第8話 勘違い

 大きく鮮明になった悲鳴。そこで初めて男の悲鳴も聞いた。男がこんな声を出すことがあるのか。聞いたことのない音だった。低く汚い。驚きにも似た感情が湧く。


 広い構内のメインストリート。腰を低くして……急ぎつつも素早く……そこまで来ると、高い所から見下ろしていた景色がそのままあった。鮮明に。壊れたまま動く人間と、それから襲われ逃げる人間。


 校舎と校舎を繋ぐ道で、木が植えてある広場で、混沌が咲き乱れる。これまた経験のないほど視界の中の赤の割合、血の匂い。


 それを広げる生き物は正常な人間を異様な形相で手当たり次第に襲っていた。目ん玉をひん剥いて奇声と共に。


 その中の1匹と広志は目が合った。


 近くで1人を殺し終えたらしい口から血を吐く女のゾンビ。倒れた人の元から次は広志に向かって走り出す。


 それを見た時に――真っ直ぐにそれと相対して狙われた時に――広志は動けなくなった。


 心臓から虚無が全身へ流れ出したような……指先まで、感覚という感覚が体から失われてしまった。


 あれ……一体何を勘違いしていたんだろう……何でこんなところに出て来たんだろう……。


 女のゾンビは全力で走り続ける。


 怖い。心の底から。よだれと共に血を流す女の口元がやけにゆっくり目に映った。


 そうだ……俺って、主人公じゃなかったじゃないか……。


「何やってるんだ!さっさと抜けよう!」


 本当にやばい。それでも動けない。そうやって覚悟もできていないまま終わりが見えた時、広志の手は強引に引かれた。


 間一髪。ゾンビが通り抜けた後の風を感じるくらいの距離でそれを躱すと広志は再び走り出した。


「どうしたんだ。しっかりしてくれ。まだ序盤だぞ」


 手を引いてくれたのは一緒に出てきた早乙女。広志はいきなり命を救われた


 その勢いのまま足に再びエンジンを入れることはできたけれど、広志はもう何が何やら分からなくなっていた。


 初めて見るものなのだから耐性が高く備わっているはずがない。ただ、憧れていただけだったのだ。本物と相対した時の努力なんて一度もしてこなかった。広志はちゃんと向き合うゾンビの恐怖を舐めていた。


 先程皆を誘導した時の広志は興奮状態だった。勢いで乗り切れただけ。眠気も感覚を麻痺させていた。でも、落ち着いて見てみると怖いなんてものじゃない。


 広志は早乙女の背中だけを見て走り続けた。横も後ろも見ている余裕なんてない。もうその背中だけが頼りだった。今すぐこの恐怖から解放されたい。思考もそれだけになった。


 自分を狙ったゾンビがついて来ているのかも分からない。他のゾンビからも目を逸らす。自分を狙わないことを祈るだけ。そんな状態で手足の感覚を失いながらも走り続ければどうにか目的地は見えてきた。


 同じ構内なので全力疾走ならそう時間はかからない。通う大学の見慣れた食堂。そこへ逃げ込むように突入する。

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僕が望みし、このゾンビワールド 木岡(もくおか) @mokuoka

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