不死語〜しなずかたり〜

弍硫化鉄

嘉平

 潮目とでも言うのか、乱戦の中、宙に浮いてような心地に包まれる事がある。

 嘉平は生まれて初めてその心地を味わっていた。

 先刻まで感じていたのは、武具の打ち合う激しい音、掴み合い揉み合う雑兵同士の唸りに似た叫び、慟哭、断末魔の絶叫。常にどこかから漂ってくる何かが焦げるきな臭さ。血や臓物の臭い。辺りに撒き散らされる糞便や反吐や膿の鼻が曲がりそうな悪臭。

 えずきに耐えながら必死で長槍を振るい、気がつくと手の中から無くなっていた槍の代わりに借り物の腰刀を振るっていたら、それは不意に訪れた。

 生まれの郷を出て十年になると言う古参の夫丸ぶまるが言うには、乱取りの中でも敵の顔が見分けられるようになったら、そいつは一人前だと言う。陣触れに加わって一年の嘉平も、ようやくそれが自分にも訪れたかと思った。


 だが、それにしては頼りがない。

 頭は茫として、手足の感覚も不確かだ。胴籠手脛当以外剥き出し同然の肌は、何処も彼処も大小の生傷だらけで、先刻までは気が狂いそうに痛んだと言うのに、今はそれも感じない。こんな感触は幼い頃、村の溜池で溺れかけて以来の事だ。


 ―――おら、どうなっちまった。


 不安を感じて手元に目を落とすと、いつの間にか空手になっている。


 ―――ついに腰刀まで落としちまったか。


 そう思ったがおかしい。

 つい今しがた、敵の雑兵を踏みつけ、当の腰刀をその喉元に突き立てた筈だった。

 だが、足元は空だ。

 そこには掘り返され踏みつけられた、かつては耕地だった黒土が在るばかりだ。

 所在無く辺りを見回すと、茫然とした敵兵の顔が間近にあった。首を巡らす。敵も味方も皆、申し合わせた様に同じ顔。合戦の最中だというのに、唖然とした顔で嘉平を見つめていた。


 ―――おら、どうして……。


 その時初めて気付いた。いや、最初から気付いていて、ずっと知らないふりをしていた。

 嘉平の胸からは、胴鎧の薄い板札を貫いて、槍の柄が墓標の様に突き立っていた。


 あのとき。

 合戦で初めての手柄を上げたあの時、間髪入れずに突き出された長槍が、嘉平の胸を深々と抉ったのだ。その火花が散るような衝撃と激痛を嘉平は思い出していた。

 では、どうして死に体の筈の自分が、こんな風に乱戦の只中で棒立ちをしているのだ?

 その声は、嘉平の直ぐ隣から聞こえた。


不死しなずだ……」


 振り向くと夫丸が居た。

 夫丸はこれ以上開けまいという程に目を見開き、呆然と立つ嘉平を見つめていた。何時でも冷静で豪胆な夫丸の、こんな顔を嘉平は見た事がなかった。濡れた瞳は怯えと狂気に染まり、太刀を持つ手はおこりに罹ったように震えている。

「しなず……」

 その囁きが燎原の火の様に前線を駆け巡った。


 ―――不死。

 ―――不死だと。

 ―――嘘だ。

 ―――しなず。

 ―――不死人。


 ―――


 先刻までの乱戦の様相が嘘の様に、呆然と立つ嘉平の周りは、敵も味方も動きを止め、息を詰めて静まり返っていた。

 その中で、唸り声が聞こえた。

 獣の様な唸り声だ。飢えて傷付き、欲に塗れ、求めても得られず、それでも追い求めずにはいられない。


 それは獣の唸りだ。


 嘉平は、それが自分の出す声だと気付いていた。

 我知らず、嘉平の身体は弾かれる様に飛び出すと、眼前に棒立ちしていた雑兵に躍りかかった。痩せた体を押し倒し伸し掛かると、顎が外れる程に口を開いて、まるで梨を喰らう様に敵兵の頭に齧り付いた。

 何処か遠くで、涙混じりの怯えた絶叫が聴こえた。

 嘉平が男の頭蓋を力任せに噛み砕くと、それは熟れた梨と同じように血と脳漿を吹き出した。嘉平の顎と歯も耐えきれずに割れたが、一向に気にならなかった。痩せた男は、か細い断末魔と共に動かなくなり、身体だけが痙攣を始めた。

 誰のものかも分からぬ血肉と骨片を、捻れた唇から垂らしながら、嘉平は立ち上がった。白濁した眼は在らぬ方向を向き、もはや何者も映してはいなかった。

 獣の唸りを上げた嘉平は、無防備な次の獲物に飛び掛かった。

 恐慌が、前線の兵達を襲った。

 嘉平は、否、嘉平だったものは、奔り、飛び、噛み付き、抉り、引き裂き、空手のまま甲冑で鎧った兵達に次々と襲い掛かり、殺し、喰らった。敵味方の区別などあるはずも無い。

 それは生身の人とは思えぬ膂力で、兵達の骨身を文字通りに砕いたが、その度に嘉平の身体も崩れていった。

 恐慌に陥り散を乱した兵など、幾ら集っても鈍足の兎と変わりなく、一方的に狩られるばかりだった。自身と獲物の血飛沫を撒き散らしながら、一匹の獣は虐殺の限りを尽くした。

 その酸鼻極まる光景を、嘉平は眼という虚の底から、他人事のように覗いていた。痛みも、苦しみも感じない。茫とした無感覚だけがある。虚の底の底で無痛の中に浮かびながら、嘉平はしきりに郷里を出た時の諸々事を思い返していた。


 嘉平は村の名主の生まれだ。二人の兄と妹と弟が居たが、二番目の兄は病で逝った。乳飲児の弟は母の乳が足りずに死んだ。生まれて数ヶ月、名前すらなかった。

 名主の倅と言っても、日々食うや食わずなのは他の小作人達と変わりは無く、子供時代はひもじい思いをして育った。村では夏に日照りが続けば体力のない老人や病人から死に、冬に米が尽きれば毎年餓死者が出た。

 だから、嘉平は十五まで生きられた自分を幸運だと思っていた。

 それでも、一家に三人子供が居れば重荷になる。また何時訪れるか分からない飢饉や天災に備えて、食糧の備蓄も必要だ。食い繋ぐためには口減らしをしなくてはならない。

 だから、合戦に備えた陣触れが村々を廻った時、嘉平は志願してそれに加わった。

 村を出る時、母は泣いた。

 足軽になれば毎日腹一杯飯が食える。米俵抱えて帰って来てやるから、安心して待ってろ。そう言って嘉平は胸を張った。白米の握り飯食わせてやるぞと言ったら、幼い妹は目を輝かせて喜んだ。

 分かっていた。

 全部嘘だ。

 合戦に出れば、真っ先に死ぬのは槍持ちの雑兵どもだ。討ち取られるのならまだいい。行軍中の病や事故、矢傷を受ければ最悪手脚を失う事になる。そうなったら残りの一生として生きるしかない。

 運良く五体満足でも同じ事だ。村に食い扶持が無い事に変わりは無い。また、別の戦に加わるしか道は無いのだ。

 そうして、また次の戦、その次の戦、また次の……。


 だから、母が泣いたあの時。

 嘉平は帰るべき故郷を失ったのだ。


 嘉平だった獣は、殆ど千切れかけた手足を引き摺りながら、腹が裂かれた死体の、まだ湯気をあげる臓腑に顔を突っ込み、肝を引き摺り出して噛み千切った。それはかつて陣中で苦楽を共にし、同じ釜の飯を分け合った仲間だった気もしたが、今となってはどうでも良い事だ。

 その凄惨な様子に、敵兵の一人が槍を放り出し、尻餅をついて失禁した。情け無いとすら思わなかった。

 そいつを次の獲物に定めた時、衝撃が脇腹に突き刺さった。見ると、夫丸だ。槍を手に決死の表情で、脇腹にその矛先を突き立てていた。

 一人が勇を鼓した途端、周りが一斉に動いた。敵も味方も関係なく、雄叫びで自らを奮い立たせると、手に手に持った槍の矛先を、太刀の切先を、矢尻を、嘉平に向けて突き出した。

 元々千切れかけていた手足が飛び、はらわたを槍の矛先が深く抉った。銀光が視界に閃いて、すぐに何も見えなくなった。

 鋼の刃は、臓腑を焼くほどに熱かった。

 その熱を感じながら、嘉平は叫んだ。


 ただ、ただ、叫んだ。

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