見知らぬ友人
かえる
見知らぬ友人
「君の友人さ」
目の前の男は、まるで親しい友人に話すような調子で言った。僕はそんな言葉が来るなんて予想だにしていなかったので、何も答えることができなかった。
「間違えた。友人になるはずだったんだ」
男はおもむろに僕の前の席に腰かけ、味噌汁を啜った。
「申し訳ないけれど、僕はあなたのことを知らないみたいなんだ」
「それはそうだろうな。俺は君とただ一度、すれ違っただけの関係なんだから。君とは全く無関係といってもいい。つまりは他人だ。俺も君のことを知らないよ。一ミリもね」
男は言いながらせせら笑った。
「何かの冗談ですか」
「いや、冗談なんかじゃないよ。昨日、君は駅ビルの本屋に立ち寄っただろう。そこで俺たちはすれ違ったんだ」
男は前髪を掻き上げた。そのしぐさを見たとき、なぜか僕は懐かしさともとれぬ妙な感覚を覚えた。
「カミュの異邦人を持っていたな。あれはいいぞ。少し小難しいところもあるが……」
「悪いけど、人と向かい合って食事をとるのは好きじゃないんだ」
「……それはそうだろうな。この広い食堂で、一人で飯を食っているんだ。そういう思想を持っていても何の違和感もない」
男は大仰に両手を広げ、肩をすくめた。
「俺は君に話しかけるが、無視してもらったって構わない。それぐらいは許される関係だもんな」
僕はめんどうになって、白米を一気に掻きこんだ。
「食器を自分で返却口に返すシステムの食堂って、なんかいいよな。飯を作ってもらった感謝を表現する機会があるんだもんな。ただ座って飯食って帰るだけってのは、ちょっと偉すぎやしないか? むしろ、自分が使った食器を自分で洗う店があったっていい、と俺は思っているんだ」
男はいちいち手振りが大きかった。
食事を終え、席を立とうとすると、男は唐突にテーブルに身を乗り出して遮った。
「そういえば、昨日、プリンを作ってみたんだ」
まるで傑作の話をするかのような顔をした。
「その話は僕にする話か?」
男は頼んでもいないのに滔々とプリンの作り方について語った。前髪を掻き上げる癖も、プリンの工程もどこか心あたりがあった。男の名前はおろか、顔に見覚えすらないはずだった。それなのに、その男の癖や、話す内容には既視感があった。
「卵を混ぜるときは泡が立たないように混ぜるんだ。じゃないと……」
ひとしきり話した後、男はわざとらしく溜め息を吐いた。
「俺は明日、海外に越すことになっているんだ」
「留学でもするのか?」
「まあそんなところだ」
「こんなところで油を売っている場合ではないんじゃないか? 別れを惜しむのにふさわしい相手が他にいるだろう」
男は少し考えるようにして鼻を鳴らした。
「俺たち、なんだか友達みたいだな」
男は屈託なく笑った。その笑顔は、全く見覚えがなく、親しみもない笑顔だった。それなのに僕は、この男が異邦人を読んでいることを知っている。プリンを作れることを知っている。明日海外に行ってしまうことを知っている。
「どうなったら友達だと言えるんだろうか」
ふと浮かんだ疑問を投げかけると、男は目を丸くした。
「考えたことなかった。なんだろうな」
男は持ち上げた大根を止めて考え始めた。大仰な身振りが止まると、時ごと止まってしまったようにも感じる。
男の答えを待つ間、食堂がすでに閑散としていることに驚いた。講義の時間が迫っているからだと気づくのには、時間が掛からなかった。
「お互いが、お互いの何者かになった時、じゃないか」
男は釈然としない顔で言った。
「そのためには、何者かになろうとしなくてはならないし、何者か認識しなくてはならない」
「相互理解か」
「いや、相互認識さ。理解なんてしなくたっていい」
「それは本当に友達と呼べるのだろうか」
「呼べるさ。呼びたくないのならそれでもいいんじゃないか? それってつまり、認識したくないってことなんだから」
「なんだか拗れてきたな」
「君が俺を友達だと思わないのはわかるよ。でも友達だと思うのは簡単なんだ。俺は君の友達になれたかもしれなかった。俺以外の誰にでもその可能性はあった。でも、君が選んだんだろう?」
男はつまらなそうな顔をして言った。
その時、なぜか僕は取り返しのつかないことをしたかのような気分になって、背中にじわりと焦燥が走った。
「僕はあなたの何者かになったんだろうか」
「どうだろうな。確かに君は俺のことを知ったし、俺は君のことを少しは知ったさ。でもな、もう知ることはないんだろうよ」
彼は、静かに席を立ち、振り返らずに去っていった。
テーブルには食器が置き去りにされている。
僕たちは、それが許される関係だった。
見知らぬ友人 かえる @vtstar5139
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