⑦あの頃をやり直したい! 副題:鋭角の狩人
ヒールの音をコツコツと鳴らしながら、石崎薫は地下鉄に続く道を歩んでいた。
時刻は午後の十時半をとうに過ぎている。十五分前までデスクに向かい、仕事をこなしていたところだ。令和の世にあるというのに、働き方改革は彼女の職場では幻のごとき存在だった。サービス残業なる、ふた昔前の悪習が未だ残っているような職場なのだ。それでも妙な所で男女平等となっている訳だから、だからこそ女性社員である薫にも旧弊のしわ寄せがきているともいえる。
もっとも、彼女が夜遅くに帰宅する事自体には問題はあまりない。一人暮らしだから門限を気にする必要もないし、地下鉄は午前零時まで走っている。問題はなかった――それはあくまでも表面上の話だが。
歩を進めていた薫は、奇妙な人影を見た気がして足を止めた。人影を凝視した薫は、顔を歪めて笑った。何という事は無い。彼女が人影と感じたのは、闇を映して暗くなったガラスに、おのれの像が反射しているだけの事だった。
――ああ、あたしってば随分と冴えない表情だわ
茫洋とガラスに映る虚像を見つめながら薫は密かに思った。出勤前にきちんと決めたメイクは崩れ、額や鼻の周囲では汗や脂と入り混じったファンデーションがダマになっている。瞼の皮膚は薄く、眼球の下の薄い肌は黒紫の隈に覆われていた。率直に言って疲れ切った姿だった。あたしってこんな風に見えていたのね。薫はそう思うのがやっとだった。
三秒ほど立ち止まっていた薫は、地下鉄がやって来る時間を思い出して歩み始める事にした。足取りは先程よりも重く、よろよろとしていた。おぼつかない足取りとは裏腹に、彼女の脳内はクリアになりつつあった。明瞭になった薫の心中に渦巻いていたのは、やり場のない憤怒と今までの道のりを歩んだおのれに対する後悔の念だった。
――本当に、あたし、こんなところで何をやってるんだろ。これじゃあ、ただの……
足は第二の心臓と呼ばれる事があるらしい。絶望と諦観の滲む脳裏であれこれと過去の記憶が走馬灯のように浮かんでは消えるのは、血流が良くなったからなのかもしれない。
あたしは何処で間違えたんだろう。就職活動での妥協? 大学でのゼミの態度? いやそもそも大学選びからして間違ったんじゃあないかしら……思念の渦は留まる事を知らなかった。薫は物静かな人物であると周囲からは思われている。それは自分の考えや分析が外界よりも内部に向いている事の裏返しに他ならなかった。彼女は内省的で、自己分析を厭わぬ思慮深さを兼ね備えていた。むろんそれはネガティブな感情に結び付くとドツボにハマりやすいという弱点の裏返しでもあったのだけれど。
「あの頃に、戻りたいなぁ……」
薫はとうとうおのれの考えを口に出してしまった。彼女の自己分析は直近の出来事から過去に遡り続け、とうとう中学生だった頃にまで到達していた。
中学生の頃は幸せだったと、薫は思っていた。今の陰気さや辛気臭さとは無縁の、屈託のない無邪気な時期がかつての自分にもあったのだ。平和に心安らかに中学生活を送ってきたというのに、その歯車が狂いだしたのは高校に上がってからだったはずだ。下らないスクールカーストとかいう枠組みにはめ込まれたのが、全ての始まりだったのかもしれない、と。
しかし――それをああだこうだと考えて一体何なるというのか? 中学を卒業してからもう十年以上経っている。人間である以上、過去に遡り、あまつさえ「あの頃」からやり直す事など物理的に不可能だ。こんな考えに陥るのも、倦み疲れた脳がおかしな考えに囚われたためであろう。
「こんばんは、おねーさん」
地下鉄の入り口まであと六十メートルといったところで、誰かが呼びかけるのを薫は耳にした。薫が驚き、半ば身をすくませたのは言うまでもない。夜中とは言い難いが随分と遅い時間だ。陰気だのなんだのと言っても薫とて若い女性である。相手が明らかに男声であった事もあり、半ば本能的に警戒したわけである。
「だ、誰よ……」
「ボクはここにいるよ、石崎薫さん」
声の主は一人の青年だった。彼は既に店じまいを終えた雑貨屋の看板の陰にでも隠れていたらしい。そうとしか思えないほどに、唐突に薫のすぐそばに出現したのだ。上半身は光を反射するがごとく白いワイシャツ姿で、下半身は闇に溶け込むような黒いスラックス姿である。首元を飾るネックレスは金色の細やかな鎖で、丸く淡い色合いのファーボールが七つ連なっている。
薫は眼球を上下させ青年の姿を凝視していた。どこからどう見ても、高校生かそれより少し年上の若者にしか見えない。こんな遅い時間にこの子は何をしているのかしら。しかも私の名前を知っているなんて……口の中が渇き、心臓の鼓動が早まるのを感じた。青年は端麗な面立ちではある。しかし目もくらむようなこの美貌も、青年の不気味さを際立たせているように思えてならない。
青年はアハトと名乗り、そう呼んでくれるようにと薫に迫った。初対面のはずなのに、同じサークルに所属する後輩のような気軽さだ。
アハトは言葉を終えると、黒々とした瞳を見開き、薫を見つめた。虹彩が真っ黒に見えるのは、夜だからだと薫は思う事にした。
「今の暮らしにさ、おねーさんは満足していないんでしょ?」
「なっ…………」
唐突な呼びかけに、薫は眉を吊り上げた。そんな事は無い。子供には余計なお世話だ。なんでそんな事を言うの……言うべき言葉はあるはずだった。しかしそれらは口から出てくる事は無かった。
言葉の代わりに、薫はアハトに視線を投げかけるだけだった。初対面であるはずの彼の指摘は正しいと、薫は認めてしまっていた。それに、青年の艶のあるテノールに聞き入っていたというのも事実だった。
「やり直すすべ、ボクは知ってるよ」
薫は何も言わず、目を丸くした。夢みたいな事を言っている男の子だと見做してスルーする事はもはや選択肢にはなかった。外套の灯りに照らされて白く輝くアハトの頬と、別の生物のように蠢く緋色の唇に彼女は魅入ってしまっていた。
「うふふ、下手くそな漫画とかアニメとかだとさ、やり直すと言っても一度きりでしょ? ボクのはそんなチンケでチャチな事は言わないよ? やり直したいときに、いくらでもやり直させてあげるからさ」
アハトはそういうと、首飾りをいじりだした。ブツリ、と何かが断ち切られる音を前に、薫は小さく声を上げる。何を思ったか、アハトは自身の首飾りの一部、丸いファーボールの一つを鎖から引きちぎったのだった。単なる丸いアクセサリーだと思っていたそれが、鳥の頭部に似た形状をしている事に、その時薫は気付いた。
「これを君にあげる」
お小遣いを姪に渡す叔父のような気軽さでいうと、アハトはちぎったアクセサリーを薫に手渡す。不気味なアクセサリーの一部を受け取るつもりなどなかったはずなのに、薫の手のひらはアハトに向かって伸びていた。
ずしりとしたものが手のひらに乗せられる。丸くてモフモフした飾りだと思っていたのに、手のひらに伝わってくるのは硬くてひんやりとした感触だった。
手のひらの上に乗せられていたのは、小鳥の飾りではなく一つのペンダントだった。鎖は繊細なプラチナシルバーで、ペンダントトップは丸っこく奇妙な塊に見えた。表面には、時計の盤面とも花びらともつかぬ装飾が施されている。
「そのロケットペンダントを付けると良いよ。そしてやり直したい時間の事を思い浮かべて、強い決意を抱いてごらん。そうすれば、過去に戻ってやり直せるよ」
アハトの瞳が薫をじっと見つめている。薫はいつの間にかロケットペンダントの鎖を手繰り、首にかけ始めていた。花時計のような装飾を施されたその塊が、心臓に似た形状であるという事に今更ながら気が付いた。
「よぉく似合ってるよ、おねーさん」
アハトは薫がロケットを付けるのを見届けると、手を叩かんばかりに喜んだ。薫はむしろそれどころではなく、戻るとしたらどの時間に戻るべきかと考え始めていた。
彼女の脳裏に浮かんだのは、今日の昼下がりの事だった。あの時上司の機嫌を損ねたせいで、またしても帰宅が大幅に遅れ、こうしてくたびれた状態で夜道を歩かざるを得なかったのだ――
「それじゃ、無…………に……れた…………、頑張ってごらんよ。鋭………………、……い………………てね」
アハトが薫に向けて何かを言っている。だが彼の言葉はノイズが入ったかのように殆ど聞き取れない。のみならず、視界が揺らぎ、今ここにいる場所が明るいのか暗いのかさえあやふやだ。
はっと気が付くと、帰宅しようとしていたはずの薫はオフィスの中にいた。ブラインドのかかった窓辺からは白い光がこぼれている。薫はわたわたと周囲を見やった。時刻は午後の二時半である。日付は変わっていない。
首元のごつごつとした感触に違和感を覚え、視線をずらす。今日の夜アハトに貰ったロケットペンダントがそこに在った。今一度パソコンの画面で日時を確認した薫は、全てを把握した。
――そっか。あたし、過去に戻ったのね。ああ、だけどこの時間に執着していたからここに戻ってきてしまったんだわ
今の状況とロケットペンダントの能力を把握した薫は、うっそりと微笑むと軽く目を伏せた。戻るべき時間はここではない。もっと前、できれば高校に入ってすぐの頃だ。
そう思っている間に、薫の視界が揺らいだ。二度目の光景だが、もうその光景にも慣れ切っているような気がしてならなかった。
※
かくして薫は二度目の時間遡行により、二度目のハイスクールライフに突入する事と相成った。
時間の巻き戻し。それだけでも尋常ならざる出来事であるのだが、これらの事は驚くほど薫に都合の良い状態で行われた事を付け加えておこう。高校生に戻った薫が、ミドルティーンの少女に戻った事は言うまでもない。しかし戻ったのは外面、すなわち肉体的な部分のみだった。かつての薫が四半世紀かけて培ってきた意識や精神や知識は、若返りなおかつ過去に戻った薫にきちんと継承されていた。多少忘れかけていた部分はあると言えど、高校生だった頃の記憶があるのは言うまでもない。
――やったわ。これで人生がやり直せるわ。知っている事を活かして、前の自分とは違う、充実した暮らしを掴み取るのよ
濃い桃色の八重桜と、淡い桜色のソメイヨシノが咲き誇るのを見つめる薫の心の中は、ひとかたならぬ決意で満たされていた。
二度目の高校生活は、一度目のそれとは大いに異なる結果となった。薫は学内の人気者になれたし、学力も申し分ないものだった。既に成熟した精神の持ち主であった彼女が、まるきり少女のような振る舞いをするのは難しかった。しかしながら少年少女が持ちえない気遣いや先見性でもってクラスメイトや部活の仲間を導く事により、彼ら彼女らの信頼や好感を得る事に成功したのだ。何がヒットするかについても言及できたので、大半の生徒は薫のカリスマ性に驚き、心服してくれもしたらしい。
……実を申せば、薫は二度目の高校生活でも間違った選択をしてしまった事はあるにはあった。過去の記憶を持っていると言えども、薫とて常人だ。今まで起きた事を全て掌握している訳でもないし、感情に任せて動いてしまった時もある。
だが彼女には、ずっと身に着けているロケットペンダントが心強い味方だった。失敗したと思うたびに、願掛けをするかのように決意を固め、失敗する前に戻ったのだ。それはちょうど、迷路に放り込まれた実験用のマウスの振る舞いと似ていた。マウスは電撃という罰を知る事で、正しい道を模索し、回を重ねるごとに迷路の攻略時間が短くなるという。もっとも薫の場合、罰は電撃のようなものではなく、また時間そのものを巻き戻すために、時間などかかりはしなかったが。
※
昼下がりのキャンパスの中、薫は深くため息をついていた。二度目の高校生活では優秀な成績を収めた薫は、一度目とは異なる大学に進学する事が出来た。一度目では学費ばかりがかさむ私立大学だったのだが、今回は国立大学に入学した道を選んでいた。
その大学は、かつての薫がどうしても進学したいと思っていた大学だった。一度目の高校生活では、怯懦と悔悟に満ち満ちたあの生活では学力や気概が足りずに泣く泣く別の大学を選んだわけだが――今回は学力も気概も申し分ないために、楽々入学できたのだ。何しろ、巻き戻す力に頼らず、入学試験を一発で突破できたのだから。
桜の花びらが静かに散るのを眺め、薫はロケットペンダントを静かに撫でた。薫は幾度も時間の巻き戻しを繰り返し、望んだ未来を手に入れたはずだった。しかし何故だろう。彼女の心は幸福で満たされている訳ではなかった。試験の合格通知を見た時、かねてより希望していたこの大学の門をくぐった時は高揚感で舞い上がりそうになっていたはずだ。だというのに、酩酊の中で見出せるような歓喜と興奮はもはやない。むしろ悪酔いの後に必ず訪れる、けだるさと妙な後味の悪さが心の中に居座っているだけだ。
――どうして? どうして心が満たされないの……?
次の講義が始まるまであと七十分はある。薫は春の日差しをその身に浴びながら自問した。五月病というには時期が早すぎる。春になると憂鬱になる人間がいるというが、自分がそれだと認めるつもりはなかった。
いっそ巻き戻った方が良いのだろうか。ずっと前に。そんな考えに至った事に気付いた時、薫は人知れず身を震わせた。
あれこれ思案を重ねるうちに、薫はある考えに思い至った――自分が憂鬱なのは、一度目とは異なる道に向かった事への恐怖なのだ、と。薫は知らず知らずのうちに、巻き戻る能力に依存していたのだった。
「ねぇ君」
これはもう一度高校生活に戻るべきか否か。割と真剣に悩んでいた薫に声がかけられた。薫はアハトという青年の事を思い出していた。彼と出会ったのが、もうずっと昔の事のように思えてならない。しかし今声をかけているのは、声の質からして少年のようだった。
果たして視線を上げると、一人の少年がこちらを見つめていた。年のころは十代半ばであろうか。しかし妙に堂々とした態度でそこにいるので、もしかすると大学生かもしれない。地味な男子が好むようなチェック柄のシャツと、染色したように赤褐色の巻き毛が特徴的だ。アハトとは眼差しも面立ちもまるで違うのに、彼の佇まいからは、アハトの面影を見出していた。
「とっても疲れているみたいだけど、大丈夫?」
気遣うような調子で尋ねられ、薫は目を白黒させた。男性と言えど相手は自分よりもうんと年下だ。大丈夫よ、と言うべきなのだろう。しかしすぐには言葉は出なかった。
「自分の願望と言えど、先の見えない過去の旅行を何度も繰り返したんだよね? 大変だったでしょ?」
「…………ッ」
憐れむような少年の言葉に、薫は身をすくめ、ついでロケットペンダントを右手で覆い隠した。少年の異様さを彼女は即座に悟ったのだ。薫はこれまでに、規模は小さいと言えども時間遡行を繰り返した。なれどそれに気付く者は誰一人としていなかった。
「君は、オジサンに唆されたんだ」
「あなたは、一体……」
目を丸くする薫をよそに、少年はそっと手を伸ばした。気遣う眼差しも憐れむ表情も、見た目通りの少年であるようには思えない。少年の姿を取っているが、何か得体の知れない者、悠久の時を生き続けてきた者のように思えた。
「時間を遡ったり巻き戻ったりするなんて力は僕らには身に余る力なんだ。そのロケットペンダントを僕にくれないかい? 君は元の世界に戻るべきだと僕は思う。元の世界がつらくて過去に逃げてきたみたいだけど、けれどやっぱり袋小路に入っちゃったんでしょ? それなら、元の世界で頑張った方が良いかもしれない。同じしんどい事でも、自然の摂理に従っているのと自然の摂理に逆らっているんだったら、しんどさの度合いは段違いだしね」
薫は逡巡したのち、ロケットペンダントを取り外し、少年に手渡した。少年はごく当たり前の事のようにロケットペンダントを見、受け取っている。あれは持ち主である薫以外には見えない代物だったはずなのに。
「これで君は元の世界に戻れるよ」
少年は微かに微笑んでいた。何とも儚げな笑みに見えた。彼が手にしているロケットペンダントが淡い虹色の光に包まれ、輝いている。
「だけどくれぐれも鋭いものや尖ったものに気を付けるんだよ。君はタイムトラベルの常習者になってしまった。そんな君を奴らが見逃しはしない……本当は、僕が君に護る術を伝えてあげられれば良いんだけど、非力な僕にはどうしようもない事なんだ」
切なげな少年の忠告を耳にしているうちに、薫は視界が揺らぐのを感じた。自分も虹色の光に包まれている。
※
気が付くと、薫は元の世界に戻っていた。地下鉄のすぐ傍まで戻ってきている。一度巻き戻った世界には四年ばかり逗留していたはずだが、今こうして戻って来てみると、それも長く感じただけの、儚い夢のように思えてならない。
歩を進めようとした薫は、ふと雑貨屋の看板に視線を走らせた。人影はなく、アハトと名乗った青年が飛び出してくる事は無い。
「やっぱり私は私なんだ。明日からも頑張るわ」
薫はおのれを誇示するかのように、誰に言うでもなく呟いた。
彼女の視線はぼんやりと光る駅の入り口に向けられていた。だから彼女は気付かなかった――今しがた視線を向けた雑貨屋の看板のでっぱりから、スライムと猟犬を足して二で割ったような、異様な怪物たちが顕現している事に。
※ティンダロスの猟犬……クトゥルー神話小説に出てくる神話生物。普段は我々と異なる世界に生息しているが、タイムトラベルを行った存在に気付くと、鋭角を通じて顕現し、標的を喰い殺す。鋭角のない場所に逃げ込めば助かるらしいが、やり過ごすのは困難を極める。(作者註)
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