⑤ハイスペチートになりたい! 副題:ロイコクロリディウムの計略

※ハイスペ……ハイスペックの略称。元々スペックはコンピュータ等の機械の性能を示す用語であったが、近年では人間の能力に転用されるケースも散見される。(作者註)


 高校のすぐ傍に図書館があるのは倉田牧夫にとって都合のいい事だった。無論高校にも図書室はあるが、そこと図書館のクォリティー、品揃えは雲泥の差があると言ってもいい。

「子供はこれだけ読んでおけばいいんだ」という教師側の傲慢と蒙昧さが滲み出たラインナップだと牧夫は思っていた。ラインナップの貧弱さがあらわになっているのはやはり小説、娯楽小説の類であろう。小説の多くが純文学か毒にも薬にもならないような一般小説に過ぎない。ライトノベルの類の品揃えは絶望的だ。児童書の延長線上にあるものか、そうでなければ昭和末期に発行された、古臭くカビ臭ささえ感じられるようなブツしか置いていない……まぁ要するに、牧夫はライトノベル、ことウェブ小説が書籍化されたようなものを好んで読むタイプであり、ゆえに高校の図書室に有用性を感じられなかったのである。

 ともあれ牧夫は今日も今日とて学校が終わると図書館に向かい、好みの小説を物色していた。

ちなみに牧夫自身は文芸部に所属し今日も部活があるはずなのだが、それをサボタージュして図書館に逃げ込んでいた。そもそも文芸部は各人が作った小説を部誌として発行するのが最終目的なので、活動日に必ず出席せずとも咎められる事は殆どない。それに女子ばかりの女子会サロンと化した文芸部には牧夫の居場所は無かった。女子ばかりの部活に潜入できれば彼女らとお近づきになれると思ったのだが、現実はそう甘くなかった。

 文芸部の女子達は、牧夫の事を一応は文芸部の仲間と見做してはいた。しかしその一方で牧夫を密かに疎んでいた事も知っていた。その原因は読んだり書いたりする小説の嗜好の違いによるものなのだろうが、もっと根本的な問題でもあるのだと牧夫は思っていた。

 すなわち――おのれの容姿が優れぬからであろう、と。ずんぐりとした贅肉を蓄えた肉体と、丸っこいジャガイモに目鼻を付けたような容貌が、繊細で可憐な女子達にはウケないのだと牧夫は思っていたのだ。


「やった。あったぜ」


 小声で牧夫は言うと、臆せず発見した本の背表紙を手にした。本物の文学少年なら憤怒で卒中を起こしそうな無闇に長いタイトルと、アニメ調の様相ながらも、仔細を眺めずともポルノも真っ青なハレンチなイラストのブツである。彼はそういう手合いの本をわざわざ探し出し、何冊も抱えていた。

 牧夫がこの手の作品で特に好むのは「蓮田 錬」という作家の作品だった。犬耳を持つショタだかロリだか解らぬものを従えた主人公の物語なのだが、作風はダークと言う他なかった。作品の通底にある物が「復讐」なのだから致し方ない話なのかもしれない。犬耳の童も愛らしいのは見た目だけで、主人公の怨敵や敵と見做した者に容赦なく襲い掛かり、地獄のどん底に突き落とす役目を担っていた。心清らかな風紀委員・生徒らを純真だと思っている情熱溢れる若く蒙昧な教師であれば、卒倒不可避の内容である。だが牧夫はこれを面白がって読んでいた……ただ残念なのは、今後蓮田 錬が作品を刊行する可能性がゼロになってしまった事だ。暇つぶしにネットサーフィンを行っていた折に、彼が奇妙な失踪を遂げたという記事を目撃したのだ。ついでに言えばその時に斑田猫蔵とかいうライターの失踪の事も知ったわけだが、それについては特段牧夫も気にかけてはいない。

 彼が好む作品には、これとは別系統の内容もあった――作品の序盤で醜い容貌の主人公が謎の変身を遂げるモノを、先述の蓮田の作品と同じくらい牧夫は好いていた。無論作中主人公が変身するという空想科学のメカニズムに興味を持ったわけではない。彼は純粋に主人公に感情移入していただけだ。後々続く主人公がひたすら無双と呼ばれる傍若無人な振る舞いも、それと誰一人として咎めずむしろ称揚するエキストラ群の行動についても同じだ。同年代のリアリスト共ならば多大なる疑問を持つ展開を何故牧夫は盲目的に愉しめたのか? それは単純な話である。彼もまた変身願望があるからに他ならない。容貌が優れ、尚且つ秀でた能力があれば人生イージーモード待ったなしであると信じていたのである。




「面白い本、いっぱい見つけて良かったね」


 図書館を後にした牧夫は、背後で無遠慮に投げかけられた声に驚き、半ばすくみ上りながら振り向いた。声の主を確認した牧夫の顔は、すぐに渋面で浮かんだ。相手があからさまなイケメンである事を認識したためだ。制服めいた衣装を身に着けているが、牧夫と同じ高校の男子では無さそうだ。


「なんだ、お前は」


 本の詰まったバッグを抱え込みながら、鼻息荒く牧夫は問う。ある種凄みのある彼の表情を前にしても、青年はさほど驚くそぶりも見せない。金の鎖で繋がれた、灰褐色の七つの首飾りを揺らしながら、彼は応じた。


「ボクの事は気軽に結人って呼んでよ。悩める若者の願いを叶えるのが生きがいの、しがないおせっかいさ」


 明るい彼の自己紹介を、胡散臭そうに牧夫は見つめるだけだった。願いを叶えると言っても、そもそもイケメンが上から目線で言っているような気がして気に食わなかったのだ。


「――変身願望があるんでしょ、倉田牧夫君」

「――――!」


 牧夫は何も言わなかったが、結人は笑みを深めた。牧夫は確かに何も言わなかった。何も言わずとも、一瞬見開かれた瞳やけいれんした頬の動きが全てを物語っていた。

 その願い、ボクなら叶えられるよ。爽やかな容貌にはそぐわぬねっとりとした笑みを見せながら、結人は牧夫ににじり寄った。


「イケメンに変身して、自分を馬鹿にしてないがしろにしている女子達や変なチンピラたちを見返したり称賛されたりしたいんでしょ? ボクね、そんなおにーさんの願いを叶えるのに、丁度良いモノを持ってるんだ!」


 結人の手のひらには、いつの間にか小さな巾着袋が乗せられていた。


「この中にはロイコ錠って言うお薬があるんだ。それを飲めば、すぐにハイスペックでチートなイケメンに変身できるよ!」

「ロイコ錠……?」


 通販で聞いたような名前に似ているな。牧夫は内心で訝りつつも、既に差し出された巾着袋をちゃっかり受け取っていた。


「ロイコ錠は、ロイコクロリディウムにちなんだ名前なんだ。じめじめした陰キャも、これのおかげで素敵な陽キャのイケメンに仲間入りできるよ。それにね、ちゃんとチートの陽キャらしい振る舞いも君自身で迷わなくて済むようになるから!」


 結人はそれこそ陽キャのイケメンらしく、高めのテンションでロイコ錠の説明を行ってくれた。牧夫の心中には既に疑念は無く、巾着袋の布地をまじまじと観察していた。玉虫色に光る布地に無数のいびつな泡とツタ模様を描いたような意匠である。


「それじゃ、君も楽しいイケメンライフを!」


 結人の明るい声が牧夫の耳朶を打つ。視線を上げた時には、既に七つの首飾りを提げる結人の姿は無かった。



 ロイコ錠は薄紅色の半透明な丸薬であった。大きさは大豆程度であり、内部には濃い赤紫の渦模様が出来ている。

 入浴し自室に戻った牧夫は、巾着袋からロイコ錠を取り出して数秒間眺めたのち、一気に摘み上げて飲み込んだ。立て続けにペットボトルの水を口に含み、そのまま胃の奥へと流し込む。水と一緒に飲めという指示は無かったが、単なる水であるから問題は無かろう。


「…………?」


 胃の辺りを手でさすり、牧夫は小首を傾げた。巾着袋の中にあってなお生温かかった気もするが、特に何かが変わった気配はない。

 少しの間思案を重ねた牧夫だったが、そのままベッドに潜り込んだ。夕食と入浴を終えたためであろう。急激に眠気が牧夫の身体を包み込んでいったのだ。



 朝。普段の目覚めより少し早い時間であったが、意識が浮き上がるとともに牧夫はカット目を見開いた。目を開けただけで布団の中でじっといしていたが、自分の身体が融けずにそこに在る事にひどく安堵していた。泥のような眠りの中、自分の肉体がスライムのように融けていく夢を見ていたのだ。リアルで不気味な夢だったのだが、融けていく間には苦痛は無く、むしろ甘美な感覚に抱かれていたのが最も不気味だった。

 しかし今自分は目覚めた。おのれの肉体が融けて崩壊している訳でもなく、布団やベッドと一体化している訳でもない。五体満足の状態でここにいる。

 五体満足……と思っていた牧夫だったが、おのれの身体に違和感を覚え始めてもいた。何というか妙に身体が軽い。開いた眼は瞬く間に潤み、僅かに痛みを感じる。部屋の中にいるはずなのに、遠くにいるであろうハシブトガラスの澄んだ啼き声がやけに明瞭に耳に入ってくる。

――クラタ・マキオ。ホモサピエンスのオス。感覚器のチューニングを開始します

 奇妙な音声を牧夫は聞いた。実際に耳にしたというよりも、心の声のような、頭の中から聞こえてくるような音声に感じた。唐突とした声の主に驚く牧夫は、目や耳の異変が和らぐのを感じた。目を覆っていた涙の膜が晴れる。天井の仔細な模様や傷まで裸眼ではっきりと見えている事に今更ながら牧夫は気付いた。ゲームやスマホ、そして読書に耽っていた牧夫は近眼が進み、眼鏡が無ければ手許もままならぬ有様だというのに。

――チューニング終了、チューニング終了。肉体改造および感覚器の改変も無事に終了しました。

 今一度、脳裏に声が響く。誰だろう。牧夫は首を捻った。おのれの脳にアクセス可能なナビゲーターがあるという設定は、それこそ大好物のウェブ小説で見た事があるが、わが身に降りかかると驚き、戸惑ってしまうのは致し方ない。

――申し遅れました、マキオさん。私は〈ロイコスキル〉を保有するマキオさんをサポートする、タウィルでございます。マキオさんの新しく華やかな人生を演出するためにサポートを致します……

 声の主が自己紹介をしたところで、牧夫の脳内にあった疑念は輪郭が薄れ、ちりぢりになってしまった。そう言えば主人公たちの持っていたスキルとやらも賢者系統であれば対話もできたではないか。となるとステイタスも確認できるのだろうか。

――ステイタスであれば、瞬きを二秒間に四回行っていただく事で都度連絡いたします。ですが、マキオさんに置かれましては、ひとまず鏡でお姿を確認なさった方がよろしいのではないでしょうか。

 タウィルの言葉が終ると、牧夫は半身を起こし胸元までかかっていた布団をずらした。小猿のような身軽さでもってベッドから脱出すると、顔を洗うふりをして洗面台に向かった。

「なっ……これは……」


 嘆息と共に紡がれた牧夫の声はかすれていた。鏡に映るおのれの顔を、さも呆けたように彼は見つめ続けてきた。ここまで長時間鏡を見た事は無かったが、その事に気付かぬほど牧夫は鏡に見入っていた。

 鏡に映っていたのは、爽やかさと精悍さをいい塩梅に持ち合わせたイケメンだった。茫洋と口を開けた間の抜けた表情を浮かべていたわけだが、それすらも様になっていた。そして、その姿こそがおのれの求めた姿であると悟ったのだ。

――マキオさん。そろそろリビングに入って朝食の用意をなさると良いですよ。

 タウィルの柔らかな声で牧夫は我に返った。が、内心戸惑いを隠せずにいた。タウィルは朝食を用意すると良いと言っていた。だが牧夫自身は料理は得意ではない。料理など調理実習であたふたと行うレベルでしかない。

 そんな牧夫の戸惑いを感じたのか、タウィルのものと思しき笑い声が牧夫の中でかすかに聞こえ始めた。

――どうぞご安心を。私が全てナビゲート致します。マキオさんはそれに従うだけで大丈夫なのです。悩む必要は何一つございません

 何一つ悩む必要は無い。タウィルの言葉に牧夫は静かに頷いていた。おのれが悩まずとも誰かが解決してくれる。それが良いという考えを牧夫は密かに抱いていたわけだ。


 さんさんと輝く日差しの下、高校へ向かう牧夫の足取りは軽快なものだった。太陽の下、明るく弾んだ気分で歩を進めるのが何時ぶりの事なのか解らなかったが、そのような事は今の牧夫には些事であった。十六にして生きる事の悦びを味わっていた。

 驚くべき肉体改造を遂げた牧夫に対し、家族たちは驚くよりもむしろ喜んでくれた。更に言えば、タウィルの導きにより牧夫が作った朝食を、こんなに美味しいものは無いと言わんばかりに平らげてくれたのだ。家族の中の牧夫の株は爆上がりだった。両親だけではなく気難しい妹も、である。

 凛々しい見た目を褒めそやされ、料理の腕前に感激してくれた事は、牧夫の日頃くすぶっていた心によろこびの焔をともしてくれたのだ。

――マキオさん。五ヤード(約九メートル)先に分かれ道がありますが、そちらの普段通らない方を通ってください。

 タウィルの声が牧夫の脳内に響く。彼はもはやタウィルのアドバイスに疑問は抱かなかった。きっとタウィルが言うのならばそれは意味があり、しかも牧夫自身にとって理のある事なのだと数時間前に把握した所だったためだ。


「あの……どうしたの?」


 果たして普段通らない分かれ道に入ると、一人の女子高校生がへたり込んでいるのが目に飛び込んできた。彼女は鞄を地面に置き、スカートが地面に着くのも厭わず地面に視線を向けている。長くさらさらとした髪が彼女の頬やこめかみを優しく覆っているのを眺めているうちに、彼女が顔を上げた。顔立ちは清楚で可憐だが、何故か両目をすがめたままだ。


「コンタクトを落としちゃったの。全然手許も何も見えなくて……」


 困惑を織り交ぜた少女の言葉に、牧夫はすぐに全てを把握した。昨日まで眼鏡を手放せなかった身分である。裸眼での視界の心もとなさも彼には身近な事柄であった。

――ハンカチを落としてごらんなさい。そうすれば、京子嬢のコンタクトレンズは見つかりますよ。

 この娘、京子って言うのか……タウィルのアドバイスに妙なツッコミを入れつつ、牧夫はハンカチを地面に放った。特に風は無いのだが、畳んでいたハンカチは空中でごく自然に開き、地面にゆったりと落ちていった。濃青色のハンカチの中で、奇妙な膨らみが二か所出来ているのを牧夫は発見した。

――ほら、見つかりましたでしょう? 潰さないように注意して京子嬢に渡せば良いかと。

 牧夫は少し考えてから、ハンカチの端を持ち、半ば丸めるような形で巻き取りつつ持ち上げた。見つかったみたいだよ。言いながら彼はハンカチを広げた。ハンカチの上に一対のコンタクトレンズがあるのを見届けたその時には、京子嬢の顔笑みほころんでいた。



 ロイコ錠というものが果たしてどのような効能を持つ代物なのか、牧夫にはいまだ判然とつかなかった。しかしロイコ錠による肉体改造と牧夫に憑依したタウィルの存在は、牧夫を以前よりより良い暮らしに導いてくれたのは事実である。

 すなわち、牧夫は幾度も読んだ小説の中で憧れたようなハイスペチートの好青年になる事が出来たのだ。際立って優れた容姿が皆の心を惹きつけたのは言うまでもない。ただそれ以上に、時折タウィルが寄越すアドバイスが、牧夫を一層魅力的にしていた。タウィルは困っている人がいるのを事前に報せ、小説やポエムの内容を捻出し、更にはテストの答えの内容にさえ言及した。牧夫はもはや疑問なくタウィルのアドバイスに従うのみだった。それでおのれに利益がもたらされ、更には他者からも良く見られるのだから。


 それはおのれの容姿にも、皆の称賛にも慣れ始めた六月の夕方の事だった。既に文芸部の女子達を懐柔しきった牧夫は、彼女らと共に高校から駅に至る道を歩んでいた。容貌と態度ががらりと変わった牧夫の事を彼女らは真の仲間として認めていた。のみならず牧夫に対して恋慕の情を抱く者もいるくらいだ。そういう女子は牧夫の視線や笑みを見ると、いっとうしおらしい様子を見せる訳である。

 さて一行と共に歩を進めていた牧夫だったが、彼らの前に、何処からともなくやって来た野良犬が姿を見せた。女子達が驚いて足を止め、牧夫も立ち止まった。

 野良犬と言っても、ジャーマンシェパードに引けを取らぬ立派な体躯の犬である。何があったのかは解らぬが、首筋から背中の毛を逆立て、白い牙を覗かせ唸り声さえ挙げている。機嫌が悪く、明らかに危険そうな状態だ。

 どうすればいいのタウィル。安全に逃げるには――牧夫は知らず知らずのうちにタウィルに心の中で呼びかけていた。ネットユーザーが知らぬ単語を検索する以上に、牧夫は解らぬ事があればタウィルを頼るようにいつの間にかなっていたのだ。

――逃げるまでもありません。攻撃フェーズに入りましょう。

 タウィルの言葉に疑問を抱いたその時には、既に牧夫の身体は動いていた。彼は野良犬に臆せず近付いていき――その右脚は野良犬の胴を蹴り上げていた。

 突然の攻撃に野良犬は反撃すらできない。勇ましく恐ろしげな体躯には似つかぬ、キャインとかクーンなどと言う悲鳴を上げるだけだ。

 それでも牧夫の攻撃は止まらない。厳密には止められなかった。犬を蹴るなんて行為は牧夫にも予想外だった。しかしそれでも牧夫の手足は犬の攻撃のために動いていた。犬の腹部や胴を数発蹴り上げると、牧夫は犬の鼻づらや頭部を殴り、挙句片耳を引き千切らざるを得なかった。無論女子達は牧夫を見ている。

 何だ。一体俺は何をやっているんだ。疑問を抱いた時には、犬はもう反撃すらままならぬ状態だった。千切れた片耳と潰された片目から血を流し、その場に伏せっている。牧夫の片足は、牧夫の意に反して犬の頭部を踏みしだいていた。

 犬が完全に動きを止めた丁度その時、脳裏で軽快な音楽が流れるのを耳にした。ゲームのレベルアップ時に流れる効果音そのものだった。

――おめでとうマキオさん、ポイントを獲得しました

 唐突にタウィルの声が脳裏で響く。血生臭い状況下にあって底抜けに明るい声だと牧夫は思った。

 犬の死骸から離れ、牧夫は女子を振り仰いだ。彼女らは怯え切っていると思ったのだ。しかし――一方的かつ暴力的な行為を目の当たりにしていたはずなのに、居並ぶ女子達の顔に嫌悪の念は無い。のみならず、憧憬と恋慕の情がより強まってさえいるようだった。


 牧夫が野良犬殺しを行って以来、牧夫の日常にレベルアップと言う名の暴力行為が差し挟まれる事になった。特段高校とその周囲の治安が悪いわけではないと思っていたが、あの野良犬とエンカウントしてから、素行の悪い不良や学校生活を放棄したチンピラ小僧、果てはヤクザ崩れの半グレ者との遭遇が度々あった。

 牧夫は彼らと戦闘し――戦闘させられ、と言った方が正しいかもしれないが――ことごとく彼らを打ち倒した。牧夫は傷一つ負う事無く、相手は軽症でも腕や脚が折れているという始末である。タウィルはこの戦闘が終わるにつれ、レベルアップしただのステイタスが上昇しただのと連絡してくれた。

 タウィルの無機的な声には喜色が宿っていたが、牧夫自身は当惑とそこはかとない恐怖を未だに捨てきれずにいた。牧夫は今や物事の選択のほぼ全てをタウィルに任せていた。しかし戦闘の時はそれとは別だった。自分の意志があるにもかかわらず、自分が何者かに操られて動いているような気がするのだ。

 輪をかけて不気味なのは、周囲の反応だった。牧夫は既に野良犬を殺し、また人間の不良やチンピラたちを傷つけてもいる。本来ならば誰も彼も牧夫を恐れ、疎むのが自然な流れだ。それ以前に動物虐待と傷害罪や暴行罪(或いは殺人未遂)などの罪科で警察にしょっ引かれるのが筋であろう。しかし実際にはそのような事は起こらなかった。不良にさらわれかけた娘も自分を称賛するクラスメイトも駆け付けた警察も、誰も牧夫の行為を咎める事は無かった。むしろ彼らは牧夫を称賛すらしていたのだ。



 夏休みの前夜。牧夫は眠りの中で明瞭な夢の中に意識を投じていた。ロイコ錠を飲んでから、目を覚ました時まで覚えているような明瞭な夢を見る事が出来るようになっていた。夢というのは大抵支離滅裂で連続した夢を見る事もほとんどない。しかし牧夫の夢は脳が見せる記憶の残滓ではなく、奇妙ながらも一貫性のあるもう一つの世界のようだった。前に見かけた人物や生物に、そこでは会う事が出来たし、前に向かった壮麗な王都を目の当たりにする事もあった。牧夫は密かにこの夢で見る世界の事をドリームランドと呼んでいた。


「お元気そうですね、マキオさん。私も嬉しゅうございます」


 つづらにうねった石畳の道を歩いていると、タウィルに声をかけられた。ドリームランドはやはり現世とは何かが違うらしい。日頃が牧夫の脳内にいて声をかけるタウィルも、こうして一人の人間としてそこにいるのだ。虹色または玉虫色に輝くローブをしっかりと身に着けているために、顔どころか目つきさえ解らぬ状態であるが。

 

「……確か世間では、明日からナツヤスミだったかと」

「ああ……うん」


 牧夫の返答を聞くと、タウィルはローブの奥でにやりと笑った気がした。そしてその笑いに不穏な何かを牧夫は感じ取ったのだ。


「そろそろ女を知っても構わないタイミングですね」

「な、何を言ってるんだ!」


 唐突なタウィルの言葉に牧夫は柳眉を吊り上げ声を荒げた。牧夫は既に女子達に慕われ、一見するとハーレムを構築しているようにも見えた。しかし牧夫の中では彼女らは未だ親しい友達のような物である。異性とお近づきになりたい気持ちもあるし色欲もまぁあるにはある。だが、すぐにそう言う関係になるのはあまりにも急だ。


「何を反駁する必要があるのですか、マキオさん。いえ言葉を変えましょう。ロイコスキルを得た以上、あなたにはこの私に逆らう権限など無いのですよ」


 タウィルの顔は相変わらず見えない。しかしローブの奥にある瞳が紅く怪しく光ったのを目の当たりにした気がした。


「そもそもあなたはわがロイコスキルを甘受し、しがない日々から脱したではないですか。それにステイタス上昇のために多くの生き物を犠牲にしてもいるでしょう。今更後戻りできぬというのに、女とベッドインする事くらいで何をそこまでうろたえる必要があるのでしょう?」

「こ、このっ……」


 牧夫は地面を蹴り、半ば何も考えぬままにタウィルに躍りかかっていた。ひとまず一、二発殴ってやろうと思った。暴力は何度も振るってきた。しかしタウィルに操られているのではなく、おのれの意志での暴力はこれが初めてだった。何しろ、タウィルを害そうとしているのだから。

 躍りかかったはずみでタウィルのローブがずれ、彼の顔があらわになった。牧夫は驚いて瞠目し、動きを止めた。ローブに隠されたタウィルの顔は、変身後の牧夫の顔そのものだったのだ。


「うっ……ぐっ」


 みぞおちに鋭い痛みが走り、牧夫はその場に頽れた。ゲームや漫画などで勇者が振るうような無駄に壮麗な剣が刺さっている。刃先はきっと背中側に貫通しているのであろう。柄は銀色に輝いていたが、赤黒い体液がねっとりと付着している。

 夢とは思えぬ激痛に牧夫の心は千々に乱れた。剣を抜かねば痛みは長引くが、抜いてしまったらどうなるのかが恐ろしい。


「安心し給えマキオさん、いや矮小なるホモサピエンスよ。君の意識がここでついえようとも、あとは私が上手く便宜を図って進ぜよう。短い間だったが楽しかっただろう。私は君が丁度いい塩梅になるまでコントロールしておいた。君の肉体を借りて現世に顕現し、私が想うがままに暮らそうと思うんだ。さらばだ」


 いつもとまるきり異なった口調で言い放ったかと思うと、タウィルはローブの裾を翻し何処へともなく立ち去って行った。

 牧夫の周囲には奇怪な犬たち――目は潰れ、耳は塞がりヨタヨタと歩く犬たち――が集まり出していた。彼らは牙のない口から黄緑色の涎を滴らせ、うずくまる牧夫への包囲網を縮めていった。

 

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