③スパダリが欲しい! 副題:蒙昧なる愛のカタチ
※スパダリ……スーパーダーリンの略称。パートナーをこよなく愛し、尚且つ炊事洗濯等の家事もそつなくこなす男性を指す。主に女性向けの作品で用いられる事が多い。(作者註)
真鍋ヒトミは、大学進学にあたり一人暮らしを行う事が決まった。大学進学による一人暮らしと聞くと、純朴な若者が田舎から街の大学の近辺に下宿するところをイメージするだろう。
ところがどっこい、ヒトミの場合は逆だった。彼女の実家自身が、元々は小粋な港町に位置し、ヒトミが進学しようとする大学の分子工学研究所が、山奥というほどではないにしろ田畑に囲まれたような土地にあるのだった。分子をあれこれする設備・エイトバウンディングなるものを設置するのに、広大な敷地が必要なのだそうだ。
大学附近のアパートとなれば、それもまた片田舎の奥に位置するのは言うまでもない。狐狸や猪、熊や猿などの獣たちが周囲をうろうろしているような場所である。もっともこう言ったはなからワイルドに暮らす面々は若い娘のアパート暮らしに際し、驚きをもたらしこそすれ脅威にはなりえない。一人暮らしで脅威となるのは、人面獣心の輩、要はおのれの裡に潜むケダモノを飼いならし切っていない屑人間どもである。まことに困った事に、ヒトミが暮らそうと考えているアパートの周囲には、くだんのケダモノどもが暮らしているか、或いは来訪するのではないかという事が前々から示唆されていた。要するにその手の事件が度々あるという事だ。
これから一人暮らしを始めようと思っているヒトミは、無論引っ越し先の治安の悪さも心得ていた。だが、エイトバウンディングの傍らで勉学を励みたいという決意はそのような事ではびくとも揺るがなかった。だからこそ、自衛を行う事にしたのだ。
うら若い娘が行う一人暮らしの自衛は数多くあるが、その中の一つに「男性と同居しているようにカムフラージュする」というものがある。ヒトミは巷に流布するこの手法を取り入れた。すなわち実家の父や弟から古着や要らなくなった靴をもらい受け、靴は玄関に置き上着などはおのれのブラウス等と吊るすと言った「偽装工作」を行ったわけである。
ところが、意識高い系を標榜するヒトミは、それだけでは実は満足などしていなかった。ここまでやったけれど、一つ等身大の人形を部屋に置いておきたいとさえ思っていたのだ。資材系のホームセンターで入手できるようなマネキンではない。精巧に出来た、尚且つ優美な容貌の美青年(美少年も可)の人形を彼女は欲していたのだ。単なる防犯用であれば、おっさんのシルエットに見えるマネキンでも十二分に役立ってはくれるだろう。ヒトミはしかし、防犯用になり且つ日々のおのれの心の潤いを、これから入手する人形に求めていたのだ。定まった恋人もおらずむしろ恋に恋する乙女のような彼女にしてみれば、獣性丸出しの男子らと関わるよりも、無害で見眼麗しい人形に愛情を向けるのも……まぁ、無理からぬ話なのかもしれない。
猪突猛進な彼女はすぐさまネットの海に意識を投じ、おのれが求める品がないかチェックした……全くの徒労であると気付くまでに一時間もかからなかった。何も精巧な等身大の人形を作る技術が日本に絶え果てている訳ではない。ある種の業界では今なお(今でこそ?)盛んに行われている訳であるが、仔細調べずともそれらがヒトミの欲するものではない事は明かだった。
薄暗くなりつつある空模様を眺めながら、その時ヒトミはやきもきとバスが来るのを待っていた。休日にバスを乗り継いで開けたところまで買い物に向かっていたのだが、久しぶりに町に来た喜びも相まって、バスに乗る時間を度外視して買い物やウィンドショッピングに耽ってしまったのだ。そして雨が降るかどうかを不安がりながら、みじめな気持ちでバスが来るのを待っているという次第である。
厳密には、バスが来たずっと後の事を彼女は気にしていた。停留所と停留所をバスで通り抜けていくわけであるが、田舎から町に出てきたのとは逆に今度は町から田舎に戻る訳だ。田舎の夜は二十一世紀でもなお昏く、その昏さの中でケダモノたちは跋扈するのだ。ヒトミはそれを不安に思っていた。いくらおのれの城を自衛策で固めようと、ヒトミ自身は非力な乙女に過ぎない。時々湧き上がる昏い感情におののくような女子が、どうして昏さに身を任せるケダモノどもに太刀打ちできるというのだろうか?
「こんばんは、おねーさん」
ふいに聞こえた若い男の声に、ヒトミはびくっと身を震わせた。驚きとも恐怖心ともつかぬ感情は、しかしすぐに収まった。その声は確かにヒトミが時に恐れる時に嫌悪する男の声に他ならぬのだが……耳触りの良い声である事もまた事実だった。実際、彼のバリトンは蜜や天鵞絨のように滑らかだった。
視線をスライドさせると、そこにはさも当然のように一人の青年が佇立していた。薄暗い中でも彼が身に着けている繊細な金の鎖や、黒のスラックスに同じ色で施された奇妙な刺繍などがはっきりとヒトミの眼には見えた。シンプルだけどおしゃれな人だなと、ヒトミは特に疑わずに思ったに過ぎない。
「初めまして。ボクの事はホヴェラって呼んでくれるかな?」
「ホヴェラ……くん?」
そうだよ! 恐る恐る名を口にすると、ホヴェラは無邪気な笑みをヒトミに見せた。日本人らしい面立ちとは少し違うが、さりとて西洋人という風貌からも程遠い。しかしヒトミはあれこれ考えはしなかった。シンプルないでたちと七つの小鳥の頭をあしらった首飾りを付けるミステリアスな彼の雰囲気に、彼の名がマッチしているように思えたのだ。
ホヴェラはにこにことほほ笑んだまま、少しヒトミに近付いた。はっきりと表情は見えるが近すぎると思わずに済むほどの距離である。
「どうしたのおねーさん。キレイな顔なのに、すっごく落ち込んでいるみたいだけど」
「まぁ、キレイだなんて……」
落ち着いたマダムのような声を出して気取った素振りを見せているが、内心まんざらでもない事は、手のひらが添えられた頬が柔らかく緩んでるのを見れば明らかな話である。何と、ヒトのオスと言う野獣共に怯えていたはずのヒトミは、出会って数秒ばかりのホヴェラに対して、一切の警戒心をかなぐり捨てたらしい。ニコポナデポを非難する輩も真っ青の超展開だ。
「あー、でも無理よ。男の子に悩み事を話すなんて、女子のやる事じゃあないわ」
「そんなこと言わないで真鍋ヒトミさん。そういう心がけを持っているだけでも君は十分立派な女の子だよ。だって考えてごらんよ。今はもう男女平等だとかLGBTが大事だって言ってるけれど、それってホントに出来てるのかな? 相変わらずヘテロセクシャルが貴いって思ってる愚か者ばっかりだし、女も男も年寄りも若者もアホみたいなステロタイプに取り憑かれてるでしょ?」
ヒトミは単に相槌を打っていただけだった。ホヴェラはその端麗な容貌にマッチしそうな思慮深い事を発言しているらしい。だが今のヒトミには、ついでに言えばヘテロセクシャルのひとりであるヒトミには、残念ながらホヴェラがとっても良い事を言ってくれている、という認識しかできなかった。
彼女はだから、自分の抱える悩みというか願望をホヴェラに語る事に、特段抵抗を持たなかったのだ。
「なるほどねー。確かに一人暮らしじゃ寂しいもんねー」
一通り話を聞いたホヴェラの物言いは軽薄なものだったが、彼の術中に嵌ったヒトミは、実に気さくな対応を行ってくれていると思うだけだった。
「実はボクの知り合いに名うての人形師がいるんだ。持ち主を愛し、尚且つ持ち主も愛情を注げるようなそんな立派な代物さ! 本当は、製法が独特だからものすごーくお金とかがかかるところだけど、おねーさんばボクの知り合いだから、ボクが色々と受け持ってあげる」
「ありがとう、ござ……」
バスが来るエンジン音を聞きながら、ヒトミは丁寧に礼を述べた。しかしやって来るバスに乗り込むために並んでいたはずのホヴェラは、人形師の話を終えると忽然と姿を消していたのだ。
※
「君の所望する人形は、この子で大丈夫かな?」
四月中旬の日曜日。ホヴェラの知り合いだという人形師が納品のためにわざわざヒトミの安アパートに来訪してくれた。この人形師は黒羊堂なる工房のオーナーであり、黒岩洋子と名乗っていた。女性であると聞いていたが随分と中性的な風貌の持ち主だった。作業着の上にゆったりとしたローブを着込んだ独特の衣装であるからなのかもしれないが、上背のあるしかしすらりとした肢体や、黒く短い巻き毛に覆われた繊細ながらも女性性の薄い面立ちなども、中性的だという印象を与えるに足るものだった。
赤褐色の、何処となくアンニュイな瞳を向ける黒岩氏に、ヒトミは戸惑ったような笑みを向けるほかなかった。人形の納品という事であるが、特段彼女は箱詰めにされた人形を持ってきたわけではない。仕立ての良い衣装を身にまとう、ヒトミより少し年下と思しき男の子を一人連れてきているだけだ。
何と言えば良いのか解らずにへどもどしていると、黒岩氏は斜め後ろに控える少年に肩を回し、彼をずいと前に押しやった。
「さぁ祥平。このお方はこれから君のご主人様になる真鍋ヒトミさんだよ」
祥平と呼ばれた少年は、ヒトミに視線を向けた。そしてためらわず懐っこい笑みを浮かべると、花のつぼみのような唇が開いた。
「初めましてご主人様。そして、黒羊堂をご利用いただきありがとうございます。母からの紹介の通り、僕は祥平と申します。ご主人様と共に在る為に作られた人形でございます。本日この瞬間より、ご主人様の願いを叶えるため、全身全霊を持ってお仕えします故、胴か可愛がってくださいませ。見返りは求めません。ただ……ただご主人様が愛してくださるのであれば、それだけで構いません」
ぺこりと頭を下げる祥平は、どこからどう見ても生身のホモサピエンスにしか見えなかった。黒岩氏は人形師であり人形を納品したという話だが、ここまでくればもはやアンドロイドだとかヒューマノイドだとかと呼んだ方がしっくりきそうな出来栄えである。しかも眼前の祥平は、不気味の谷を重機で埋め立てんばかりのリアリティーを持ってそこにたたずんでいる。性格も悪くないどころか超絶優良物件ではないか。
「あんまりにも人間そっくりだから驚いたかな。だけどこの子は人形だから大丈夫。ほら、ご覧」
黒岩氏は言うなり、祥平の右手をぐっと掴んだ。ヒトミが声を上げる前に、彼の手首は音もなく取れてしまったのだ。ヒトミは目を見張り、祥平の顔と手首の断面を見つめていた――しかし祥平は痛がらず平然としているし、手首の断面は羊毛フェルトのようなぼんやりとした塊が見えるだけだ。人体とは、脊椎動物の身体とはまるきり違っていた。
「ね、ほらこの子は人形だって事が解ったでしょ。真鍋さんも心配せずともこの子を侍らせる事が出来るって事だよ。ま、誰かに見られたとしても、従弟だとか恋人だとかって言ってはぐらかせば問題は無いはずだし……ああ、血が出るような仕様の方がありがたいのなら、そういう改良もするけれど?」
「いえ、そんな事は別に……」
ヒトミが黒岩氏の物騒な言葉におろおろしているうちに、彼女は祥平の手をはめなおしていた。
「私はただ、この子に日々の癒しと潤い……そして私をケダモノどもから護ってくれるだけで十分です」
ヒトミが言い切ると、黒岩氏も祥平も穏やかにほほ笑んだ。虹彩の色はそれぞれ異なるのだが何となく目つきが、横長に見える瞳孔の形状が似ていた。
「承知しましたご主人様。僕はご主人様のおそばにお仕えし、群がる悪い虫から御身をお護りしましょう」
「あ、そのご主人様って言うのもちょっとアレだから……ヒトミ姉さんとか、ヒトミちゃんって呼んでよ」
「解りました、ヒトミさん」
ヒトミと祥平のやり取りを眺めていた黒岩氏は静かにほほ笑み、合掌しつつ首を揺らした。
「真鍋さん。あなたに黒山羊の慈母の加護があらんことを。あの方は慈愛に満ち、多くの生き物に慈愛の光を注いでくださるんだ。愛があれば全て報われるだろう」
奇妙な言葉を口にした黒岩氏は、そのまま静かに部屋を出た。小さな安アパートには部屋のあるじであるヒトミと、彼女に仕える事になった祥平が取り残された。
※
かくしてヒトミの大学生活が、祥平との奇妙ながらも面白おかしい生活が幕を開けた。話し相手や防犯の自衛のみならず、祥平はヒトミにとって実に有用な存在となっていた。料理や家事は行った事は無いであろう祥平だったが、ヒトミが教える事をすぐに習得し、実践してみせた。祥平はずっと家にいてヒトミを喜ばせる事を考えているからなのかもしれないが、防犯用の人形として入手した彼がこのような能力を見せてくれたのだから大したものだ。ついでに言えば、ヒトミはもはや祥平の事を単なる人形だなどと思わず、一人の居候、可愛い弟分、或いは代理の恋人とでも思うようになっていた。
ヒトミは祥平の事をまたとないルームメイトであると見做していたし、祥平もあれこれヒトミの指図する事を覚える一方、「悪い虫やケダモノ」からあるじを護る事にも熱心だった。彼がまず始末した生物は、部屋に節操なく現れる害虫共だった。どういう方法を使ったのかは解らないが、祥平が掃除を行ったという次の日からは、むくつけき姿のゴキブリやナメクジも、悪臭を漂わせ大量発生するカメムシ共も部屋には現れなくなった。
大学生活の方も順調だった。道中でヒトミを引っかいたどら猫とは仲直りできずにいた(大きくふてぶてしい猫だったのだが、ヒトミを引っかいた翌日から姿を消したのだ)のだが、田舎道の素朴な美しさやそこに住まう鳥たちの愛らしさに感動できるほどの余裕が今の彼女にはあった。夜になれば野獣やケダモノどもが跋扈する場所になると知っているが、祥平が家で待ってくれていると思うだけでも、暗い夜道も怖くは無かった。それに幸運な事に、この界隈の治安が少しばかり良くなっているという話も彼女は同級生や先輩たちから聞いていた。それは実は暇と仄暗い情熱を持て余した若者たち、人狼の伝承よろしく闇の中ではケダモノに変貌する輩が失踪しているという事件の事だったのだが、ヒトミやその仲間らはその事は特段気にしなかった。話しても聞き手もむしろケダモノとは程遠い仔羊や小鳥のような面々であったから、ケダモノの個体数が減る事はむしろ朗報だったのだ……ケダモノの一匹が大地主の次男坊か三男坊かで、そいつの父親が血相をかいて警察に指図しているという噂さえ、彼ら彼女らには失笑や嘲笑と共に語られていた。
ともあれ家の外でのヒトミは、同年代の娘らしい溌溂とした、快活なオーラを全身から放出させていた。学内でコミュニティを構築し、男女を問わず友達ができた事は言うまでもない。
連休も通り抜け初夏の瑞々しさが各地で見られるようになった頃、ヒトミの心には瑞々しい季節に似つかわしい恋心を育んでいた。相手が祥平ではない事は言うまでもない。無論彼女は祥平の事を、有能なルームメイトとして愛玩してはいた。
彼女は想いを寄せ始めた相手は、赤松玉緒と言う名の青年である。彼は街の美大に通う芸術家の卵だったのだが、祖父だか大伯父だかがこの近辺に土地を持っているという事もあり、弱冠十八にておのれのアトリエとギャラリーを持つ身分となっていた。
玉緒のアトリエを発見したのは偶然だったが、玉緒の存在自体は実はずっと前から知っていた。
何を隠そう、玉緒はヒトミと同じ中学校に通っていた同級生であり、ともに美術部に所属する間柄だったのだ。あの頃の玉緒には魅力らしい魅力は無かった。青白い顔の小柄な少年であり、仲間から距離を置きつつむっつりと創作に励むような男の子だった。絵画・粘土細工・彫像の才にはその頃から秀でていたようだが、それが仲間に注目される事も無かったし、彼も独りで創作の世界に耽る事に満足しているきらいがあった。美術の授業作品を見るに、彼は物の形態を把握し描写せしめるの画力の持ち主ではあった。しかし課題の与えられていない自由な部活動では、とみに不気味な姿かたちのモノを描画し塑造し悦に入っていた。あどけなく見える下膨れの面に浮かぶ会心の笑みの、あどけなさとは無縁の仄暗さをヒトミは今でも覚えている。
片田舎の中にあってなお煌びやかなギャラリーの中に佇む玉緒には、もはや昔日の面影は殆どなかった。彼はもはやうっそりとほほ笑む事も周囲の眼差しは気にしていないのだと敢えて主張するような卑屈な眼をする事も無かった。彼の笑みは余裕と深みのあるものであり、他者に向ける視線にも揺るぎない自信が宿っていた。端的に言って、自信と威厳に満ち溢れた、立派な青年に成長していたのだ。
ヒトミはすぐに彼に夢中になったが、それは彼女の日頃の境遇を思えば或いは無理からぬ話でもあった。理学部に所属する同級生らは男子が多かったが、彼らは学究肌で自己完結の世界に没頭しているか、現実の女子を恐れ「異世界」に住まう乙女たちを所有したいと欲しているか、或いは「チャラ男」というオブラートに包まれた表現をされる、唾棄すべきケダモノ予備軍しかいなかったのだ。ヒトミは彼らとも上手くやっているつもりだったが、恋心など無論なかった。
ヒトミ嬢の名誉のために付け加えておくが、玉緒に惚れたのは容姿に惚れたなどと言う短絡的なモノではない。もちろん玉緒が堂々たる青年になっている事に驚きを感じてはいたが、彼女はそれ以上に玉緒の精神世界に惹かれていた。彼は今もなお不気味なドローイングと彫像を行い、それらを堂々とギャラリーに陳列していた。しかしかつての創作物よりも洗練され、そこはかとない優雅さも感じられた。それはあるいは作品群に付与された、説明文の魔術だったのかもしれない。
……玉緒のどこに魅力を感じたか、くどくどと説明しても諸兄姉はウンザリしてしまうだけかもしれない。人の色恋はそののちの人生に良くも悪くも作用するが、容易く堕ちてしまうというというのも事実である。
「ああもう、素敵だわ。本当に赤松さんって素敵」
「あはは、君にそこまで褒めてもらうと嬉しいよ」
いつの間にかヒトミは玉緒が寝起きするアトリエ兼ギャラリーに足繁く通うのが常となっていた。そこで作品群を鑑賞したり、玉緒や他の作家たちに話しかけて見たりして充実した日々を過ごしていた。今やすっかり伊達男と化した玉緒は、時々ヒトミを手招いて、彼女を自分の部屋に誘った。玉緒は作りかけの作品をこっそりヒトミに見せてくれたり、今後の制作や美大での面白おかしい日々を教えてくれた。ヒトミもまた彼を想って作った粘土細工を見せたり、エイトバウンディングなる物々しい設備での研究の日々を語って聞かせた。
もちろんそれ以外にも件の密室では色々あったわけであるが、そこはきちんとした紳士淑女のやり取りに過ぎないと言葉を濁しておくに留めておこう。
「そろそろ帰らないと」
二人の男女が潜む密室の窓は、夜の帳を映して仄暗くなっていた。ヒトミは身支度を整えながら呟いたが、その声には名残惜しさが多分に残っていた。
「もう暗くなってるから構わないだろう」
玉緒は言うなり臆面なくヒトミの肩に腕を回した。男の大胆な動きにヒトミは嫌がる素振りも無く、むしろまんざらでもない様子でしなだれかかる。二人の間では、この部屋の中だけとはいえこういうスキンシップがいつの間にか常態化していたのだ。泊っていきなよ。玉緒がそう言ったのも、二人の親しさの裏返しでもあった。
「真鍋さんさ、今は親元を離れてアパート暮らしでしょ? 明日は土曜日で大学も無いし、おれも君がここに泊まってくれた方が嬉しいな。寂しく独り寝にならなくて済むし」
甘い声でささやく玉緒に対してヒトミは微笑みかけたが、その笑みを浮かべたまま首を振った。
「いいえ、やっぱり私は帰らないといけないの」
「帰らないとって、独り暮らしじゃないのかい?」
「……犬が、帰りを待ってるの」
玉緒の腕からするりと抜け出すと、ヒトミはややつかえ気味に告げた。玉緒は目を見開いていたが、やがて得心したような表情になっていった。だが次の瞬間には、彼女を気遣うような表情を向けていた。
「犬がいるんだったら仕方ないね。だけど、気を付けるんだよ? この辺りって、失踪事件がこのところ頻発して物騒だし……」
ヒトミがもはや気にも留めていなかった事を口にした玉緒は、ご婦人がやるみたいに口許に手をやっていた。
「それに真鍋さん。おれの見たところ、君は誰かに付け狙われているんじゃないかい?」
「え、そうかしら……」
それってストーカーじゃない。ヒトミは思わず顔をしかめた。しかしこうして玉緒に指摘されると思い当たる節もある気がするので一層気味が悪い。
だが結局、ヒトミと玉緒はその件についてあれこれ話し合う事は無かった。タイミングよくヒトミの携帯が震え、彼女はそれに応じなければならなかったからだ。彼女が玉緒に対して「犬」と称した同居人・ヒトミに仕える祥平は、ヒトミの帰りが遅いと判断するとこうして電話をかけてくれるのだ。
「ただいま」
帰宅すると既に祥平の作った料理がヒトミを待ち受けていた。当の祥平はというと、部屋の隅に跪き、彼が密かに作った小さな祭壇の前で手を合わせなにやら呪文らしきものを唱えていた。
「いあ、し……・に……す、いあ、……ぶ・……らす、いあ、……・…ぐら…、ふたぐん」
所々判別不能な音声の入り混じった呪文を熱心に唱えていた祥平であったが、佇むヒトミの姿に気付くと、切りの良い所で唱えるのを終えた。それから翠がかった褐色の瞳を向けると、ヒトミに対してほほ笑んだ。
「お帰りなさいませヒトミさん。あいさつが遅れてすみません。慈悲深き豊穣の女神、『千の仔を抱く黒山羊の太母』に、お祈りをしておりまして……もちろん、ヒトミさんの幸せな日々を願ってですが」
「あらそう」
ヒトミは素っ気なく応じただけだったが、内心祥平の言葉が気になってもいた。黒山羊の母。これは奇しくも祥平が母と呼んだ黒羊堂のあるじの発言と重なるものだった。今度玉緒に会ったら聞いてみようとヒトミは無言のままに考えた。玉緒は実存する生物のみならず、人心に潜む怪物や、怪奇に彩られた暗黒神話の事にも精通していたのだ。
「ヒトミさん。それにしても最近遅いですね。おうちにいる時間も少なくなりましたし」
テーブルに向かうヒトミの背に、祥平の声が投げかけられる。真摯に真面目に彼が心配がり、気遣っている事はヒトミにも解った。心は動かなかったが。
「私もね、色々と忙しいの。理系で研究に励んでいるから、ね」
「そうですか」
祥平に対して他の男に会っていると言わなかったのは、良心の呵責だったのか単なるうしろめたさだったのかヒトミにも解らない。祥平に対しての情愛がこのところ減退したヒトミではあったが、相手が見た目通り人間的な情緒を持ち合わせている事はきちんと心得ていたのである。
「けれど今後は気を付けるわ。何でも、最近失踪事件が頻発しているみたいだし。私みたいなか弱い乙女が付け狙われたらひとたまりもないわ」
それなら心配いりませんよ。祥平は白皙の面を妙に紅潮させてほほ笑んでいた。
「あの事件で、さらわれて殺されているのはあくまでも裏で悪い事をやっている奴らだけですから。ヒトミさんのような、真面目で心清らかなお方が狙われる事など……断じてありません」
「それもそう、ね……?」
祥平の力強い言葉に納得したヒトミであった。だがその一方で、何かが引っ掛かるような気もしていた。
ヒトミに付きまとおうとするストーカーの存在はすぐに判明した。同じ学部の陰キャだった。どの陰キャかはすぐに判明したのだが、ヒトミはどうするべきか考えあぐねていたのだ。常識的に考えれば警察に連絡すればいいのだろう。しかし警察に通報したら最後、ストーカーが逆上して襲撃してくる事もあるのを彼女は知っていた。こちらは非力な乙女と、それに従う乙女以上に無力そうな人形しかいない。祥平の事はもはや、単なる主夫みたいなものだと思い込み、はなからこういう面では役に立たないだろうとヒトミは決めてかかっていた。
そうなると頼りになるのは玉緒だけだった。ヒトミは特に疑わずに彼にストーカーがいる事、恋人としてどうにか対処してほしいという事を訴えた。玉緒はめんどくさい女だとかいう悠長な愚痴をこぼす事無くヒトミの申し出を快諾してくれた。
「大丈夫だよ真鍋さん。おれを信じてくれないか。ドブネズミみたいな、物陰からコソコソと君の事を付け狙うような輩に、おれが負ける訳がないだろう。奴が来ればおれが説得して、場合によってはぶちのめして追い払ってやるよ」
慣れた手つきで髪をすく玉緒の姿をヒトミはうっとりと見上げていた。今のヒトミにとって、玉緒は素敵な王子様だった。彼女が玉緒に純粋な想いを寄せているように、彼もヒトミに対して純粋な気持ちのみを持っているのだと盲目的に信じてしまっていた。
「重い話はこれでおしまい。それよりもさ、真鍋さん、今度の土曜日は誕生日でしょ? 夕方の六時からアトリエにおいで。二人で盛大にお祝いしようじゃないか」
※
土曜日。ヒトミは精一杯おめかしし、夕方の五時半ごろに玉緒のアトリエを訪れた。ギャラリーに通じる入り口から入るという間抜けな真似は行わない。回り込んだ先にある裏道の事を、彼女はもう知っていたのだ。
ドアが奇妙な塩梅に開いているのを訝りながらも、ヒトミは中に入った。
「――――ッ」
玉緒が選んでくれたハンドバックが地面に落ち、間の抜けた音を立てた。彼女は目を見張り、後ずさる事も進む事も忘れて立ち尽くしていた。
コンクリートを打ちっ放しにした床の上には、紅色のどろりとした液体が広がっていた。それがペンキの類ではない事は、鉄っぽい独特な香りで明らかだった。その周囲には写真がばらまかれていたが、玉緒とストーカーの陰キャが何かやり取りをやっている写真だとか、玉緒の忌まわしい趣味を盗撮したような写真である事は、ヒトミはこの時見抜けなかった。
視界の右端には愛しの玉緒がいた。彼は身動きできずに横たわっている形だった。ふとそうなロープで手足ごと雁字搦めにされており、逃亡防止の為かコンクリートブロックがロープの先端に結わえ付けられていた。
紅色の液体の発生源では、見慣れた少年がヒトミから背を向けたまま大ぶりの刃物を振るっている。牛刀か鉈と思しきそれも、紅色に塗れていた。
一体何が起きているのか。目の前の光景から理解する事は彼女にはできなかった。そんな折、ヒトミの肩を何かが叩いた。
びくっとして身を震わせると、そこにいたのはいつかであったホヴェラであった。彼はパーティーに招かれた子供のような、天真爛漫な笑みを浮かべている。
「ハッピーバースデー、真鍋ヒトミさん! お誕生日おめでとう! ほら見て、君の可愛い祥平君が、御自ら手料理を作ってくれるみたいだよ!」
笑顔同様、ホヴェラの声は底抜けに明るい。笑ってとホヴェラは促すがヒトミは笑えない。顔が引きつって歪むだけだった。
そうしているうちに、祥平がゆっくりと振り返った。かつてヒトミが「犬」と称した事に似つかわしいほどに、忠犬めいた眼差しを向けている。但し白皙の面も洒落たポロシャツもエプロンも紅色の液体、いや血にまみれていた。
「――お誕生日おめでとうございます、ヒトミさん。僕とした事がご主人様の誕生日を失念しておりまして……しかしその代わり、ヒトミさんには二つのプレゼントを差し上げます。ご主人様を付け狙う厭らしいケダモノを駆逐した朗報と、ヒトミさんが愛した男性と、真に一つになる方法を」
刃物を持っていない方の手で、祥平がゆっくりと何かを持ち上げた。ホヴェラが嬉々としてそれを受け取る。それはヒトミにストーキングしていた陰キャの頭だった。
ホヴェラは陰キャの男にしては長い髪を掴んでぶらぶらやっていたが、ゲラゲラと笑いながらそれを放った。いびつな丸い物体は、粘っこい液体をまき散らしながら玉緒の胴体にぶつかった。
「アは、アハハハハ……それにしてもヒトミちゃんもおバカさんだよねぇ~札束で頬を撫でながらこのアホをストーカーに仕立てたうえでヒトミちゃんに依存させたマッチポンプ野郎に盲目的に惚れ込むなんてさ。まぁ、人の恋路を邪魔したら馬に蹴られて死んじゃうみたいだから、別にどーでも良いけど。さぁ祥平君。ヤルんだったらさっさとヤッちゃえば?」
「ふざけるなこの野郎!」
今まで呆然としていた玉緒が絶叫した。
「このイカレた人殺し共が! 僕を……僕をこんな目に遭わせておいてただで済むと思うのか」
玉緒の憤怒するさまを見るのはヒトミは今回初めてだった。しかし、ヒトミはそれを見て何故か安堵していた。通常人の怒る姿は恐怖をもたらすものだ。だが今の状況が状況だけに致し方ないだろう。
「へぇーっ。玉緒君、君って自分がめっちゃえらいって思ってるでしょ? だけどさ、霊長類とは名ばかりの、自力で空も飛べないような賤しい哺乳類がどれだけ吠えたって無様なだけなんだけど――つーかさ、君こそボクらが何者か弁えたうえで話しているのかな?」
冷ややかなホヴェラの言葉の直後、すぐ傍で雷鳴がとどろいた。それに呼応するようにアトリエの照明が明滅し、完全な暗闇になった。
雷鳴から暗闇までの刹那、ホヴェラは八つの首を伸ばすドラゴンめいた巨鳥に、祥平は黒い毛皮をまとう人身羊頭のサテュロスの姿を呈していたのをヒトミは目撃した。
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