これを聴いてよ音鳴りさん

入江弥彦

オトナリサンに送る歌

 ギターの音が聞こえなくなって何日経っただろうか。


 弦が切れたのかもしれない。あのギターはずいぶん古いものだったから。もしかしたらお隣さんが病気で倒れているかも知れない。あまり健康的とは言えない人だったから。こんな時にドアを叩いて安否の確認が出来たら良いのだけれど、彼を表す固有名詞を私は知らない。



「名前くらい聞いとくんだった」



 私と彼を表す言葉はオトナリサン以外にない。騒音の苦情を言うという名目がなければ訪ねることもできない関係性だ。

 シンバルがとれた猿のおもちゃからの視線を感じて、彼が歌った曲を思い出す。音楽を知っている私からするとでたらめな叫びだったけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。それどころか、他の何よりも優れた名曲にすら聴こえた。



「君もそう思う?」



 指先で猿のおもちゃをつつくと、触った部分がボロボロと崩れた。靴を履いて玄関を開けると、前よりずいぶん近くなった太陽の光が目を眩ませた。



「暑いんだろうな……」



 今の気温を考えると、少し気が遠くなった。まだ普通に生きていられる程度ではあるけれど、それもきっと時間の問題だ。

 もうずいぶん空いていないであろう隣のドアに手を添えると、力を入れる前にドアが倒れた。私の家のドアも、そろそろまた補強しないといけないかもしれない。



「オトナリサン、お邪魔するよ」



 倒れてしまったドアを踏んで、家の中に足を踏み入れる。

 触るだけでドアが倒れるのは緊急事態だし、それに反応がないのはもっと緊急事態だ。ただの隣人でも、この場合はきっと中を確認するだろう。

 短い廊下の先にあるワンルームにはほとんど物がなかった。間取りは同じだけれど、ごちゃごちゃした私の部屋とはずいぶん印象が違う。


 部屋の隅に、弦の切れたギターが立てかけてある。細心の注意を払ってそれを手に取り、軽くほこりを払った。



「まだ使えそう」



 ベッドに近付いて、オトナリサンだったであろうものに手を合わせる。こうするのが人間の常識だと聞いていたけれど、実際に行ったのは初めてだ。父の時は、手を合わせる場所がなかった。


 もっと喋っておけばよかった。

 もっと騒音被害を訴えればよかった。

 もっと聴いてあげればよかった。

 もっと聴いてもらえばよかった。


 様々な後悔とギターを抱えて自分の部屋に戻る。

 私の部屋の中だけやたらと新しく見えるのはメンテナンスを欠かさないように教え込まれたからだ。私を産んだ父は、世界がこうなることを予想していたのだと思う。一人でも生きていけるようにたくさんのことを教えてくれたけれど、一人で生きていく寂しさは教えてくれなかった。


 いまこの世界でギターのメンテナンス方法を知っているのはきっと私だけだろう。

 オトナリサンに教えなかったのは、追及されたくなかったからだ。差別するような人ではないと思っていたけれど、それでも言えなかったのは私の弱さだろう。手を動かしながらオトナリサンとの思い出を振り返る。



「すごく昔の技術なんだって。こんなもので音を楽しんでいた時代があったなんて、信じられないよね」



 彼に猿のおもちゃを紹介した時の言葉を一言一句違わず繰り返す。少なくとも、彼は信じていてくれていただろう。同じ、音楽の死んだ時代の人間として。


 窓の外から名ばかりのヒットチャートが流れ込んでくる。初めてこの雑音を聴いた時は、世界はずいぶん思い切ったことをしたものだと思った。すぐに慣れるだろうと考えていたのに、二百年経った今も不愉快な雑音は耳障りでたまらない。最初は怒っていた反発も、音楽が異常なものという常識が浸透するにつれ消えていった。



「オトナリサンは、変わった人だったな」



 名前を聞かれなかった。聞かなかったのは私もだけど。

 私のことを人間のように扱ってくれた。人間だと思っていたのかもしれないけれど。

 それからたぶん、彼は私のヒールの音が好きだった。私の歩幅に合わせてリズムをとっていたのを知っている。


 ギターのメンテナンスを終えるころには、夜になっていた。二つあった太陽が一つになって、少し日差しが緩んでいる。昼夜がなくなったのがいつからなのかは覚えていない。音楽がなくなった少し後だったように思う。


 ギターを持って家を出る。

 いつも彼と歩いていた道は少し歩きづらくなっていた。

 いらなくなった金属が積まれた浜辺に出て、座りやすそうな部品を探す。ちょうど二人掛けのソファーのようになっている鉄骨に腰かけて弦を小さく弾く。

 一度だけだと言って聞かせてくれたあの曲を私はよく覚えている。ここはこうしたほうがいいだろうな思いながら聞いたものだから、少し脳内で修正してしまっているかもしれないけれど。



「君がこの世界でどんなことを嘆いても」



 歌はあまり得意ではない。



「きっといつか笑われてしまうね」



 オトナリサンのほうが多分上手だ。



「僕たちで歌おう」



 それでも、一曲丸々歌い上げるとどうしようもない高揚感に襲われた。それと同時に強烈な寂しさと虚しさを覚える。



「もっと聴かせてほしかったよ、オトナリサン」



 ギターの弦が空気を震わせる。太古の昔に楽しまれていた音が、私の耳に吸い込まれていく。



「あ、あの!」



 声をかけられて振り返ると、白い布がこちらに向かって歩いてきていた。



「え、なに……?」



 近付いてくるにつれて、それは体に不釣り合いな大きな服を来た少年だとわかった。浅黒い肌は太陽に良く焼かれたのだろう。所々皮がむけているけれど、怪我によるものではなさそうだ。



「あの、それ、その」



 ギターを指さした少年の瞳には好奇心の色が濃く映っている。

 私が軽く音を鳴らすと、彼は唾を飲み込んだ。



「音楽ってやつ。もっと聴きたい?」



 しきりに頷く少年を隣に座らせて、あの日のオトナリサンを思い出す。



「ねえ、手を叩いてみて。同じ間隔で何度も。こんな感じに」



 私が手本を見せると、彼はぱちぱちとそのまねをする。



「こう?」

「上手だね。猿のおもちゃじゃこうはいかなかっただろうなあ」

「サル?」

「ううん、なんでもないよ。じゃあ聴いていてね」



 この曲に私がタイトルをつけるとしたら。

 一息吸い込んで、あの日の彼よりもずっと上手に音を鳴らした。





「残像、フラクタル」





 オトナリサンにも、聴こえているかな。

 私たちの歌が。

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