あの日の水槽
ウラサワミホ
あの日の水槽
黒板に何も書かれていない教室では、視線をどこに留めたら良いのかわからない。だから昼休みは給食を食べ終えるとまっすぐに理科室に向かう。生物部員は他にもいるけれど、餌やり当番以外の日に顔を出すのはわたしくらいだ。教室の喧騒から離れたここにいるときだけ、あのぐるぐる落ち着かない感じを忘れることができる。聞こえるのはわずかな水音ばかり。水槽に順に餌を入れていく。ハゼにザリガニにドジョウ。噛み合わせが悪くなった箱椅子の脚が、わたしが動くたびにカタカタ音をたてていた。腿の下でプリーツが少し縒れる。アクリルガラスに顔を寄せると、エアーポンプが立てる音と水のにおいがする。そのままハゼが口をぱくぱくさせて餌を呑むのを眺めていた。ふと時計を見上げると、昼休み終了10分前。午後からは体育祭の特別練習だ。なんで何もしないのにジャージには着替えなきゃダメなんだろ。
駆け足までいかないくらいの速足で体育館に向かう。昔の人は21世紀になったらジェットエンジンがついたロボットが空を飛び回ってるって想像してたんだろうけど、現実の2002年ではまだ中学生は学校の廊下を自分の足で歩いてるし、アトムにもドラえもんにもまだまだ会えそうにない。
体育祭の練習初日、背が低いというだけで騎馬戦の騎手にされたわたしは、敵軍にかちあう前に体育館の床に叩きつけられてしまった。全治2週間の脚の打撲。病院では当日までには治ると言われたけど、ギリギリ数日前に合流しても着いていけないから本番も見学させて欲しい、と担任に相談するとあっさりOKされてしまった。そっちのほうが喜ぶ人が多いと先生も知っているのだ。そんなわけでわたしは中学最後の体育祭の練習を隅のほうでただただやり過ごすことになった。
ずらり並んだ騎馬が、笛とともにどっと動き出す。腰を下ろした床の振動はお腹に響くけれど、ハチマキの奪い合いの熱狂は透明な壁一枚隔てたように遠くに感じられる。走って、ぶつかって、もみあって。あれ、最近こんなのどっかで見たなあ。この狭いところでガシャガシャしてる感じ、何かに似てる。
「ああ、ザリガニだ」
声に出してしまった。あわてて辺りを伺うと、横で同じく見学していた隣のクラスの男子が、こちらを見ていた。ああ、やっちゃった。胃の奥がぎりりと重たくなる。「意味わからないイタイやつがいる」そう思われてしまう。でも、おそるおそる向けた目線の先にあったややつり気味の丸っこい目は、予想に反して「いやなもの」を見ている風ではなかった。
「ザリガニですか」
「あの、騎馬戦遠くからみてると、なんか狭いところにザリガニ何匹か入れてるときの感じに似てたんで」
しどろもどろになりながら答えると、彼はまた顔を正面に向ける。しばらく乱捕りを観察した後で、
「なるほど、小学校以来ザリガニからは遠ざかっているもので、よくわかりませんね」
といたって真面目な口調で言った。
「お好きなんですか、ザリガニ」
変わった喋り方をするひとだ、そう思う。物語を朗読しているみたいな、どこか芝居がかった口調。けど少し低くて通りの良い声には似合っている。
「生物部なので、毎日世話してます」
「では組体操は?」
「え?」
意味がとれずに聞き直すと、こっちを向いた彼とまた目が合う。茶化されている感じはない。
「騎馬戦がザリガニなら、組体操はなんなんでしょう?」
もちろんそんなの考えたことはない。わたしたちは黙って顔を見合わせた。体育の先生がこちらに向けて「佐藤!」と叫ぶ。隣の彼が「おや、呼ばれました」と言ってひらりと立ち上がった。立つと結構背が高い。でもすごく細身だからか、どこかバランスが悪い感じがした。いつの間にか騎馬戦の練習は終わり、次は組体操の立ち位置確認に入るようだ。
「では、考えておいてください」
そう言い残して「佐藤くん」は男子生徒の群れに加わっていった。体育館にバラバラ散っていた点が、笛の音とともに隊列を成して動き出す。一人、二人、徐々に集まって、塊が大きくなる。エサを放り込んだ時の鯉かなあ。ああ、それよりも魚群っぽいかも。体育館の中を泳ぎ回るその日の同級生たちは、なんだかいつもよりもきれいにみえた。
次の日の体育祭練習は、組体操からスタートした。私の背中は今日も変わらず体育館の壁についたまま。体育座りの膝のした、この時間はあと何回続くのだっけ、と指折り数えてみる。親指から小指まで曲げ終えて、また小指を立てる。あ、当日を忘れてた。薬指も立てて、ため息がでた。教室で自習とかにしてくれないかなあ。あの中に加わるよりはずっと良いけれど。去年のバレーボールの授業、ボールがわたしの一歩前の床で弾むたびに感じたチームメイトたちのため息と、落胆と同情と苛立ちが混じった視線を思い出す。そのたびに体育館の床は吊り橋みたいに軋んで、目眩がしてうまく歩けなくなるのだ。ギュッと掴まれたみたいな痛みを感じて胸をそっと撫でた。
組体操の練習が終わって、騎馬戦の練習に移る。男子が一人、ぽっと列から吐き出された。私から右に2メートル離れた床に腰を下ろしたその子は、昨日も横で見学していた佐藤くんだった。どうやら組体操は参加、騎馬戦は見学しているらしい。私のようにどこか怪我しているのだろうか。でも組体操はできて騎馬戦は出来ない怪我ってなんだろう。
目だけをこっそり横に動かして、佐藤くんの様子をうかがう。長い脚を折りたたんで、背はぴたりと隙間なく壁につけている。教科書のイラストにでもなれそうな、お手本みたいな体育座りだ。顎先から鼻のラインを目線でゆっくりとなぞる。その間彼の横顔も、黒目も、ぶれることなく乱取りにまっすぐ向き合っていた。
わたしも視線を騎馬戦へと戻す。ちょうど正面で男子の騎馬が3つもみ合っていた。騎手がハチマキを取ろうとぐっと伸び上がると、別の騎馬の騎手も続いて手を伸ばす。やっぱり狭いところにたくさんザリガニ入れたときみたいだよなあ。
「組体操はなんなのか、思いつきました?」
不意打ちに、お尻がほんの少し床から浮いた。反射的にぶん、と右に顔を向けると、佐藤くんもゆっくりと顔を左に動かして視線がぶつかる。
「騎馬戦はザリガニ、っておっしゃってたので」
考えておいてください、って本気だったんだ。本当に昨日のわたしの独り言にひいてないんだ。応えようとして、私語を注意されないかが気になってしまった。体育の先生の様子を伺おうと視線を彷徨わせる。そんなわたしに気がついてくれたのか、佐藤くんが顔をまた正面に戻す。わたしも前に向き直って、騎馬戦のがちゃがちゃをみながら続けた。
「魚群つくる魚っぽいかなと思いました」
「魚群?」
「アジとか、イワシとかですね。水族館とかで何十匹もまとまって泳いでる魚、みたことないですか?」
ああ、と小さな声が聞こえたので、イメージはできたらしい。
「なるほど、確かにザリガニより幾分優雅ですね。面白いです」
目の前の水槽、もとい体育館では乱取りが終わって、騎馬たちが一旦整列していく。これから残っている騎馬で勝ち抜き戦だ。これはなんだろう。あんまり生き物っぽくないかなあ。
「考えてくださいとは言ったものの、本当に考えてくれると思ってませんでした」
「わたしも、考えてはみたけど本当にまた聞いてくれると思ってませんでした」
「聞かれないかもしれないと思ってたのに、ありがとうございます」
思わず笑ってしまう。隣から押し殺した息が聞こえてきたので、きっと佐藤くんも笑っているのだろう。変な人だ。そしてそれに応えたわたしもやっぱり変で、だからわたしたちは今話ができている。
「何か考えることがあったほうが、普通に見学するより楽しかったですよ。こちらこそありがとうございます」
そう返すと、よかったです、と佐藤くんが小さく言った。
騎馬戦の歓声と足音とに紛れた内緒話はまだ続いた。
「ザリガニって、どこで飼ってるんですか」
「理科室の後ろの窓際に、水槽3つ置いてあるの覚えてます?」
「そう言われてみればあったような気がします」
「今度、見てみてください。結構かわいいですよ」
床からお尻へと伝わる揺れが、いつの間にか止んでいた。授業が終わる時間だ。佐藤くんとわたしは、それぞれ自分のクラスの列に加わるべく立ち上がる。
ずっとその場にあっても、見ようとしていなければ結構気がつかなかったりする。でも一度そこにあることを知ったなら、今度は見えてないことにするほうが難しい。理科室の水槽は、次からは佐藤くんにとって「間違いなくそこにあるもの」になるのかな。
授業中の理科室は、昼休みにひとりでいるときとはまったく違う場所だ。夏服の白シャツの背中がひしめき合う中で座っていると、箱イスの不安定さは、上にのせたお尻だけでなく心臓までカタカタ揺らしている気がする。音楽、家庭科、理科、体育。移動教室のときは、教室で自分の席に座っているときよりも「ここにいていいのかわからない」気持ちになるのは、なんでかな。
「体育祭練習のときさ、3組の佐藤と話してたね」
先生が準備室に入ったタイミングを狙って、隣に座る戸田さんがわたしにちょっと身体を寄せて囁いた。出席番号が女子8番のこの子は、理科と家庭科の時間は女子の9番のわたしに話しかけてくれる。女子7番の子が反対の隣にいる音楽の時間は、わたしのほうに顔を向けることはめったにない。お正月のテレビでやってる駅伝みたいに、いつも右側に順位がみえていて、ポイントポイントでくるくる入れ替えられている、そんな気分。今同じテーブルについている4人のなかでは、わたしは1位らしい。
「佐藤と何話してたの?」
佐藤くんとは騎馬戦練習の時間に一言、二言言葉を交わすようになっていた。内容はたいしたことないことばかりだけれど。あんまり喋ってると怒られそうだし。
「たいしたこと話してないよ。見学暇ですねくらい」
「仲良いの?」
今日の戸田さんはなんだかいつもより楽しそうだ。1年生のときに彼女に「好きな人いる?」と聞かれたことがあったな、とふと思い出す。あのときは「いない」って答えたから、それ以上話は続かなかったけれど。
「うーん、そんなにたくさん話したことあるわけじゃないから、わかんない」
投げられたボールをただキャッチしては手渡しするようなやりとりが続く。多分あまり面白いとは思ってもらえていないのだろうけど、騎馬戦がザリガニに見えた話を戸田さんに話しても多分「変な人が2人」と思われるだけだろう。だからあの話は佐藤くんとわたしだけのもの。
戸田さんがわたしの耳元にさらに顔を近づけてきた。せっけんのにおいのする、多分制汗剤、がふわり香る。
「あの子の家、シューキョーやってるよね。知ってる?」
シューキョー、宗教。首を振ってみせる。
「佐藤、西小じゃん?たまにうちにお母さんと一緒にシューキョーの本配りにきてたよ。馬戦見学してるのも多分シューキョーやってるから。なんかシューキョーの都合でできないって言って、小学校のとき校歌歌ってなかったし」
わたしの家は仏壇と神棚が両方あって、クリスマスにはツリーを飾る。シューキョー、と聞いて思い浮かぶのは小学校のころにニュースで見た道路にたくさんの人が倒れている風景と、地下鉄駅にある指名手配犯の背の高い等身大パネル。昔何気なく背を比べてみてお母さんに腕を痛いくらいに思いっきり引っ張られたっけ。
よくわからないもの、なんとなくこわいもの。
わたしにとっての「シューキョー」はそんな感じだった。
体育祭の当日は、雲ひとつない晴れになった。その青がどんよりしてみえてしまうのは、わたしの気持ちの問題なのはわかっている。入場行進の前に、クラスで円陣を組むことになった。見学のわたしは入るべきなのか、出ているべきなのか。みんなが徐々に集まっていくけれど、わたしの足は前に出ない。隣の人の肩に次々腕がかかって、輪っかが繋がっていく。わたしの4歩前でゲートが閉じるみたいに繋がった腕をみて、後ずさりした。そのまま他のクラスの集団に近寄る。紛れた、つもり。昔アニメでみた、石みたいに誰からも気にされなくなる帽子が今ここにあればいいのに。見学するって決めたのは自分なのに、そんなことを考えてしまう。
閉会式の校歌斉唱、そっと振り返って3組の列を見た。一番後ろ、男子のなかでもぽっと飛び出た頭は、10数人の身体の厚みぶん距離があってもすぐに見つけることができた。
戸田さんに聞いた通り、佐藤くんは歌わずに口を引き結んだままだった。でも、その姿からは焦りも気まずさも感じなかった。堂々と、ただ、そこに立っていた。
体育祭が終わった後は、理科室に行った。いつも通りのエアーポンプの音が、まだ頭の奥で響く太鼓の音とみんなの歓声とを上書きしてくれる気がする。その静寂に小さな足音が重なってきた。鳴ってはしばらく止む、また近づいてくる。それを繰り返して、わたしのすぐ横で音は止まった。水槽にそっと触れる学ランの袖、白い大きな手。そこに立っていたのは、佐藤くんだった。
「図書室の帰りに通ったら見えたので」
そう言って顔の高さまで持ち上げてみせてくれた本の背表紙には、「太宰治全集」と書いてあった。去年国語の授業でやった「走れメロス」くらいしかわたしは知らない。
「ザリガニ、これですか」
そう言って水槽を覗き込んだ佐藤くんは、「なるほど、こんなの今日見ました」と笑う。
「そういえば。佐藤真一です」
「中田恵美です」
そう名乗って、お互いの名前すらきちんと教えあっていなかったのだとびっくりする。
「そうだ、なんで敬語なんですか?」
同級生なのに。そう尋ねてみると「癖なんですよね。結構誰に対しても敬語です」とやっぱり敬語で返ってくる。そちらは好きにしていただいて良いですよ、と言われたので甘えることにした。
「ザリガニ以外にもいるんですね」
「こっちがハゼで、こっちはドジョウ」
佐藤くんがイスをひとつ引き寄せて、わたしの横に腰掛けた。イスの足と床がぶつかって一度コトリ、といって止まる。それは「わたしだけの理科室」に初めて他の誰かが降り立ったことを知らせる音だった。
お母さんが台所に立っている間を狙って、居間においてある共用パソコンの電源を入れる。最近やっとADSLに加入してくれて、パソコンの前に多少長く座っていても小言を言われなくなった。勉強しなくていいのとは言われるけど。
インターネットエクスプローラを起動して、検索ボックスに「校歌 歌わない 宗教」と入力する。検索結果のなかに宗教の名前らしき文字をみつけたので、マウスを動かしてその部分を反転。右クリック、コピー。カーソルを検索バーに動かして、左クリック、ペースト。検索ボタン左クリック。今度は検索結果に表示されたページを開いてみる。元信者だった人が作ったホームページだった。騎馬戦には参加できないことも、校歌や国歌を歌わないことも書いてある。
あの体育祭の日から、佐藤くんは昼休みの理科室に顔を出すようになった。最初こそいつも図書室の本を小脇に抱えていたけれど、最近は手ぶらだ。教室からまっすぐ来て、チャイムがなる少し前にわたしと一緒に教室に戻る。
インターネットエクスプローラのメニューバーから「このページを検索」を選ぶ。表示されたボックスに、「結婚」と入力した。
「次を検索」をクリックしようとして、ふと思う。これを知って、わたしはどうするつもりなんだろう。このまま検索を押してしまったら、わたしは。
マウスの左ボタンの上、人差し指を動かすことも下ろすこともできないまま、ディスプレイを見つめ続ける。右下に表示された日付と時刻が目に入ってきた。ああ、明日は図書室に本を返しに行かなくちゃ。今借りているのも、佐藤くんが勧めてくれた本だ。
バケツを流しにセットして、蛇口をひねる。理科室の蛇口の勢いには慣れているはずなのに、今日は思い切りひねりすぎたらしい。跳ね返った水がブレザーのお腹あたりを濡らした。それを手で払う。床にも水滴が散ったので、上履きのつま先でなぞった。水が薄く広がるにつれて、床と靴底が擦れて音が鳴った。キュ、キュ。それを聞きながらバケツをかき混ぜていると、キュ、キュ、にコツ、コツが混ざり始めた。コツ、コツは徐々に大きくなって、止まる。顔を上げると、佐藤くんが立っていた。
「どうしたんですか?」
「ハゼが一匹白カビ病になったから隔離する」
「隔離しないと感染るんですか」
「それもあるけど、病気になったやつがいると、他の魚がよってたかっていじめるように
なるんだよね」
少し傷が出来てしまったハゼを指差すと、佐藤くんは納得したふうに頷いた。気付くのが遅くなって、かわいそうなことをしてしまった。
「それで今日は元気ないんですか」
「元気ないように見える?」
「元気ないというか、荒れてる?ように見えます」
そう言われて、また黒くて重いものが胸にたまるのを感じる。そんなに傷ついて見えるのか、今日のわたしは。
「わたし2だった」
そう答えると、「なにがですか?」という返事。気を使って知らんふりしているわけで
はないらしいのは、昼休みを一緒に過ごすうちにわかってきたことだ。
「野球部がうちの学年の女子の可愛さ5段階評価してたの、知らない?わたし2だった」
午前中の理科の時間、隣に座る女子8番戸田さんの今日の話題だった。なんでも5クラス約100人の女子全員に点数をつけてくれたらしい。どうしてその話になったのか思い出せないけれど、誰が5で、誰か1や2だったのかこっそり教えてくれた。男子とよく話す、明るくてイマドキの子はだいたい4か5、教室の隅っこのほうにいる、スカート長めの子は1か2だったから、途中から聞かなくてもだいたい予想出来るようになってたけど。
「それはそれは」
あまり興味なさそうにいう佐藤くんに、
「そういうのってどう思う?」
と聞いてみた。
「あんまりいい趣味とは思いませんね」
という言葉に大げさに頷いてみせる。
「点数低いと、気になりますか」
こちらの問いには、首を振る。
戸田さんがちょっと気の毒そうで楽しそうに教えてくれたわたしが2の理由は、「オバさんみたいだから」。
点数それ自体よりも、その言葉が堪えたのだった。
戸田さんにそれを言ったであろううちのクラスの野球部の男子とは、2年のときの宿泊学習で同じ班だった。
自由行動のときに、彼が買ったばかりだというカメラ付きケータイを取り出した。レンズのところにミラーがついていて、手を伸ばして自分たちを撮りやすいのだという。それで班のみんなで写真を撮ってみようというまさにそのときに、わたしは「でもそれ不要物だよね」と言ったのだ。
体育の時間に居場所がないのは、結局「運動ができない」からではないのだ。ボールを落として睨まれたって、そのあとでうまくやれる人は石ころにならなくたっていいんだろう。
多分、ここではみんな見えない長縄飛びみたいなのをしているんだろうな、とふと思う。わたしは縄に入るタイミングを間違えてひっかけて、「最初からやり直し」にしてしまう人。体育で本物の長縄したときもそんな感じだったな。
「点数が低いのは気にならないけど、5もらえる女の子になれないのはへこむ」
お前たちの世界のルールは人間より単純そうでいいね、みんな概ね同じ顔でかわいいし。そう言ってアクリルガラスをつついてみたけれど、ドジョウは悠々と水底に寝そべったままだった。
「わたしは人間の社会に不適応なんだよー。地球不適応かも」
「なんですか、それ」
「んー、なんかテンポが合わないから、みんなと」
背中をまるめて、水槽の壁におでこをつける。視界が透明と深緑のあいだくらいの色で満たされた。
「周りに合わせられればいい、ってわけじゃないと思いますけど。無理して合わせても、自分の良いところがなくなっちゃうかもしれないですし」
わたしのいいところ、それってなんだろう。
頭にちょっとだけ振動を感じて、佐藤くんがわたしとおなじように水槽にくっついたのがわかった。
ハゼとドジョウが餌を追ってぴょこぴょこ動き回って、ザリガニはハサミを壁にガチャガチャぶつける。水草が揺れる。ただそれだけの時間。窓から差し込む日が理科室の黒い机と、学ランとブレザーの背を暖めていた。
「神様がさ、人間見てるときってこんな感じかな」
「神様、信じてますか」
神様なんていないほうがいい、そう思っていた。
もし神様がいたとして、どうして人間を作ったのかはよくわからないけれど。今わたしたちが水槽を覗き込んでいるようにガラス一枚隔てたところから食べたり動き回ったり、笑ったり怒ったりする人間を眺めたかったのなら、わたしみたいな「余計」なのは普通つくらない。だからもしいるとしたら、きっと相当性格が悪いのだろう。でも神様を信じている佐藤くんに、それは言ってはいけない気がした。
だから、代わりにうちの学年では佐藤くんとわたしにしか通じないに違いない言葉を続けた。
「私には、わかりませんわ」
私の言葉に思いあたったらしい佐藤くんはニヤリと笑って、机の上に出してあった「太宰治全集」をめくりだした。体育祭の日に理科室に来た佐藤くんが持っていたものの次の次の巻は、私が図書館で借りてきたものだ。彼が借りて、返したあとに私が借りた。今は図書館のカウンター上にある貸し出しカードには、わたしたちふたりの名前が並んでいる。目的のページにたどり着いた佐藤くんの白くて長い指が、ページの上ですべって、止まる。
落ち着いた声の朗読が、わたしが諳んじた台詞の少し前から始まった。わたしはちょっとだけ椅子を寄せて、一緒に本を覗き込む。
「…おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんで
しょうね?」
続く台詞は、わたしが読んだ。
「え?」
佐藤くんが首を少し傾けて、「いるんでしょうね?」とわたしに問う。
「私には、わかりませんわ」とさっきよりも感情を込めて言ってみる。昼休みの理科室で
急に始まったお芝居がおかしくて、ふたりで小さく笑った。
「今の返し方、好きなやつでした」
「やった」
Vサインを出して見せると、また佐藤くんが笑う。ちょっとまぶたのあついややつりぎみの目尻が少しとがった。二重のカーブがきれい。
最近、わたしは佐藤くんの顔がうまく覚えられないことに気がついた。彼がいないところで頭のなかで顔を思い浮かべようとしても、ピントがぼけたみたいにもやがかかってうまくできない。実際にこうやって彼をみると「そうだ、こんな顔だった」って思うのに。
水槽に視線を戻す。いつからかわたしは彼を長くは見ていられなくなっていた。ああ、だから何回会っても覚えられないのかな。
水槽のなかのハゼは、相変わらずわたしたちに観察されていることなんて気にせずヒレをゆらゆらさせる。いるかいないかわからない神様に見下ろされていることに気がつけないわたしたちみたいに。
「佐藤くんは、神様信じてる?」
答えはわかっていたけれど、知らないふりをして聞いてみる。
「うん」
思った通りの答えだった。
そしてそれを聞いてわたしは「なんだかいいな」と思ったのだ。
箱イスに座る背は、学級写真を撮る時みたいにぴっとしている。騎馬戦を見学していても、学年でひとり校歌を歌わなくても、佐藤くんの背筋はいつだって綺麗に伸びていた。
私が円陣の輪に入っていくことも、ひとり外れることも選べずにぐるぐる視線を彷徨わせているときも、彼はまっすぐ前をみている。シューキョーをしている家の子、と言われても、同じ学年の男子達が女子に点数をつけ
ていても、そんなの関係ないって顔をして。佐藤くんのその強さが何かを信じているからこそならば、なんだかそれがうらやましい。そのとき、わたしはそう思ったのだった。
卒業式を明日に控えた最後の「普通の昼休み」。わずかに開いた窓から入る風は、春のまえの匂いがした。わたしはいつになく緊張を背中に貼り付けて佐藤くんを待っていた。彼は毎日必ず来るわけではない。けどもし今日来てくれたなら、言わなければならない、そんな気がしていた。
ブレザーのポケットにそっと指を差し込むと、厚紙のざらつきのなかにボコボコしたペンのあとの感触が混じる。高校入学祝いとして前倒しで買ってもらったケータイの電話番号とメアドを書いた線を、人差し指の先でなぞった。普段使わないラメが入ったカラーペンで飾ったそのカードは、今日佐藤くんに渡すつもりだ。
公立も私立も違う高校を受験したわたしたちは、合否がどうであれ4月からは同じ校舎で昼休みを過ごすことはない。でも、わたしはまだ佐藤くんと話したいことがあった。
足音が近づいてくる。ひょろりと長い足が生み出すその音を、わたしはもう聞き分けることができる。それでもいつも気づかないフリをして、声をかけられるのを待っていた。
「こんにちは」
そう言って彼がわたしの隣に腰掛ける。カタリ、と椅子が鳴った後は、また水音だけが理科室を満たした。魚たちは今日も変わらず泳ぎまわる。昼休みのたびに見つめてきた小さな世界。水槽を見下ろしたまま、わたしは用意していた言葉を取り出そうとした。けど、どうしても出てこない。あのさ、とかだからさ、とか、意味のない音だけが弾けては消えた。
「ごめんなさい」
佐藤くんは苦しげにそう吐いた。
「僕はこれ以上女の人と近づくことはできないんです」
ひどい、最初にそう思った。顔が熱くなるのを感じる。確かにわたしは言おうとしてた。けどわたしが言う前に言うなんて、あまりにもひどい。
「なんでって、聞いていい?」
「約束はしてるので」
「誰と?」
彼は黙って人差し指で天井を指した。
「同じ神様を信じてる人とじゃないと、付き合っちゃいけないから…?」
佐藤くんが頷いた。
わたしは、本当は知っていた。あの日Google検索でみつけた、元信者の人が作ったホームページに書いてあったから。知っていたけれど、知らないふりをして、別のところに書いてあった「人によって違う線引き」の話を都合よく解釈して、彼は大丈夫かもしれないと思おうとしていた。
原則として、信者同士以外の男女交際は禁止です。
あのとき知らなくたっていいことだ、これからも自分には関係のないことだと思おうとしていた、思いたかったその言葉が、今わたしをザクザク切りつけている。
「じゃあわたしも信じる。それで佐藤くんみたいな人になれるなら、いいことだって思うし、出来るよ、わたし」
毎週集会に行って、家を一軒一軒回って布教して、なんてできる自信は本当はなかった。でも神を信じている佐藤くんだからこそ、わたしが「いいな」と思ったのはきっと嘘じゃない。何よりこの昼休みの理科室を、中学校生活3年間で唯一楽に呼吸ができた時間を、このままなくしたくない。
「それじゃダメなんです」
佐藤くんの声は震えている。
「本当に神を信じるようになったら、そのとき中田さんは僕のことを嫌いになります」
じゃあどうしろっていうんだ。
「じゃあ、なんであの日、体育祭のあと理科室に来たの。そのあといつもいっつもここに来たの」
こうやって後にも先にも進めなくなるのなら、あのときどうして一歩を踏み出したの。
次の瞬間、腕を引かれた。二人で床にへたり込む。佐藤くんの掌がわたしの首にかかった。唇がぶつかる。なにを、と言うためにわずかに開けた口の中に、生ぬるい"なにか"が差し込まれた。やわらかくて少しざらついたそれが、わたしの口の中を這いまわる。息継ぎのたびに漏れる「ふ、」という鼻にかかった声は、佐藤くんのものなのかわたしのものなのかわからない。
舌を完全に捕まえられて強く吸われる。いたい、くるしい。こんな佐藤くんは知らない。
こわい。はっきりそう思った。
顔が離れる。佐藤くんは水槽の酸素が足りない金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。何か言おうとしているのか、でも声にはならないみたいだった。
黒板の上の時計が、昼休み終了5分前を指していた。
「チャイム鳴っちゃう。行かなきゃ」
佐藤くんが唇の端だけでほほ笑んだ。ふ、と漏れる息の音。その表情から読み取れた彼の気持ちは「がっかりした」で、わたしは自分が間違えてしまったらしいことを知った。「間違えた」ことがわかっても「なにを間違えたのか」はわからなかったけれど、わたしは佐藤くんを傷つけて、落胆させてしまったのだった。
ブレザーの袖のところにあった指は解けていて、わたしは彼を置いて教室に向けて急いだ。
たぶん佐藤くんにはもう会えないのだ、とそう思った。
ホームルームが終わってすぐに、転げない程度に早足で学校を出た。融けかけて、また凍って、を繰り返した春先の雪が、わたしが足を前に出すたびにじゃり、ざり、と音をたてる。ブレザーの胸ポケット、精一杯キラキラを足したメッセージが恥ずかしくて、情けなくて、今すぐ捨ててしまいたかった。でもどうしてもゴミ箱が見つからない。どこにでもありそうなものなのに。
やっと見つかった、自販機の横に半ば放り出されたゴミ箱に近づいてみる。中には山のようなペットボトルだけでなく、ジュースの紙パックやタバコの空き箱も見えた。それでも、ゴミ箱に貼られた「ペットボトル」のラベルがわたしをとどめた。そう決められているならば、わたしには越えられない。どうせ分別などされずに燃えるごみの日にまとめて捨てられているかもしれないと思っていても、わたしは入れられないのだ。それがわたし
なのだ。
それでも風に混じる春の匂いが、胸の奥から沸き上がってくる何かが始まる期待が、わたしに何も諦めさせてくれなかった。
次の春には、きっと、今度こそ。
今この瞬間は特に意味もないことをめちゃくちゃに叫びたいし、どこもかしこも痛いし、消えてしまいたいけれど。それは季節が一周するころには融けて薄れてしまう気持ちなのだろう。
そうやって何も変わらない、変われないままわたしは次の春を待つ。
今のわたしにとっては絶望的なこと。
でも、それはこの世では希望と呼ばれているものなのかもしれなかった。
中学を卒業してからも、あの日Google検索で知った宗教の名前を目にすることがあった。高校の公民の教科書、大学の日本国憲法の参考図書。なんだか面倒そうだなあ、わたしは何の思想信条もない人間でよかったのかもなあ、あの日の熱が通りすぎた今、率直にそう思う自分がいた。
それでも騎馬戦を遠くからみつめていたすっと伸びた背筋と、あの日ほんのすこしのあいだ触れた指のことは折に触れて思い出していた。 mixiに登録したとき、facebookを始めたとき、ふと思い立って検索バーに名前を入れてみたけれど、それらしきユーザーが見つかることはなかった。
彼以外の「信者」さんと関わる機会を得たのは、大学を卒業して一人暮らしを始めてからだった。2ヶ月間の新入社員研修が終わりに近づいたころの休日の夕方、滅多に鳴らないドアホンが鳴った。モニターに映っていた、彩度が低めの服を纏った女性が口にした名前をきいたあとでは、「結構です」も「興味ありません」も口にすることができなかった。
何度目かに訪ねてきたときに、彼女は一度世界が終わったあとに訪れるという「楽園」の絵を見せてくれた。緑があふれ、花が咲く中でみんなが笑っている。ライオンも、シマウマも人間のすぐそばでくつろいでいた。
「楽園には十分な食糧があって、病気になることもないし争いもないんですよ」
ライオンにも食べられることがないから、すぐ近くで暮らせるらしい。
あの日彼が破ることができないと言った、天のうえにいるだれかとの「約束」のその先に待っている世界。それぞれが好きに生きて、そばにはいるけれど争いはない。誰にも、何にも、傷つけられない。
ああ、そうだったのか。
平気だったわけじゃなかったんだ。
何も怖がらなくていい世界に行きたくて、でもそれを待つためには普通の人よりもっと傷つかなくちゃいけなくて、揺れていたんだ。アクリルガラスの向こう、私たちとは違う速度で動く世界を眺める20分間は、佐藤くんにとっても日々をやりすごすために必要な時間だったのだろう。
あの頃のわたしは、そのことに気がつくことができかったけれど。
すこし埃が積もってきた玄関収納が目に入る。消臭スプレーと防水スプレーが並べて置いてある。引っ越した当初は何かインテリアでもおこうかと思っていたけれど、結局そのままだ。
「ザリガニでも買おうかな」
そう口に出してみる。でもきっとわたしは、これからもここではザリガニもハゼもドジョウも飼わないのだろう。
佐藤くんはまだ神様を信じた先にある楽園を待っているのだろうか。あのころみたいに綺麗に背筋を伸ばして、誰かの家のインターフォンを押しているのかな。
彼にとっての優しい場所を見つけてくれていたならばいいな、と思う。何もかもが一度終わったあとでなく、この世のどこかにそれがあったならいいのに。
あの日理科室の水槽の底に置き去りにした砂利みたいな気持ちが、胸の奥で今さらコツリ、音を立てた気がした。
あの日の水槽 ウラサワミホ @miurasawa
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