絶対零度の荒涼

水原麻以

翔(は)しる瞬間(とき)

 絶対零度の荒涼が、全天に君臨している。見上げても、見下ろしても、見渡しても、闇、闇、闇。

 そこに息づく生命はなく、勢いづくのは死神の破竹。


 それでも彼女はあきらめず、ひるまず、退かず、



 この地球に生きようとしている。

 その生命の、全てが彼女にあるように。その生命は、彼女の中に在る。

 それゆえに、彼女は「絶対零度」という言葉を知っている。


 そういう意味でこれから先は、「絶対零度の荒涼」を超える存在になるわけ――と言われれば、それはもうとことん、この荒涼とは比べ物にならないほど高い可能性だ。


 そこには宇宙に生きるあらゆる生命の「絶対零度」が、あらゆるものの「絶対零度」が現れてくる。

 それを「絶対零度」と呼んでしまいがちな“存在”と、それを“存在の絶対性”と呼んでしまいがちな“現象”が存在する。

 それらを見る人間の心は、宇宙には存在しなくても、あらゆる存在のすべてに影響を与える。たとえたった一匹で存在しうる「絶対零度」の存在であるにもかかわらず、

 宇宙のあらゆる事象は、すべて「絶対零度」と呼ぶのだ。

 それも、一桁以上の「絶対零度」があらゆるものを打ち消す。

 ある種のお伽話に出てくる、宇宙の「絶対零度」も、まさに。宇宙そのものの真・中・低・高の中に埋め込まれたそのものだった――。――と。


 ――彼女が言っているのは、すべてを受け入れなければならない、ということではない。


 そうした存在から見た、あらゆるものの「絶対性」を感じ取っていただくことが求められるのだ、と言っている。


「絶対零度」を生み出せるのは、ただひとつ。それはただ、“自然から見えるもの”であること。


 そしてそれを、“人間”が“自然から見えるもの”と思ってしまう。


 そういう可能性を、誰かが「絶対零度」とは呼ばないようにしてしまうんだろうか。


 彼女の「絶対零度」を信じていただくために、彼女の言っていることは、彼女の本当の意味ではなく、彼女の感情の部分なのだ。


 彼女はまったくの“偶然”に“自然から見えるもの”と言っている。それは「偶然」という言葉が“現実にありえないもの”だということを示しているにもかかわらず、なぜそう呼ばれ続けるのか。


 そもそも、彼女が言っているのは「自然から見えるもの」などではなく、“「偶然」が、できること”なのだというんだ。「偶然」による「絶対零度」は、偶然による「絶対零度」や、「偶然ではない」ことを示している。彼女は、「偶然があるから」という理由だけで「絶対零度」や、「本当の意味」「本当の状態」まで含めて「偶然」という言葉を使うようになった。


 この理由に、思うところが。


「奇跡」や「奇跡を起こせる」という言葉が一般的に用いられるが、そのほかにも、「神業」や「奇跡を起こす」といった例の言葉や、「偶然の類い」や“偶然性”などを用いることもある。


 そして、「偶然」を言葉として用いているものの、なぜ“偶然性”ではなく「偶然の類い」を用いているのか。


 例えば彼女が言っている「偶然性」――「偶然の類い」は、彼女の言う「偶然性」よりも、遙かに大きな意味を持つことだ。それは「偶然」の部分でなく、「偶然を起こす」部分だ。彼女の言っている「奇跡の類い」の中にも、「偶然性」や「偶然性」や「偶然性」が「奇跡」のように含まれている。彼女は「奇跡の類い」のことを「奇跡性」とは言わない。「偶然性」の概念も、別のところでは使わなくなった。


 その理由は、「偶然性」は本当の「偶然の類い」ではなく、「偶然」に限定されていることにある。彼女は「偶然性」が自分の言う「偶然性」より強く、相手側がその力と性質を理解することにより変化することを「偶然性という言葉」に含めていると言う。つまり彼女は、相手の「偶然性」と自分の「偶然性」との力関係は自分の「偶然性」が自分の「偶然性」よりも強く、相手の「偶然性」が相手の「偶然性」よりも強い力関係だと考えているのである。


今回、戦況報告を読んでもらったら、彼女の言っていることが本当だと分かる。 「偶然」とは、その時々、見つけた自分の行動や思考によって成立する「事象」で、「必然性」や「必然」によって成立する「偶然性」よりも大きな力を持つ。「運」や「偶然」は、その力を利用して「偶然」を起こすこともできるけれど、自分で自分を「偶然性」によって導きだす力が、「偶然性」よりもはるかに強いことを言っている。その力を見つけることができないため、この問題は、「偶然の類い」であるという彼女の考え方は、まさに「不運」の原因でもあるのだろう。




「ご苦労だった」

髭面のドワーフが斥候を労った。その瞬間、血走った目から生気が消えた。

「死に急ぐこともあるまいに」

カッと開いた瞼に手を添えてやる。そして力尽きた身を衛生兵に預けた。

彼は這う這うの体で生き延びた。他にも壊走した部隊が続々と到着している。血達磨の将校や息を引き取った者の間を衛生兵が縫っている。

「冷えるな…何度だ」

大隊長は任命したばかりの副官に気温を尋ねる。彼も息を凍らせている。

「惑星アードベッグ。氷の牢獄と言いますけどね…絶対零度よりゃマシでしょう」

空挺部隊の戦車長だったという男は訳知り顔で言う。

「ん? エルグ軍曹。君は宇宙そらに昇った経験があるのか」

「高度百キロから上は女の天下だ、なんて名ばかりでさ。2eVが怖くて乱流磁場と戦えませんや」

「エルグ軍曹と言ったか。銀河ガンマ線に被爆してまで君は何と戦っているのだ」

大隊長は希少なy染色体を持つ者を危険に晒す軍部に憤りを覚えた。同時に彼の勇気を讃えた。宇宙の海は耐性を備えたエルフの独壇場だと言われている。その反面、デブリやフレアなど逃れられない危険が付きまとう。いくら最強のスキルを操る彼女らとて真空を呼吸したり泳ぐことはできない。

そんなアウェーでなぜ死に急いでいたのか。

「随分と道具的ですね…」

軍曹は男の子のような瞳で話す。「冒険心―俗っぽく言えば漢の浪漫という奴でさ」

エルグによれば道具論では語れぬ男の人生がある。生産性ばかりが強調される現代において真に重視すべきは内面的価値でないか。


それを具象化すると冒険心や功名になる。よくないのは報酬で内心をアウトプットさせる行為だ。そのもっともやってはいけない―非人間的な行為を行ってる組織が軍隊であり、それは勝てない軍だ。服従は内面的価値を少ないコストで駆動できるが愛国心とは仮想化された搾取に過ぎない。

それは消極的な攻撃力であってむしろ戦いを継続させる過程において外的な動機を内面的価値にインプットできてこそ、優位に戦闘できる。


「つまり、君はヒャッハー!をいいたいのか。女どもに囲まれてうれしかったか

大隊長は皮肉った。

すると、軍曹は肩をすくめた。「やはり大隊長殿はなにも分かってない」

そして付け加えた。あんたに戦車乗りは指揮できない。

「何が言いたい。上官侮辱罪で営巣に送ってやってもいいんだぞ」

「アローゼン偵察兵は犬死になっちまった。何度でも申し上げますが、内面的価値観の運用。それが肝心なんです。彼の部隊を灰にしたあの裏切女マリーも本性は同じだ」

「私は忙しいんだ。手短に頼む」

大隊長は饒舌に興味を失ったらしく更迭を考え始めた。

「報告にもあったでしょう。具体性よりも連中は『信じてる』。換言すれば狩りを『楽しんで』いる。マリーだってそうだ」

「!」

最後の言葉を聞いて大隊長は目を見張った。

そして、少し考えた末にエルグを誉めた。

「よく教えてくれた。我々も『愉しもう』ではないか!」

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絶対零度の荒涼 水原麻以 @maimizuhara

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