの願い事が叶えられるんだったら、その願いに対する執念が薄れてしまうでしょ? 心からの、唯一無二の願いだからこそ有難さが増すってものさ」

「一つだけで十分さ」


 ハッカンが叶えられる願い事の数について、裕司は特にこだわらなかった。そもそも彼の願いは、心中で腐りかけたソレ一つだけなのだ。あとは何もいらない。

 さぁ願い事は? 畳みかけるようにハッカンが尋ねる。松姫も興味深そうにこちらを見つめているであろう事を察した。


「俺の願い事は――異世界に行く場所を教えてほしいんだ」

「異世界に逝きたいんだね?」

「そうだ……」


 ハッカンの確認に首肯しつつ、裕司は条件があると言い足した。


「最近の小説では、異世界と現世とを行き来する内容もあるんだよ。俺はそれにあこがれている。その手の話だと、現世とのつながりも保たれるし、何より異世界で手に入れたスキルや金品が、現世でも役に立つし」

「なるほどね……オッケーだよ裕司君。その願い、ボクがしかと受け止めたよ」


 ハッカンはそう言うと、首許を飾るアクセサリーの一つを引きむしり、裕司に手渡した。丸いファーボールだと思っていたそれは、銀色の鍵に変貌していた。表面には幾何学的な、そして何処か冒涜的な彫刻が施されている。


「それは異世界の扉だよ。その鍵がある限りキミは好きな時に好きなだけ異世界と現世を行き来できるだろうね」


 そう言うとハッカンは右手を水平に上げ、遠くを指し示した。


「ここから三十チェーン(約六百三メートル)先にある公園に逝ってごらん。そこから異世界の扉が開くから」

「わかりました」


 ハッカンのアドバイスに裕司は頷いた。ひとまず荷物を置きに家に戻らないといけないが、その後はすぐに異世界に向かってみよう。

 十数年ぶりに胸の中をワクワクで満たされるのを裕司はしっかりと感じていた。 

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