②ざまぁをやりたい! 副題:逃れ得ぬ外道のくびき

「――――?」

「あ、はぁ……すみません」

「―――!」

「は、い……気を、つけ、ます」

「――……」


 亀山太一は今日も今日とて上司に頭を下げていた。もはや恒例となった上司の叱責は、実はそれほど苛烈なものではない。だがプライドは高いのにどうにも有能さを発揮できない太一の心を、サボテンの棘よろしくささくれさせるには十二分すぎる代物だった。

 叱責が終わると、乱雑に手にしていた資料をまとめ、自分の席に戻る。同僚や後輩たちの視線がおのれに向けられているのを太一はひしひしと感じた。俯いて、泥とホコリで汚れたつま先を見ているだけでも解る。彼らは嘲笑と侮蔑の眼差しを向けているのだ、と。

(全く。どいつもこいつも俺の事を正しく評価せず評価しようとしない愚か者どもめ……)

 どかりと椅子に腰を下ろすと、太一はそのままデスク周りを片付け、さっさと帰り支度をしてしまった。行うべき仕事はまだあるはずなのだが、既に定時は超えているから問題ない。これこそ働き方改革だと太一はおのれに言い聞かせていた。それに――今日はこの後喫茶店で恋人と落ち合う事になっているのだ。


「――っていう訳でさぁ、今日もあいつはこの俺に色々と難癖を付けてきたんだよ。全く、年長者の説教というものほどうんざりするものは無いよなぁ。過去の実績とか経験をあいつは誇りに思っている訳だけど、所詮はホコリどころかカビに蝕まれているような、古臭い昭和の実績に過ぎないって言うのに……それにしても、何だって昭和生まれの屑どもは、僕らのような平成生まれの連中を目の敵にし、ないがしろにしようとするんだか」

「それはまぁ……大変だったのね」


 恋人の鶴谷真美は、太一の言葉に耳を傾け、静かな調子でそう言った。真美は大人しく従順な女性で、太一の話を傾聴し、そのうえで彼が求めている返答をだいたいの割合で返してくれた。太一自身は自惚れ気味の気取り屋だから、ある意味大人しく冷静な真美とは相性が良いともいえるのかもしれない。

 しかしそれにしても、真美のやついつになくしおらしいな……注文したカフェオレを少し飲みながら太一は思った。わざわざカフェオレを頼んだのにコーヒーフレッシュを投入したそれは、さながら重厚なカップに入った白い泥のようになっていた。


「どうしたんだい真美ちゃーん。せっかくのデートなのに、いつになく打ち沈んでいるみたいだけど? あ、もしかして真美ちゃんも、職場で先輩や上司にいじめられたとか?」

「もう……終わりにしましょ。私たち」


 真美は物静かな、しかしはっきりとした意思を込めて発言していた。太一が呆然としていると、真美は彼の視線をしっかと見据え言葉を続ける。


「ごめんなさい……太一君が、私と一緒にいて楽しく思ってくれている事は私にも解るの。だけど、だけどね。やっぱり価値観の違いとかあるし」


 ためらいがちに語る真美の姿を見ながら、太一はようやく事態を把握しだした。事ここに来て、恋人の心がおのれから離れている事を悟ったのだ。太一はアホみたいに瞬きを繰り返しながら真美を見つめていた。未練たらたらだった。真美は見眼麗しい若い娘であったし、何より太一の愚痴をいつまでも聞いてくれるような寛容さも持ち合わせていた。どうあっても手放したくない存在だったのだ。


「か、価値観の違いとかそんな難しい事言わなくても……まだ僕たち若いし、結婚だってまだ考えてないし」

「そりゃあ……結婚なんて人生の大イベントだから、私だってすぐに結婚しようとか、そこまでは考えてないわ。だけど……」

「そうか、別に男ができたな」

 

 歯切れの悪い真美の言葉をひととおり聞いた太一は、おのれの推察をすぐに言葉にしてみた。真美はこれには返答しなかったが――答えは明かだった。「男」という単語を聞くや否や、彼女は憐れなほどに委縮し始めたためである。ごめんなさい、だの友達だと思っていたら、だのと言う言葉が彼女の口から紡がれ、ポロポロと零れ落ちていく。太一はもうそれを聞いてはいなかった。荷物をまとめて伝票を片手に持ち、俯く真美を放って会計を済ませたからである。


 心中に巣食うむしゃくしゃした気持ちを晴らそうと闇雲に歩いているうちに、太一は道に迷ってしまったらしい。そしていつの間にか、薄暗くて狭い隘路へと通じるルートを彼は歩んでいた。適当なところで元来た道を引き返せばよかったのだろうが、恋人の裏切りで頭に血の上った彼に冷静さを求めるのはある意味酷な事であろう。


「ん……?」


 コンクリートジャングルの中、それも野良猫も通らぬような細道をあてどなくさまよっていた太一は、しかしここで歩を止めた。行き止まりだったから、ではない。行き止まりの手前、太一から数メートル弱の距離にて、何やらうごめく三つの影を見つけたためだ。影のうち人間と思しき姿をしているのは一つだけだった。残りの二つは四つ足の獣であり、一方はそれなりの大きさがあったが他方は小兎ほどに小さく、しかも人間の腕の中にあった。


「え、あ、んぉっ」


 あれよあれよという間に、大きな四つ足が太一の許に近付いていた。何を思ったか、それは臆面もなく太一のひざ元にすり寄っている。犬だろうか? 太一は視線を斜め下にスライドさせた。

 紀州犬程度の大きさの、毛足の長い犬に見えるそれは、詳細に観察してみると異様な特徴を具えていた。歩き方は何ともおぼつかなく、胴をよじり頭を左右に大きく振るような、よたよたとした不格好なものだったのだ。脚に何か不具合があるのかと思ったが、ずんぐりとした胴体を支える四肢はしっかりと太い。但し、足先は犬猫のような丸い肉球のある形状ではなく、四足すべてのかかとがべったりと地面に着いた、レッサーパンダのような様相である。

 この生物の異様さは足だけではなかった。毛足の長いバサバサとした毛皮の色も不可解だった。獣が動くたびに毛並みは色を変え、闇に溶ける漆黒かと思えば闇とは馴染まぬ純白の色合いに変化するという始末である。模様についても同じ塩梅であり、全く模様のない同色の毛が生えていると思えば、獣の動きに合わせて複雑な模様が表出してくるのだった。酒におぼれて悪酔いした時の幻影か、幼い頃にたびたび見た悪夢の世界に潜む動物を思い出すような姿である。

 だが奇妙な動きや不可解な毛並み以上に不気味なのは、くだんの生物の顔面であった。主だった形状は犬と変わらないのだが、その生物の眼と耳は完全に機能していない事をまざまざと見せつけている有様なのだ。犬にしてはとがり気味の、二等辺三角形の形の良い耳を有しているのだが、耳垢と毛と粘液の混ざり合った名状しがたい塊が耳の穴の奥から表面まで詰め込まれる形で存在しており、いわば天然の耳栓となっていた。両眼は黒那智の表面を白い紋様がマーブル状に広がっており、既知の脊椎動物の瞳とはまるきり異なっている。呆けたように開いた口はむしろ顔面に開いたような孔のように見え、そこには一本の牙も見当たらない。そしてその生物の額にあたる部分、限定的に毛が短くなっているその狭い部分には赤黒い七つの点が、北斗七星の並びで刻み込まれていたのだ。


「そのコはね、アンティーロゥって呼んであげて」


 ふいに声がかかり、太一の視線は謎の生物と声の間とをさまよった。いつの間にか、犬の仔を片手で持つ青年がすぐ傍まで来ていた。十代後半くらいであろうか。輝かんばかりの白さを誇るカッターシャツと、カッターシャツと対になる程の黒々としたスラックス姿と簡素ないでたちである。ただ――首許はチョーカーやネクタイをせず、金色の細かな鎖に繋がれた、丸くモケモケとした灰色の玉を七つ連ねた、奇妙な首飾りをあしらっていた。衣装の簡素さにそぐわぬデザインであるにも関わらず、ある種の調和がとれている事自体が奇妙なほどだ。


「初めましておにーさん。ボクの事は気軽にホーシャンとでも呼んでくれるかな?」


 青年は耳触りの良い声で挨拶を行うとその頬にえくぼが出来るほどの笑みを作った。太一はこの時おのれの心中にあったあらゆる感情を忘れ、ホーシャンに笑い返していた。相手が明らかに男であると解っていたのだが、その端麗な面を見ていると頭がぼうっとしてしまったのだ。


「今日はね、職場から逃げだしたアンティーロゥの捕獲と……紛れ込んでいたコイツの始末をどうしようかと思ってここに立ち寄ったんだ」


 ホーシャンは一方の手でアンティーロゥの背中を優しくなでていたが、もう一方の手では、仔犬を首根っこでつまみつるし上げていたのだ。


「始末って……それは可愛い仔犬じゃあないのかい? その、そこのアンティーロゥとやらも犬だろう、一応」

「犬畜生の中に可愛い奴なんか一匹たりともいないさ」


 太一は目を見張り、ついで一歩ばかり下がった。犬畜生と言ってはばからぬホーシャンのその顔と言葉には、隠し切れぬ犬への憎悪にたぎっていた。


「秩序という枠組みにとらわれ、人間の友だとか何とか言って、人間に媚びへつらうだけの畜生共に、何をどうすれば親しみとか可愛さとかを感じられるのかな?

……ああ、ごめんねおにーさん、太一さん。ちょっと犬には私怨とか義憤があって、ちょっと個人的な意見も入っちゃったね。ああ、だけどボクもおつむの弱かったお姉様も知り合いも犬共には碌な目に遭っていないんだ。ボクやお姉様は同じ犬に頭を噛まれて大けがをしたし、遠縁の親戚でペンフレンドだったウィル君は、躾のなっていない馬鹿犬に襲撃されて、可哀想に噛み殺されたんだ。引きこもりがちだったウィル君の弟も、帰ってこない兄弟の安否と空腹に痺れを切らして外を出ている所をアホな住民に見つかってリンチされちゃうし……今でもボク、ウィル君とその弟の事を思うと心が痛むんだよ? おじいちゃんの言いつけを守って、単身赴任中のパパとその部下たちの歓迎パーティを行うために心を砕いていたような健気な少年たちだったのに、ね」


 太一が質問をさしはさむ暇を与えず、ホーシャンはなおも言葉を重ねた。


「それで、もう気付いていると思うけど、アンティーは犬じゃあないからね。彼は本来は偉大かつ神聖なお方の愛玩動物なんだ。こう見えて歌や踊りが得意で、気取らないシンプルな歌で、飽きっぽいご主人様の心を癒しているんだ。さ、アンティー、君のご自慢の歌を披露しておくれ」


 ホーシャンがあいている方の手でアンティーロゥの腰を叩いた。するとくねくねと動いていたアンティーロゥが顔を上げ、赤い空洞そのものの口を開いた。喉が波打つように動き――確かにその口先からは音が出ていた。今迄聞いたどの動物の吠え声とも、いや地上で聞いた自然の音とも違った、異質な音だった。形容しがたいその音声に、太一は自然と震えていた。心は大きく揺らいでいたが、感動していたわけでは決してない。その音声に宿る名状しがたい忌まわしさと呪わしさを感じ取り、ぶるぶると震えていたのだ。


「それにね、アンティーは実は善いヒトと悪いヒトを見分けられる賢さもあるんだよ。それで、気に入った方にすり寄るんだ……見たところ、おにーさんの事もアンティーは気に入ったみたいだね!」

「……ええと、こいつは善い人と悪い人と、どっちに懐くんだい?」

「やだなぁ、そんなの言わなくたって解るじゃあないか」


 アンティーロゥは、質問をはぐらかしたホーシャンにしきりにすり寄っている。ホーシャンの眼は細められて笑っているように見えたが、馬鹿にした光も宿っていた。ひとまずこいつは奇怪だが、に懐くのだろうと思う事にした。

 そうして一人で自己完結していると、ホーシャンは首根っこを掴んでいた仔犬を、ずいと太一の方に差し出したのだ。


「そうだおにーさん。折角だからこのいぬちくしょ、いやワンちゃんを貰っていかないかい」

 

 差し出された犬の仔は、片手で吊り上げられた不安定な状況にかかわらず怯えず啼かずじっとしている。据わったような目でこちらを見据えるだけだ。それにしても、何がどうなっているのだろう? ホーシャンは立て続けに言葉を重ねた。


「ね、おにーさん。こんな薄暗い道をうろうろしてたって事はさ、むしゃくしゃしていて、悩み事もあったんでしょ? ボクね、おにーさんが来るまでこの食いしん坊の畜生をどうやって始末しようかって考えていたんだけど、おにーさんに託した方が良いかなって思い出したんだ!」

「食いしん坊の犬を貰っても……」


 太一が口ごもると、ホーシャンは人差し指を左右に振った。


「ううん、心配しなくてもだいじょーぶ! こいつ、いやこの仔の餌はドックフードとかぶっかけご飯とかじゃあなくてヒトの恨みつらみとかそう言った感じの負のエネルギーだからね! ね、そうなるとおにーさんにピッタリでしょ? おにーさん、ビンビンに負のエネルギーに塗れてるみたいだもん! それ、ぜーんぶ食べさせちゃえば? きっとすっきりするよ」


 腹黒い営業マンよろしくマシンガントークをかますホーシャンの言を太一はしっかりと耳にしていた。そして彼は、迷わず仔犬を受け取ったのだった。



 ホーシャンから受け取った謎の仔犬は「犬神」と呼ばれる存在だった。一部の術者が犬を基に作成し、秘術によって操る使い魔にして憑き物である。犬の持つヒトに対する執着ゆえに、彼らはあるじの要求に応え、あるじとその家に富と栄光をもたらしてくれる。のみならず、犬神はあるじが憎んでいる相手に祟り、害をなす事もあるのだという。

 犬神を譲渡された太一は、それらの情報を知り――マンションの一室でほくそ笑んだ。今迄自分を愚弄してきた会社の面々、自分を裏切った真美と彼をたぶらかした間男。彼らに簡単に復讐を行えるではないか、と。しかも犬神を大切にしている間はこちらには財に溺れ栄誉に服する事が出来る。憎い相手が惨めにはいずり回っているのを見つめながら飲む美酒はさぞ旨い事であろう。


『さ、あるじよ。そろそろ標的を教えてはくれまいか』


 クッションの上に寛いでいた犬神がこちらに向かってきて問いかける。本物の犬よりも妖怪らしい犬神は人語を完全に理解し、ついでに人語(それも渋いおっさん声)も操った。合法的(脱法的?)に尚且つ確実に復讐が出来る手段を得た太一は、邪悪な笑みを口許に浮かべながら、子供のような無邪気さを持って「標的」の名を口にしたのだ。


 いったい太一がどれだけの人間を犬神を用いて呪い、呪いを受けた無辜の市民がどのような被害を受けたのか。その事について多く語るつもりはない。聡明にして良識ある紳士淑女であれば、犬神の成り立ちや経歴を鑑みただけで、この呪いが苛烈で陰惨である事はすぐに想像できるであろうから。

 語るべき点は二つだけだ。太一が「敵」として呪った相手はあくまでも彼が一方的に逆恨みを募らせただけの良識あるあわれな民間人ばかりだった。そして被害者にかけられた呪いは、「豆腐をパックから出すときに必ず飛沫を顔面に受ける」「卵を割るたびに黄身がつぶれた状態で出てくる」などと言う生易しいものではなかった事くらいだろうか。術に詳しくない者には意外に思えるかもしれないが、先述のような「実害は殆どないがテンションが低くなる程度」に抑えられた呪いの方が、のだ。

 犬神はそして、太一に対して惜しげもなく富と名声ももたらしてくれた。太一は職場の面々が様々な非運に見舞われていくのを見届けてから、彼は惜しげもなく退職し、フリーランスだとかいう下手を打てばニートと変わらぬ生活に足を突っ込んだのだ。

 ネットや書籍で調べたとおり、「福の神」としての犬神の才覚は比類なきものだった。どの宝くじを買えば当選するかを教えてくれるほか、投資すべき株式やネットブログでの「バズる」記事の予見などもやってくれた。太一はだから退職後労働らしい労働を行っていなかったにも拘らず、飢えず貧乏にもならずますます富を増やすようになっていたのだ。

 またその頃には犬神の能力を駆使してストレス発散がてらに妖怪を捕らえて殺したり、おのれの体験と既存作品の剽窃にて生み出された「復讐もの」のネット小説を投稿してみたりと、まさに順風満帆、いややりたい放題の生活を送っていたのだ。

 率直に言うと、太一は妖怪殺しと盗作小説の執筆を愉しんでいた。畜生でありながら人間のふりをし、のうのうと人間の暮らしを甘受する連中に天誅を加える愉しみは、一度ハマると病みつきになっていた。

 小説の執筆の方も、画面の向こう側から称賛されたり、「スカッとした」というコメントを貰うとガッツポーズを取る始末である。既存の作家への剽窃への罪悪感も無く、気の利いた言い回しや設定を借りるだけだと思っていた程度だ。内容の悍ましさはもはや善男善女であれば吐き気を催すレベルとなっていたのだが、事もあろうにこれは書籍化され、更にはコミカライズまでされてしまった。要するに、好き放題やってるのに財が転がり込む状況に陥っていたのだ。

 それにしても、太一の持つ飽くなき残虐性と邪悪さは一体何処から湧き出てくるものなのか? 生来のものなのか犬神との出会いで育まれたものなのか――その答えは、余人には解らぬ闇の中にあるのだろう。




「おい、犬神よ。いるんだろう」


 関西有数の一等地の屋敷の中。数十年前の成金よろしく調度品で固めた応接室の中、太一は横柄そうな声を上げた。犬神は普通の妖怪と違い、その肉体は霊的エネルギー的なものだった。仔犬の姿や幾つもの犬や生物が融合した怪物のような姿で顕現する事もあるが、太一と親しくなってからというもの、姿を隠している事もままあった。省エネモードなのかもしれない。


『――どうしたい、あるじよ。また標的を見繕ったのか? それとも妖怪狩りか?』


 犬神はすぐに姿を現した。彼は最近では、太一の影の中に潜んでいる事が多いようだ。最初に逢った時の、仔犬の姿を取っていたが、太一はそれを冷ややかな眼差しで見つめていた。


「どっちでもない。要件は一つ――貴様に死んでもらう」

『死んでもらうだって? という事はあれか。お前はおれを殺すって事だな。考え直せ、きっと後悔する。おれには解るんだ』

「黙れ畜生が!」


 命乞いめいた言葉を発した犬神を、太一は一喝した。


「犬神よ。もしかして貴様は自分がこっち側にいるからと言って安全だと勘違いしていたのか。確かに、貴様がもたらしてくれていたモノには感謝している。だがそれとこれとは別だ。貴様はもう用済みだ」

『娘と結婚するという事で焦っているな? クフフ……愚かしい話だ。お前さんが何を選んだとて、末路は決まっているような物なのに』


 太一は名声と富だけではなく、将来の妻も得る事となっていた。色々あって資産家の令嬢を娶る事が赦されたのだが、一つだけ懸念があった。それが犬神である。犬神は術者によって作られるものだが、ひとたび生み出された犬神は、忌まわしいほど律儀に術者の子々孫々に取り憑く。それを防ぐには、結婚する前に犬神を始末する事だと太一は思っていたのだ。


「彼女との生活には、貴様のような忌まわしい畜生の存在は不必要なんだ! どうせお前を活かしておいても、俺の子孫に憑き続けるだけだろう」

『その忌まわしい畜生の力を有難がり、富と栄誉と復讐の喜びに溺れていたのは何処のどいつだい……?』


 太一はもはやそれには応じなかった。彼は既に躍りかかり、犬神を屠らんと動いていたからだ。普通の人間、或いは軟弱な妖怪には犬神は殺せない。しかし太一は妖怪狩りを行う中で様々な術を心得ていたのだ。


 決着は恐ろしいほどあっさりと決まった。犬神はなかば袈裟懸けに身体を切り裂かれ、血というよりもむしろ廃油を思わせるようなどす黒い液体を垂れ流しながら倒れ伏した。二つの血に飢えた紅色の瞳が太一を見据えている。その瞳には恐怖も憤怒の色も無く、ただただ不気味なほど穏やかだった。

 とはいえ、それでも犬神の生命が急速にしぼみ終焉を迎えつつある事は明白だった。


「何だ、偉そうにご高説を垂れていたくせに手ごたえも何もないじゃないか……あーあ。やっぱり畜生は畜生って事か。まぁ良いや。言い残した事があるのなら言ってごらん。君も知っている通り僕は慈悲深いだろ。だから恨み言でもなんでも聞いてあげるよ」

『フン、解ってはいたが救いようのない愚か者だな……勝負はついた。お前さんのだ』

「なっ……」


 お前さんの負け。思いがけぬ言葉に太一は目を白黒させる。犬神はその眼に狂気と喜色

を宿し、粘っこい血を吐きながら続けた。


『犬神を含め、蠱毒の術はな……蠱毒と闘った勝者もまた蠱毒に変える術なんだぜ……おれは言ったろう? 闘えば後悔するとな。確かに、犬神を殺せばおのれの血統が犬神に毒される事は無いわな。のだから……

 しかも……しかもこの犬神の大元は御大層な神通力を持つお犬様の御子だったらしいんだ。それを犬神にした術者は、おれたちはお犬様の御子にも呪われているんだ……お犬様の御子は力を正しい事に使う事を望んでいる。今迄の悪行を帳消しにするほどの善行を積まぬ限り、おれたちは犬神となって融合し、飢えと渇きに苛まれるわけだ……』


 犬神ははつらつとした調子で喋っていたが、色々と限界を迎えているらしい。身体がなかば溶け始め、スライムやゼリーのような様相を呈していた。


『何故おれがその事を知っているかって? それはおれもだったからだよ! 犬神と出会い、使い潰し、殺し、犬神になったわけだ……ああ、さっきは後悔するとかって言ったけど、正直なところ、お前さんが考えなしにおれを殺してくれて感謝しているぜ! お犬様の御子の荒ぶる魂は鎮まらんだろうが、おれは嬉しくてうれしくてたまらない! ざまぁねえな!』


 犬神の姿はたちまちにして溶解し、しかし太一の口や鼻孔からずるずると侵入していった。振り払おうにも纏わりつくそれを振り払う事は叶わず、次第に細胞がきしみながら変質していくのを感じるほかなかった。

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