キミの願い、叶えてあげる!

斑猫

①ハーレムを作りたい! 副題:ねずみ色の王国

「あぁ~、ハーレムってやっぱ良いよなぁ」


 令和三年二月某日。良識ある善男善女ならば眉を顰めるであろう言葉を、板倉健治は誰はばかる事無く呟いた。と言っても彼の発言を非難したり眉を顰めたりする手合いはいなかった。健治が発言したのはおのれの自室であり、部屋には彼しかいなかったためだ。

 往来をナマコのように転がっていた猫が活動を始める時刻に向かいつつある中、窓から差し込む西日を煩わしく思いつつ健治はテレビの前に陣取っていたのだ。夜中に撮り溜めたアニメを昼日中より視聴していたのだ。健治も若く働き盛りの青年である。異性との……若い娘との色事にも無論興味はあった。しかし気ままに暮らしているくせに色事もままならぬ事実に目を背け、絵面は良いが軽薄極まりないアニメ等を見る事で気を紛らわせていたのだ。彼が特にハーレムものを好むのは、先の発言の通りだ。


「やぁおにーさん。随分と寂しそうだね」

「えひゅっ!」


 誰もいないと思っていた自室で思いがけず呼びかけられ、健治は驚きの声を上げてしまった。恐る恐る声のした方を向いてみると、そこには一人の若者がすっと立ち、健治に向かって懐っこい笑みを浮かべ手を振っていたのだ。それを目の当たりにしているうちに、一瞬、周囲の音が一切聞こえなくなったような錯覚を抱いた――よく見れば、何がしかの作用により、稼働していたテレビの電源が切れただけだったのだが。


「初めましておにーさん。ボクの事は英都って呼んでくれるかな」


 部屋に入り込んでいる不審者は、にこやかに健治に挨拶をした。不審者じゃないか、警察を呼ばないと、そもそもこいつは誰なんだ……あれこれ考えていたはずの思考が薄れ、チリチリと霧散していく。つまるところ、健治は英都の存在を許容してしまったのだ。

 掃き溜めに鶴とはこの事なのだろうか。佇む英都の姿を見ながらそんな事さえ健治は思い始めていた。相手は見たところ十六、七程度の若者の姿を取っていた。簡素だが仕立て良く清潔そうな衣装に身を包んでいる。服装自体は学園の制服に似ているが、金の繊細な鎖に繋がれた、七つのフワフワした球体をあしらった首飾りが、奇妙さを見せつつも全体の衣装にマッチしていた。


「おにーさん。板倉健治さん。あなたは、ハーレムを作りたいんだよ、ね?」


 英都はずいと身を寄せ、営業マンのような爽やかな笑みを浮かべながら尋ねた。健治はおのれの名前と心中を言い当てられて二秒ばかりへどもどしていたが、英都君って結構美形だとかもしかしたら彼なら願いを叶えてくれるかもしれないだとかそんな考えに囚われていた。そして特に気にする事なく頷いたのだった。


「よしよし、良いネおにーさん。やっぱり、男子たるもの欲望に忠実でなくっちゃあ!」

「ありがとう……ございます英都君。こんな僕のために、便宜を図ってくださるなんて」


 今や英都のその笑みはねっとりとしたものになっていた。健治はしかしその事はさほど気にも留めず、ただただ願いを叶えてくれると言った英都を太っ腹だと評価し、いぶからずむしろ礼を述べる始末である。


「いーのいーの。ボクもね、丁度寂しそうなおにーさんを見て、そのおにーさんの願い事を叶えたいなぁって思ってたの。実はね、ボクっておにーさんみたいな人の願い事を叶えるのがだぁい好きなんだ!」


 英都の透き通るバリトンには、若干の媚びと含みの色が滲んでいた――しかし健治はそれには気付かず、ただただ憧れのスターでも見つめるような眼差しを向けていただけだった。

 そうこうしていると英都は何処からともなく黄色い玉を出して健治に握らせた。鶏卵ほどの大きさながら、微妙に柔らかくて暖かい。何となくスライムに似ている。


「その玉がある限り、君は優雅なハーレム生活を愉しめるよ。さ、おまじないをかけてあげるから、少し待っててくれるかな」


――余りにも事は性急に進みすぎている。健治はしかし何一つ疑問を抱かず、相変わらず童子のような瞳で英都を仰ぎ見るだけだった。


「いあ、よ…・…と……! いあ・いあ、……あー…………・ふ……ん! にゃる・……たん! ……が・しゃんな! …………・し……ん! ……る…・し………!」


 英都の白い喉仏が上下し、緋色の唇をうごめかせて彼は朗々と「おまじない」を始めた。かつてサブカル研究部に所属し、サブカルチャーに多少心得のある健治だったが、英都の口にする呪文がどのようなものであるか皆目解らなかった。しかも眼前で英都が発生しているのを聞いているにもかかわらず、彼の声は所々ノイズが入り混じっており、文字通り解読は不可能だった。

 この奇妙な詠唱は延々と続くように思われた。茫洋と英都を見つめているうちに、首に下げられた丸い首飾りたちが、くだんの詠唱に呼応して震え、うごめくのを目の当たりにしてしまった。



「もし……そこのお方。大丈夫ですか?」


 どこからともなく、優しげな声が降り注いできた。こちらを気遣うような……それも女性の声だ。ここで健治は、自分が倒れている事に気付いた。

 がばと身を起こすと、そこは自室ではない別の場所だった。天井を照らす光は柔らかく、隅の方には灰色の毛布が畳んで置かれてある。五体には特段問題はないが、身に着けている衣装が異なっている事に気付いた。「働いたら負け」と白抜きで記された小粋なトレーナーではなく、チャコールグレイの毛足の短い、毛皮仕立てのジャケットが、今の彼の衣装らしい。


「ああ、ご無事そうで何よりです」


 安堵したような柔らかな声が耳朶をくすぐる。声のした方を振り返り、電流でも流されたかのようにびくりと身を震わせた。声の主が、飛び切りの美女である事に気付いたためだった。健治の身を案じていたその美女は、分厚い毛皮の衣装からもはっきりと判る程豊満な身体つきの持ち主であった。こちらを窺うその眼差しには慈母めいた懐の深さを感じさせたが、その一方で聡明そうな瞳や張りのある肌からは、無垢な乙女が持ち合わせる初々しさ瑞々しさも醸し出している。


「え、えと……ここは」

「ここは私たちの王国ですわ。旅のお方」


 王国……はて、何の事だろうか? 健治は聞きなれぬ美女の言葉に戸惑ったが、それもほんの数秒の事だった。彼は唐突に、英都がおのれの願いを聞き入れてくれた事を思い出したのだ。健治のハーレム構築という夢は、現代の日本では叶えるのがほぼ不可能だ。察し良く聡明な英都は、その辺りも汲み取ったうえで健治を別の世界に送り込んでくれたのかもしれない。

 自分が所謂「異世界」に流されたのかもしれない。その事に気付いた健治の心には戸惑いも恐怖も無く、ただただ浅はかな喜びがあるだけだった。もとより自分は大学を卒業しただけのフリーターもどきである。配偶者どころか恋人もおらず友達とも疎遠でおまけに養っている小鳥や魚などの小動物がいるわけでもない。要するに「現世」から離れたとて未練も何もなかったのだ。


「少し前まで私どもの王国は、私どもの夫にしてわが仔たちの父たる王が君臨し、臣下たる私どもに恩恵と安寧をもたらして下さっていたのです。ですが偉大なる王は公務のための遠征に出たきり、もう永らく戻っておりません……弟妹達の中には王はまだ生きていて、必ずや手柄を得て戻ってくると信じている者もいるのですが、私は実のところ、王は私どもを見棄てたのではなく、遠征の最中に悲運に見舞われたのではないか、と……」


 美女はそこまで言うと顔を曇らせ、袖口で口許と顔を覆った。健治は彼女の話を聞きながら状況を確認していた。要するにここは小さな王国である事、一人の男が玉座を温めていた事、そしてくだんの王は(彼女の言い分からして)複数の妻がいた、要するにハーレムを構築していた事を把握したのである。ついでに言えば、眼前の美女は既婚者か未亡人という事だ。

 何となく先の展開が読めた健治の両手に、美女はやんわりとおのれの両手を添えた。


「……急な申し出で悪いのですが、どうかよろしければ、私たちの王国にとどまってはいただけませんか。

 実は、既に隠居暮らしをしている私どもの父祖・先代の王は、あるお告げを夢の中で聞いたというのです。この王国は新たな王を立てる時が来た、と。私どもが信仰するクベラ様が、自身のみ使いとして若くて知恵のある男を王国に届けると、先王は聞いたそうなのです。その男を受け入れる事で王国は更なる繁栄を遂げ、子々孫々は安泰に暮らせると」


 それが僕かもしれないって事――? うっかりそんな事を聞きそうになったのを、健治は喉を動かして押しとどめた。こういう時は、とぼけたような態度を取って自然の流れに任せるのが良いと思いなおしたためである。健治が好んで視聴した主人公・労せずハーレムを構築した若者も、決して自分からガツガツ攻めるような、浅ましい真似はしなかったではないか。むしろ奥ゆかしく、薄らぼんやりとそこにいるだけで、周囲にいる女子達の歓心を買い恋心を育んでいたはずだ。ともあれ健治は、かつて耽溺した物語の主人公のように振舞う事にしたのだ。


「お、おぉ……これは、これが我らの食料なのだな……!」


 王国の奥まった場所にある玉座にて、老いた先王は健治が差し出したモノを見て驚愕と歓喜の声を上げていた。先王は老いに蝕まれ、傷んだ身体ゆえに動く事もままならぬ様相を呈していたが、眼力を具えた瞳や隙のない佇まいには、最盛期には王として尊ばれ、勇壮な戦士として称えられていた往時の面影が残っていた。実際に先王が今こうして衰弱しているのは、息子たる王がいなくなった後、わが身を振るって臣下を護り、傷ついたためだった。王国の安寧ははかなく、王の衰弱や不在が知られると、無頼の輩が財や娘を求めて攻め入ってくる事もままあるのだという。現に王の妻や娘の数名が、無頼漢に捕まったという実例がある。ついでに言えば、新しい王になると甘言を繰った若者の中から、娘らを連れ出し新天地へ逃げおおせたような不届き物もいたくらいだ。

 したがって叡智ある先王はクベラなる神のお告げを信じてはいたが、手放しで健治を新しい王に据える事は無かった。彼はまず健治に試練を言い渡し、お眼鏡にかなう成果を携えて戻って来たならば彼を新王として認めると宣言したのだ。そしてその試練こそが、王国の外を出て、皆の飢えを癒すための良質な食料の調達だったのだ。

王国は王と複数の王妃たちやその子供ら、更にはよそから流れ着き、王家に仕える侍従たちで構成されており、秩序を保った集団だったのだが、不思議な事に食料や寝具の基などは王国の外を出て都度調達せねばならない仕組みになっていたのだ。国を預かる王たるものは、王家のみならず自分を慕い仕えてくれる臣下たちをも飢えさせてはならない――これが先王の主張であり、この王国に逗留する健治に対する洗礼でもあった。勇猛なれど慈悲深い先王は、サポート役に自分の孫にあたる健康で目端の利く王子たちを補佐役として健治によこし、満足な成果がない場合は生命を奪う事は無いが王になる事は許さず、下男として王国に留め置くと言う旨を健治に伝えたのだ。

 ともあれハーレムのスルタンになる前には奇妙な試練が健治の前に立ちはだかったわけであった。しかしこの試練をこなすにあたり、意外にも健治は苦戦しなかった。彼が英都にもらった黄色い玉が、時折淡く輝いて健治の仕事を助けたのだ。すなわち、身軽な王子たちでさえ慎重に進むような切り立った崖を降りる際には健治の心を整え勇気を与え、滋養のありそうな食料のありかを明滅と放熱で伝え、多くの食料を運ぶにあたっては健治に膂力と気力を与えたのだ。


 さて精悍な王子らの驚きと憧れの視線を受けながら戻ってきた健治が持ち帰ったのは、夥しい数の、橙黄色の柔らかな塊だった。さすがに健治が見知った「食料」とは似ても似つかぬ代物であったが、確かにコレは食料だった。王子らと共に毒見をしてみると、異様な見た目とは裏腹に濃厚な甘みを持つ物である事が判明したのだ。


「ああ……これはダイゴではないか……!」


 先王はよろよろと立ち上がると、もはやおぼつかなくなった足取りで「ダイゴ」と呼んだ塊に近付いた。震える手でその塊を削り取り、手の中にあるものを用心深く吟味している。その動作は洗練されたテーブルマナーとは異なっていたが、彼の持つ風格の為か下品な仕草には見えなかった。


「これは『見えない壁』の中に入っていたんですが、ケンジさんは難なく取り出す事が出来たんです」

「おお……我らには手出しできぬ『見えない壁』をケンジ殿はものともせず、このダイゴを手に入れたと言うのか」


 健治に同行した第六王子の言葉に、先王はひどく感心した様子で頷いた。手にべったりとダイゴの残滓が残っているのも気にせず、彼は傍らに控える重臣に命じた。


「まさしくこれは、我らの一族に伝わるダイゴであるぞ。滋養に溢れ、食せば仔が死ぬ事も無く男子は剛健なる戦士となり女子は豊穣たる賢母になる魔法の品だ……さぁテツ。皆のものをここへ呼び集めい。王妃・王女・王子らだけではなく、我ら王家にかいがいしく仕えてくれる者たちも一人残らずな。そしてこのダイゴは、弱き者・幼き者と老いた者、そして女子達に優先的に分け与えるのだ。私はその残りで構わぬ。

――ケンジ殿。王国を支える者として心より礼を述べるぞ。もはや王だった私の息子はとうに旅立ってしまった。だがそなたこそが、クベラ様が遣わしてくれた貴きお方である事が今解った。これよりわが息子に代わって王となり、王……国をまも、り……繁栄に……」


 うっと短く呻いたかと思うと、先王は口許に両手をあて、そのままその場に頽れた。息子を失い王国の存亡を憂いていた先王は、健治という救世主の存在に感極まり安堵しながらその場で事切れてしまったのだった。



 ともあれ健治はこの不思議な王国の王として周囲から認められる事になった。多くの妻を得て彼女らに仔を生ませる事が王の責務と見做されているこの国の王になった健治が、なし崩し的にハーレムの長になったのは言うまでもない。かつての王妃だったものや王女だったものも含め、都合八名の美女ないし美少女が、健治の妻になったのだった。まさに金瓶梅の西門慶を地で行くような形である。

 健治と八名の妻たちとのやり取りについて、語る事はそう多くは無い。妻たちが姉妹や母娘などと血縁関係であるためか、大奥や金瓶梅などで見られる妻同士の争いは殆どなかった。むしろ健治が見る限り、結婚と育児経験のある第一夫人や第二夫人が、初婚で年若い第七夫人や第八夫人を気遣うようなそぶりも見せていた。

 ともあれ一度は傾きかけたであろう王国は新たな王を得た事で明るさと活気を取り戻した。健治は多くの妻たちに囲まれ、彼女らを彼なりの形で愛していた。結婚生活というのも詰まる所世継ぎを増やすための責務に他ならぬのだが、その事を差し引いても健治はこの生活を気に入っていた。ともかく健治も彼の妻たちも王族の責務を嬉々として果たしたのだ。要するに、妻たちは懐妊し仔を生み、健治は若くして数十名の仔の父となったのだ。彼女らは健治の眼には普通の人間のように見えたのだが、驚くほど多産で、一人の妻が五、六名の仔を平然と産んだのだ。小柄な第七夫人は他の妻よりも出産数は少なかったが、それでも気丈にも三児の母となったのである。


 仔供らが育ち、母たちの手から離れて腕白盛りになる程の月日が経っても、健治は王として君臨し続け、責務として食料や必需品の調達に勤しんだ。初めの結婚で健治は八名の妻と三十七名の仔に恵まれたのだが、彼の仔は二名が乳児のうちに生涯を終えた以外はみな健康に、丸々と育っていったのだ。健治は夭折した二人のわが仔の事を残念に思っていたが、彼の妻や仔らの身の回りの世話をする従者たちは、いつも驚き通しだった。四十名近くいる仔がほとんど死なず、痩せず病まず育つ事は殆どないのだという。シルバーグレイの毛皮に身を包んだ、大ベテランのメイドによると、先々代の王の仔も先代の王の仔も、多くの仔を持っていたが、そのうちの半数から三分の二は、腕白盛りを迎えるまでに儚くも命を落とすのだと何度も言っていた。

 して思うと、健治が王になったという事は大いなる変革、大いなる革命をもたらしたという事になるであろう。先々代の王が貴び珍しがったダイゴも、健治が王の代になってからは度々入手できるようになっていた。ダイゴは、今となっては侍従や王子らが「ニルバナ」と呼ばれる場所で度々入手できる事が判明したのだ。ニルバナと呼びならわしている地には、高栄養の固形食たるダイゴの他に、液状のムリタやネクタと呼びならわす食材もあった。これらははじめ遠征に向かった健治や侍従たちが飲むだけに過ぎなかったのだが、健治がどうにかして持ち運ぶ容器を探し出したり造り出したりした事により、王国に引きこもる王妃たちやその仔らに提供する事もできた。健治はこの頃には利発で用心深い息子らを選んで遠征に連れて行くようになっていたのだが、やはり飲料も持ち帰れるようにと思うようになっていたのだ。

 健治はまた、モンスターのごとく巨大な生物を狩り、これを食料として持ち帰る事もやってのけたのである。このモンスターは「硬い顎を持つモノ」「空を舞い大音声を出すモノ」と呼んで侍従などは恐れ近付かないほどだったのだが、モンスターだけあって身体も大きく、したがって食べる部分も多かったのだ。細い下肢などは大ぶりな鱗に覆われているのがグロテスクであったが、解体して口にしてみると、トリ肉に似た味で意外と美味だった。

……豊富で珍しい食料を得、妻子らのみならず老い衰えた侍従さえ健康に安楽に暮らせるようになったのは、実は健治そのものの力ではなかった。厳密に言えば、健治が大切に抱えている玉によるものだったのだ。この玉が健治にダイゴやムリタの場所を報せ、強風を起こして暴れ回るモンスターの動きを鈍らせ、ついで遠征の道中で遭遇する無頼の輩たちを怖気づかせたのである。健治はただそれに従っただけに過ぎない。

 凄いのはお前じゃなくてお前の玉だ――いずれはそう糾弾されるのではないか。内心健治は気が気ではなかった時期もあったが、それも遠い過去の話である。健治の妻子も臣下らも、心清らかで疑う事を知らぬ者たちだった。彼らはもしかしたら玉の持つ不思議な力に気付いていたのかもしれないが、それもクベラ様の宝玉の為であり、その宝玉を持つ健治の事を、やはり素直に信じていた。やさしい世界ここに極まれり、というものである。

 この宝玉、英都からもらった玉は、元々健治が肌身離さず持ち歩いていた。しかし最近は遠征のときのみ持ち歩き、王国に戻っているときは簡素な神殿に鎮座させるようにしていた。王妃や臣下たちが、クベラ様の秘宝を有難がり、時にこれに願掛けをするからだった。


 ある朝、遅く目を覚ました健治は、神殿に鎮座している玉がない事に気付いた。ぎょっとした健治が首を巡らせると、幸いな事に玉のありかはすぐに判明した。既に目を覚まし遊び戯れる二人の幼き王子、健治の息子らがこの玉で遊んでいたのだ。最初は彼らは父王と従者の役を交互に演りながら「遠征ごっこ」だの「冒険ごっこ」をやっているようだった。しかし次第にママゴトじみた演目に飽きたらしく、いつの間にやら玉を投げ合って遊び始めたのだ。幼仔の、わが仔の行うキャッチボールは見ていて微笑ましいものではある。しかし彼らが遊んでいるのは健治が大事にしている玉だ。

 健治は迷わず歩み寄り、声を上げた。


「おい、お前たち。それで遊ぶ、」


 健治の言葉は途中で途絶えた。びっくりした王子が玉を取り落としたためだ。あろう事か地面に墜ちた玉は原形を留めぬほどに潰れ、腐った卵のように中から粘性の高いものが流れ出ていた――それを見ているうちに視界がぶれ、潰れた玉も、驚く息子らの顔も、何もかもがあやふやになっていた。



「おう健治。戻って来たんだな」


 気付くとそこは自分の部屋だった。ほのかにカビ臭さの漂う部屋には、彼のみならず大家の竹内氏がさも当然のようにそこにいた。大家の健治に対する声掛けが親しげなのは、大家が他ならぬ健治の伯父だからに他ならない。

 伯父さん……気の抜けたような声を上げると、竹内氏は困ったような笑みを作った。


「健治よ。お前、二か月も何処に行ってたんだい? お前の隣の部屋に住む学生が、回覧板が全然回ってこないって騒ぐから様子を見れば、部屋はもぬけの殻になっていたから、僕も正直驚いたんだ」

「……そうだったんですか」


 驚いていたのは健治も同じだった。まさか現世に戻ってくるとは思っていなかったが、まさか現世を離れて二か月も経っていたとは――いや逆だ。まだ二か月しか経っていなかったのだ。「あちらの世界」では健治は八名の妻たちを得、仔供らも小学生から中学生くらいの年齢になっていたはずだ。しかし奇妙な事に、あちらの世界にいたときは、何となくだが現世とは時間の流れが違っていたような気もする。

 あれこれと思案にふける健治に対し、竹内氏は今一度笑いかけた。


「まぁ、僕からあれこれ詮索するのは止めようか。何だかんだ言ってお前は戻って来たし、その顔を見れば悪事に手を染めて逃げていたって感じでもないからなぁ……博美母さんには、自分探しの旅に出ていたとでも僕から伝えておこうか」

「ええ、是非に」


 竹内氏の口にした博美という女性は、健治の母の事である。健治が失踪した事について母は気を揉んでおり、竹内氏は妹が息子の身を案じている事でやきもきしていたらしい。兄は妹の様子や挙動が気にかかり、母は息子の身を案じるという、世間でよく見られるパターンである。

 ともあれ竹内氏は、健治が何事もなく戻って来たという事にしたがっているようだった。というよりも、別の心配事に気を取られているという感じを受けた。


「お前がどこで何をしていたかについてはここで終わりだ。それよりもな、今このアパートは大変な事になってるんだ」

「大変な事?」

「ここ一、二か月前からネズミどもが爆発的に増殖しているんだ」


 ネズミども、と言い捨てた伯父の顔はいつになく険しかった。


「うちのすぐ隣に『モートル』って言う洋菓子屋があるのは知ってるだろう? あすこにネズミどもが昼も無く夜も無く出没して、店に出すはずのお菓子を食い漁るようになったんだよ。奴らは悪知恵が働くらしくてな、瓶入りのチーズケーキすらも被害に遭うという始末なんだ」

「それは大変ですねぇ……」


 それだけじゃない、と伯父は続ける。


「お菓子をやられるのも大変な話だが、ここから四軒隣のお宅なんかな、飼っていた小鳥が皆殺しにされたそうだ。よく馴れた白文鳥も、お喋りが得意なセキセイインコも、歌が上手なカナリアも繁殖上手な十姉妹も、全員だ。鳥飼君の落ち込みようは、もう目も当てられないほどなんだぜ」

「僕が……僕がいないうちに大変な事になっていたんですね。本当に」


 茫洋とした健治の言葉に、伯父が目を光らせた。


「健治。お前にもネズミ退治を手伝って欲しいんだ。奴らは図々しいがおつむは弱いから、粘着式の罠でもネズミ捕りでもアホみたいにかかってくれる。それでどんどん捕まえて、やっつけていくんだ。お前だけじゃなく、アパートの住人も今はみんなそれに全力で取り掛かっている所だからな。それに、お前の部屋にもネズミがウヨウヨいたんだよ」


 伯父はそう言うと視線を外し、畳に目を向けた。畳の上にはネズミの糞がいくつか転がっている。



 ネズミは馬鹿だからすぐに罠に引っかかる。果たしてその主張の正しさを健治が知るまでに、それほど時間を要さなかった。粘着式のネズミホイホイに菓子パンのかけらを引っ付けていると、すぐにネズミが引っ掛かり、身動きが取れなくなっていたのだ。しかも、そんなネズミは一匹ではなく三、四匹もいた。


「本当だ、もうかかってるよ……」


 健治はネズミ捕りの持ち手を摘まみあげ、中をこっそりと窺った。菓子を喰い荒らし可憐な小鳥を襲撃して殺したと聞いた後だからだろうが、無様に罠に引っかかるハツカネズミたちの姿は妙にグロテスクに映った。いや実際にはグロテスクだろう。小さな蛇を思わせる鱗に覆われた尻尾を持ちながらも、手首足首は生意気にも人間に似ているのだから。

 これだけかかったからこれはもう「始末」しよう。健治はすぐにそう思った。ネズミ捕りにかかったネズミは放っておいても死ぬが、バケツに水を張って沈めてから処理した方が良いと伯父には言われていたのだ。どのみちこの罠にはもう他のネズミはかからないだろうし。


 ネズミたちは健治の思惑に気付いたのか、不自由な身体を動かし、どうにかして逃れようと足掻いている。ネズミたちが桃色の鼻をうごめかせ、呻くように啼き声を上げたのを健治は耳にした。


「……ケテ。タスケテ。オトウサマ……!」


 ネズミの口から出てきたのは、月並みな啼き声ではなく幼子の懇願だった。

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