第13話お前の妖怪アンテナ(最終話)


 街で人の会話に耳をそばだててみれば、ことのほか世の中の人間はフィクションの中にあるような不思議な挙動をしながら会話をしているもので、人格というものは大変フィクションの影響を受けていて文化的である事がわかる。つまり俺は森井夜鶴が倒れている間に少女漫画やメロドラマを観て女の子というものを勉強しなければならなかった。それで人間の本心というものが測れるのかはわからないが、それは次の課題である。


 そう、とにかく人格なんてものは鶏と卵のような文化的なミームである。それらは収斂されてイデアとなり、アーキタイプとして類別されるのである。現代人が望むスマートな生活のデファクトスタンダードが型通りで何を驚くものかというものである。それが人間が生きていくための便宜性である。いまや人格も韓国の整形文化に等しいのだ。


 しかしコンテンツ溢れる現代社会、どのようなコンテンツからつまみ食いをしたものか、教養を深めていくべきかは実に悩む。つまみ食いする文化圏の中で人格が培われるとして、どのような文化圏に偏っていても人格としてのリアリティは得られるであろうが、森井夜鶴という存在としてのフックはどこにあるべきだろうか?女の趣味は彼氏に影響される、などと言うからには俺の好みで良いのだろうが、受け身で生きてきた人間である手前、人を能動的に作り上げてやろうとか、“こうであって欲しい”というのは別にない。俺は他人に対して興味がないし、他人というのは他人にとってねじ曲げるものではなく、自分自身にとってさえ“仕方ないものである”としか思っていなかった。森井夜鶴としての仕方なさとは果たしてなんであろうか?こう描くといかにも生きることが残念なものであるかのようだが、事実そうなのでしかたがない。


 ここでちょっと脱線して教養というものについて語るが、教養というものは物事の幅を決めない概念なので、別にガンダムでも教養なんですよねというか、そういう枝葉末節の文化理解自体を指すものだ。つまり教養というのは無限であり、教養ハラスメントというのも今後あり得るであろうな、などと思う。そもそも文化間で互換可能な語句を見出すことで互いを理解出来ることが教養の意味だと思うので、より専門的でその事象特有のものとなっていくと今度はお互いの人間理解の部分で足を引っ張るし、博士にでもなるんでないなら、広く浅くが教養でいいんじゃないかな、なんてことを思ったりもする。たとえばTwitterなんてものは広大な世界に対する、とてもツマミ食いの文化であると言えた。世界というものはより広大になってくると、専門的であるよりも雰囲気で理解できる知性の方が大事になってくる。法則性を見出したり、抽象的な理解力としての知性だ。若年者の流動性知能が年々上がっているというという話があったが、それも適応的にそういう知能が形成されているだけであり、将来性のある多様性の一つかどうかつーとわからんし、功罪として地に足をつけた実体としての自信に繋がるものはナニ一つ得られないのではないかとも考えられる。しかしそれもまた、常識ともなればもはや時代遅れの劣等感なのかもしれない。


 そもそもとして、自信の正体とはなんであろうか?自信など根拠がなくても良いものだなどというが、その正体は、明確に“在る”。たとえば男の自信とはモテである。モテというのは見えないし実態がないが、それを感じている時は、例えばそれがより多くある時よりも僅かである場合の方が意味と価値を生むものなのではないか、などと思うものである。モテとは自分の文脈に根ざした縁を結ぶ力のことである。であるからには、恋愛指南に従って表面的なモテをガワから繕っても板についた自信は生まれない、というのが俺の持論であった。人は縁を結ぶことで可能性を広げて生きていくか弱き社会性動物だ。即ち自信というのは運命に対する自信であった。それは運命力とでもいうものであり生命力である。結果論的ではあるが、縁の切れ目が命の切れ目である事には間違いないのだ。自殺する人間は運命力の無さを先に悟って狂気に陥り、現実の結果とその観測結果とを逆転させているだけで、自殺者が死んでいる限り、救えた自殺者など無い、というのが俺の見解だ。モテが自信に繋がるのはクズな生き方でも可能性に繋がるからである。ネットワーク上の、俺の実態を知らない上っ面の異性からの興味でだって、最近の俺は肌艶が良くなってしまった。ようは自分自身にいかに錯覚できるか?、であるかもしれない。しかしそれにしても、運命の女などというものは取り立てて探すべきものでもない、というのは坂口安吾に同意するところだ。自信が自信足り得ている縁の繋がりの余剰を、自ら狭めるからである。それも老年となりコンパクトな生活を営むにあたっては大事な作業かも知れないけれど。


 少しまた話を脱線して、人は何故ギャンブルにハマるのか語っておく。ギャンブルにハマるおじさんは、心根の本当のところでは、運命に類する自信に飢えているんだろうと思われる。かつてあったもので、自分のわからないうちに手離してしまった運命の残滓を賭け事の中に見出そうとしている、そんな気が俺はしている。或いは運命などなかった、という結論であれば、それはそれで清々とするのだ。そうしていつまでも結論出ぬままサイコロを振る。お馬さんに賭ける。まさに人生である。愛なき者は、まだ生きて良いのだとせめて運命に認めて貰いたいのである。その後の風俗などはきっと格別であろう。自分に何か根拠を持つものを積み上げて勝負する体力自体は無くしてしまった、というところがポイントで、或いは人の無力を確信しているならば、哀愁ですらなく、脳死であった(株にぶっ込んでいる俺しかり)


 だいたい世の中に世の中を計算し尽くせる人間など土台いないのであり、理路が大事なのではない。意志の方向がブレていないかである。時に時代は誤ったもののまま真となる。人の鏡であるからだ。要するに考えたところで仕方ないのである。完全なるものはお前の役目ではないのだ。不完全性こそが、死の才質こそが本当に人に与えられたものだ。それが神に与えられたものだ、などと俺は言わないが、なればこそそれを大事にするべきである。


 べつにきっと、すべての望みは許されるだろう。フィクションが包括する現実、現実が包括するフィクションの中、どちらででも。現実なら危ういなんてことは本来ないのである。生きていることが常に危うい。叶わないのなら受け入れていないだけである。森井夜鶴を倒れたままにしているのも、きっと俺が受け入れていないからである。しかし大丈夫である。人の願望で富が築かれていく限り、世界の富は増大する。技術特異点ともなれば、寧ろ人の感覚の方の特異点を突破することの方が難しい。全体量でいえば、富は相対的な物ではなく、絶対量として増えていく物であり、たとえば現代の最低辺の生活保護の人間の生活水準だって、縄文時代からすれば王族ぐらいの暮らしなのである。それは極端に素っ頓狂な例えだけれども、本来ならば俺だって平然と生殖にトライしてもいい(決して貧乏でもないし)とにかく、時代に対して相対的に増えていればいいのである。つまり富とは殆ど個人の無能を覆い隠していく技術革新のことであり、俺たちが何故か生きていることがその証明であった。学歴など人の承認欲求が生み出した飾りに過ぎないのであり、もはや実利としては無用の長物であることが殆どだった。博士号を取ったところで中小企業にそのアタマを使いこなす知恵がなかった、などという悲鳴は世界中で上がっていた。人の願望の要求水準の方が実態にかなっていないのである。それでも数字が欲しいならば与えてやればいいのだ。物事の真の価値というのは固定資産にではなく流動資産、もっといえば流動性にあるのであり、世界を停滞させてしまうことこそが悪であった。ビットコインでもなんでもいいのである。いや、本当に別に森井夜鶴が寝ている間に考えることではないのだが。


 俺は無駄なことを考え続ける。Twitterのタイムラインに、「形とはエントロピー抑制の様態であり、不均衡のことである。形を作るというのは不均衡を作ること、不均衡に意味を見出すことである。」という言葉が流れてきた。事実その通りである。形とは秩序のことであり、秩序に基づく意味の形成、或いは意味の形成からの秩序の形成、この連なりを生命と呼ぶのだった。そして魂というのは秩序的な連環と縁の中で可能性の収束したものである。自意識、魂という中心に向かって収束があるのではなく、導きによりたまたま出来上がった中心が魂なのである。世界の欲望の形質としてそこに完結したものであるとも言えるかもしれない。しかしそこに出来上がった「1」という概念は、これは数学上のものであっても架空のもので、完全なるものではなくエンタルピーの余地を残していた。宇宙の最初単位を考えても「1」という絶対的な概念などなく綻びがあるから我々のエンタルピーは保証されて生と死があって循環されていくのである。何を言っているのかわからないであろうが、我々が「1」としているものはもしかしたら「1.003968」ぐらいであるかも知れなかった。準結晶ではないが、三次元的に収まるにはちょっと余分があった。愛とはその余分の処理に困って押し付けることかも知れず、静的な完成ではなく動的な完成として世界があり、結果論的にでもそれを十全と認めるところにしか心の安寧はないのであった。それも立場の問題でしかないのであるが。そういう訳で全てのものが全てのものの因果であり因果によってできたものには違いない。意味があるなら、それは誰かから与えられ、受け取った作為の因果を肯定しているに過ぎなかった。我々の生命は与えられたものに過ぎない。どんな執着も、与えられたものをありがたがっているに過ぎず、しかし受け取るものは選べるものだ、とも言えた。果たして俺たちは目を節穴にしてすべての与えられた物を無視して生きることができただろうか。この小説は一体全体、“生命”足り得て、何かを与えるヒントになるであろうか?マクロではなく、一個の人間の人生と意味たり得ただろうか。物語は終わる。森井夜鶴を、そろそろ起こそうと思う。結局、少女漫画は一冊も読まなかった。


「森井夜鶴、ネコミミのカチューシャを買ってきた。一目見た時から君に似合うと思っていたんだ」


 俺は倒れている森井夜鶴に猫耳カチューシャを被せた。これにて猫耳人間は完成した。猫から作り上げることはできなかったけれど、これで良い。猫から作り上げたところ、押井守の、戦車の形をしたものは戦車の自意識を持つのではないか云々の話を二番煎じにやらかすだけだったからだ。俺はものすごく虚飾で出来た人間なので、インターネットという外部記憶装置無しではこの作文で見せている知性の半分以下の出力しか出せないのである。世間のアカデミックな論文だって脚注はあるので劣等感を覚えるのはおかしいのだが、人は実力以上の知性を備えて果たしてナニになろうというのであろうか、と思っていた。


 「おはよう、森井夜鶴」


 「目覚めが悪いわ。意味がわからないわ。本当に」


 「真面目な話、セックスは社会性と同時にパッケージングされたものであることで社会帰属としての契機、イニシエーションになり得るのであり、脱童貞しただけでは本当に意味がない。無頼であるならば恥であるというか、関係すらない。獣として放逐されてしまえと思う。だから俺はお前の寝込みを襲うのは止して、お前を獣にしてみた。どうか?」


 「…どうか?、と言われても、寝込みを襲わないとかいうのは常識以下の常識ではないかしら。思考がエキセントリック過ぎてついていけない(にゃん)」


 猫耳カチューシャには人の語尾にニャンを流すスピーカーがついていた。森井夜鶴はキレてカチューシャを投げつけた。猫耳人間、終了である。


 「人生に期待するものは何もないのでセフレを作ろうとかなったら、それこそ俺が見下す獣と一緒であるのだが、正しくは自分の、セックスしても得られないかもしれない社会性のなさそのものの方を恐れている。万一愛があったとして救われないのなら、何に救われるのであろうかという話になるのである。俺はどうしたらいい?森井夜鶴??」


 「知らないわよ。少なくとも私と関わらないで生きて欲しいわね」


 「これは俺の新しい童貞理論なのだが、本気でオナニーするとオナニーするたびに運命の糸が一本切れると思う。身体が成就と錯覚してバグるからだ。だから間違っても本命でシコってはならない。或いは意識してないようなヤツと結ばれなくてはならない。俺の中の童貞との約束だ。俺はまだお前で一度もシコっていない。これは可能性を考えても良いのではなかろうか?俺のチンコの妖怪アンテナが言っているんだ」


 「私との可能性を感じないでくださらないかしら。というか近づくな変態」


 「そう言わないでくれないか?異物を緩衝することそのものが社会性でありダイバーシティ。社会性というのはレールに従うルールの方ではないのだよ?」


 「本当にしゃらくさいなコイツ。女がNOと言ったらNOなんだよ。これは水戸黄門の紋所みたいな話よ。炎上させられて総スカンになりたいのかしら」


 「童貞として俺は思う。童貞は童貞をセックス単体で見るからおかしいのである。たとえばセックスというのは寿司の中であればガリのようなものであり、温泉旅行などとパッケージングされて初めて意味のあるものになるのである。それ以外はセフレのセックスか日常の惰性セックスである。何が言いたいかというと、包括されているものの部分を拡大しても何も意味がない、ということである。そしてそれを“ワカ”ることにも、何も意味がない、我々の人生はどこまでパッケージングされればいいのだろう。ネットワークの中で補完され合うものの中にしか強い絆もリアルも命を生かすものもないんだ。でもそもそも俺はシガラミが嫌いなんだよ。どうすれば良いと思う?手のひらを返すようだが、セックスだけのセックス、すごく気軽でいいと思わないか?セックスしてもお互いにまだ好きになれそうだったら付き合おうぜ?ぐらいがリアルなのじゃあないかい?ええ?」


 「本当に話を聞かないやつだなこいつ。トキオカさん?私まだ出番が二回目くらいなんですけど?マッチングアプリの常識としても出会って三回ぐらいのデートは重ねるものよ?」


 「では握手から」


 「無理があるわ。歳食った人間の男女、駆け引きなど無駄だというけれど、1ミリでも若かりし野生が残っているなら勘に従うべきなのよ。歳食ったら勘が死ぬから駆け引きすんな、ってだけの話よ。あと寝不足とか労働が人を不幸な選択に導く。間違いないわ。貴方疲れてるのよ。疲れてる生き物に魅力などあると思いまして?」


 「俺を疲れ果てたヤバい奴だというのなら、“普通”に引き上げてくれよ。お前の“普通”を見せてくれ。異物扱いされてきた手前、この後に及んで異物扱いされると傷つくんだ。助けてくれ。若い子がおっさんと付き合うメリット、若い子が同年代と付き合う以上におっさんの中の変え難い何かが救われるかもしれないというおっさんのメリットはわかるだろう?俺だって若くて美人と付き合えたらそら一時的に自分の中の何かが救われるかもしれない。それがどれだけ持続性のある救いなのか、付き合いが長きに渡って特別なものになっていくかは、若さだけではどうにもわからんが、後生だ」

 

 「貴方の劣等感のお守りはできないわよ。貴方、私に興味ないじゃない」


 「君はどう考えても興味があったじゃないか」


 「ちょっと前は珍獣レベルの話としてね。今の貴方は怖いものでしかない。私は私を通じて誰の話をさせられているのかしら?」


 俺の世界の深刻を知らないで、そう息を呑んだ所でシャッターは降りた。そうして俺は、森井夜鶴にフラれた。


 かつてサルトルは言った。

書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。と。


 俺は思うのであった。喋るのが苦手だから書き文字に逃げるのは良いが、コンプレックスはちゃんと自覚することだと。でないと慢心が酷いことになって自分の世界が全てになってしまって想定以上に人間を下に見ているとかいうことになったりして、結果乖離していくのだ。実世界とバランスをとらないとダメなのである。なんにでもレベルというものはあって、逸脱は不幸な人間の象徴だった。


 俺は生活の中で自分に勝手に求めて多分に長じた理性そのものを忌まわしい劣等感として身に刻むこととなった。それは俺の全体であった。もう一生、理性だけを愛して縮こまって世の中に出なければいい。俺は、試合に出る前に全力で疲弊して、頑張ることが報われない八つ当たりの忌まわしさにエラーしたのである。それが恋でもあった。きっと心根から間違っていたのである。俺の理性は、まったく肝心なところで他人と自分の違いを認めない狭量さそのものであったし、そのように現れた。普遍性を擬装した我に過ぎかったのである。人は傷つけたものこそを愛するなどという言葉があるが、俺に於いてはそこで愛に覚醒して過ちを挽回することに尽力しようとすることすら彼女にとってはもはや苦痛だったのである。なにはなくとも炎のように愛たらしめようという決意は、決意と覚悟が愛なのだという俺の重さは、或いは過ちに対する罪の意識の執念は、まったく彼女の事情というものを知らなかった。或いはだいたいは知っていた。彼女は決して聖女でもなく、彼女の正しさの中で生きるだけなのであったが、その侘しさについて、俺はどうしても認められそうになかったのだった。きっと謝れば謝るほど、それは憎しみの皮を被った何かであった。俺は自分の軽率さに対して、命を譲ろうとさえ思っていたからだ。それはまったく逆転していて行き過ぎていた。自分の覚悟だけで、世界全部の責任だってとれる気でいたのである。結果取れないことを悟り、取れる気でいたことの責任をとって自害した。たいへん軽んじている嫌いな上司に仕事の失敗で筋を通せと言われたのもあったのだ。受けるストレス全てに筋を通すにも自害するのが適切であった。他人(上司)への小さな嫌悪感と憎しみが、俺の死の後押し足り得た。人は嫌悪感を持つものには寧ろそれを肯定せざる得なくなるのやもしれなかった。あらゆることを深刻に捉えざるえなくなるナーバスな真面目さは、しかしそこに至るまでの経緯で、自分が不埒さを多大に積み重ねていたことを存分に承知していたからである。そして俺は隠キャによくある話、インターネットの表面ででも不埒であることで生命の野蛮なエネルギーを自分に取り込み、カラ元気を出して誤魔化そうとしていた。自分がソレで現実のブランディングとやらに失敗したのにも関わらずだ。そして現実のコミュニティの中で何も繕うことができないまま、止めたくても止まらない修正できない日常と生活の痛みに、辞表の書き方も教えてくれない総務部に、嫌いな上司という蚊の羽音でも十分に死に足り得たのであった。先人が汝の敵を愛せよだとか、人を呪わば穴二つとかいうのはその辺りからであった。俺も一度死んだからには場末のラッパー並みに万人に感謝しながら生きなければならない。


 俺は相手の胎内の事情を考えるという発想がない自分自身と、狭い世界の中ではあったがその時の限界の世界で森井夜鶴にフラれたトラウマを、生涯忘れない。俺の覚悟は不倫に負けた。産む気がどっちかわからない以上、俺のストレスで流産したなら殺人であった。俺には人を愛する資格はやはり無いようである。世を捨てるしかない。なまじ清くあろうと観想ができる気であるほど、最小限の労力で人はよく呪われ、スペランカーのように死んだ。それはもう死ぬべくして死んだ。物事を平静に観れる、観想が出来るなどという自負は悪い結末に対してもそれだけの責任を帯びるものであるからして、悪しきに働けばその邪悪は必定である。せめて自分がダメな時があることをも観想するべきであった。どんなに心を落ち着けようとしても状況がダメな時はダメであった。寧ろ取り乱しに取り乱していた。或いは悪い女を愛するならば、悪を飲み下す度量を必要としたのである。悪というなら例に漏れず世の中は百鬼夜行の邪悪の大行進であったが、それが一体なんの慰めになるというのか、俺の痛みにはさっぱり分かりはしなかった。できることなら愛というのがそれまでのものが善でも悪でも破壊するビッグバンならよかったのである。ようは子供を作りたかった、という話になるが。たとえば善悪が社会の常識に依存する流行り廃りの観念であると小理屈で理解していても我々に染み付いたものは落ちる訳がなく、とにかくなんであれリセットされたものを生み出せるというのはまさしく世界の希望であり、世界が更新されるダイナミズムに触れる瞬間であり、愛といって差し支えがなかった。俺たちは性根、人間と人間社会を凄まじく嫌っていて、自分の人間というものにも飽いていたからである。それが胎内でどんな夢をみていたとしても、それは世界に対して無垢であろうと断言する。それは善であるとか悪であるというより聖なるものだった。そういう概念として設定する必要があった。俺たちはゼロに焦がれていた。ゼロから生まれゼロに還るのだからゼロでありたかった。決して女という対象を俺は見ていなかったのかもしれないし、ゼロこそが母性だと言えた。


 しかしそれにしても残念なことに、俺の魂はこの瞬間に不滅である。自分を供養するなら自分でするしかない。俺の魂の不滅は、後にも残るとかそういう話ではない。ややこしいが稀にある話、たとえ後年に誰かが俺の記憶を読み込んだところで俺を前世と思わずに勝手に生きて欲しい。前世などというものは人間のアイデンティティが記憶に依存しているから錯覚するだけのくだらぬ与太話である。そんなことを言ったら俺の記憶を読み込んだ数の人間だけ俺が増えてしまう。大川隆法だって俺になってしまう。それはごめん被る。たとえ臓器が移植されて性格が似ても貴方は俺ではないし、性格を似せたいなら腸内フローラでも取り込んで欲しい。俺は確かに「この瞬間にも永遠として死んでいる」し、「俺の罪は俺の罪として誰に語らなかった所で永遠にこの瞬間に残る」のである。因果として。因果として取り返せるものなどなにもない。であれば、俺を憎み続ける俺が子供など作ろうが作るまいが変わりない。俺が俺を形とせしめた愛を無駄にして、次の形を作らなかった。それだけの話である。それでも生きていると言ってなんの差し支えがあるものか。客観的な生など何処までの連続性と因果を切り取るかに過ぎないのである。永遠を望みたければ永遠に呪われた印として、バタフライエフェクトの蝶の羽ばたき並みには生きているのである。逆にそれは死んでさえ死にたくなる話であった。さてあくまで生が個人的なものだと主張するとして、意識があるかどうかなど、俺にしか関係がないのだ。脳波を測った所で俺が哲学的ゾンビではない証明など誰にもできないのである。生きているうちから、ハナから他人にとって、俺が生きているか死んでいるかの判定にはまったく関係がない。俺だけにしか俺の死は認識できないのであり、とどのつまりそれを認識していない貴方方の中では、迷惑な記憶の引き出しの中か或いは無意識の中、なにかの連続性として俺は生きているのであった。或いはそもそも初めから生きてなどいなかった。これは坊主も禿げるトンチであった。要は雑には主観で捉えるか客観で捉えるかの話であるが、釈尊が霊魂というものを否定しているのに寺の坊主が供養をするのは生きている人の中で生きている何かの為である。客観で捉えれば全てのものは確かに永遠に生きていた。意識というものを刹那のうちに死滅させ続けて生きていた。まったく忘れないで欲しいのが、本当の生とはこの瞬間の貴方の意識の点滅の中にしかないのである。三つ子の魂百までというのだから百歳までは点滅している。秒間7回の電気信号だ。当たり前過ぎて読者を小馬鹿にした話なのだが大切にして欲しい。来世などない。死を忘れるな。電気信号の行き着く中心など知らぬ。在るだけの瞬間が全てである。


 とにかく人間の魂を仮に自我とするなら、それは複合的かつ矛盾を孕んだ組織的なものであり、自我という組織の全体が大きくなればなるほど例に漏れず腐っていった。およそ人間としての形をとるのであるからして人間の形としての満足と環境を得れば良いだけの話なのであったが、大きくなり過ぎたソレに対して現実は蛋白なものになってしまったのかもしれない。制御できなくなっていた。さしあたっての人生は人間をやることだけなのに、それができなかった上に人間以上のものを求めていた、という話なのだ。ただ“在る”ということに対する矜持の問題で。そして自分という存在が矛盾を孕む以上、必ずやこれからも選ばなかった感情や選択に対して言い知れぬものや供養できないものは発生し続けるのだろうし、良かれ悪かれ、悪夢を見ては目覚めたが如く人を動かす動力であり続けるのかもしれない。悪夢が摩耗するまで、自分の中の小さな悩みの中でジメジメと生きていくしかないのである。誰も自分の郷愁とは一緒に自殺してはくれないのであった。そして終わったものに頓着し続ける行動というのは兎にも角にも愚かになりがちであった。それはものの余韻以外に存在のよるべがなかっただけなのかもしれず、確かに不幸なことだと言えた。そういう虚無が果たして人の深みを醸成するのかどうか、俺はよくわからない。ハタからは大いに迷惑な人生をやっている。


 そうしてつらつら考えに考えながら重ねて思う。理性というのはもっとも人の残酷さをコーティングしたものであると。それは殆どの場合に於いて動かない言い訳、悔恨に縋る怠惰さ、自分に対する甘さなのである。人は動かない時は頭で考える。その内、動かないでいたくなるものなのだ。人間は長期的思考を獲得することが生存に有意に働いたが為にそれが他の動物にはない心である、などと考えるが、たとえば心の有無によって動物と人間とでナイフで刺した際の痛みに違いがあるかと言えば直感的にそんなことはないことが理性的にわかるわけで、その上で他種族をきっちり自種族とは区分して、極めて理性的に殺して食べるのである。これは人種間の闘争でも現れた。きっちりと理解できれば理解できるほどに心なく残虐である。長期的思考の為に平気で他者を奴隷にできた。ゴリラの方が相当に上等で心がありそうなものである。ちなみに魂に続いて心などと類似の概念を持ち出して今度はナニが違うのかと問われれば、驕りの度合いが違うと答えるだろう。魂などと言い出す奴は、総じて心を語る奴よりもさらに度し難く驕っていた。


 さて終わりも近づき冗長に悪文駄文に拍車をかけて魂について蛇足を続ければ、確かに死の季節である冬の語源は魂が「ふゆる」ことに由来するし、ウィジャ盤で世界で同時に霊を呼び出してどっちが本物かとか、実在しない人の霊をも呼び出せるのは未来や平行世界の霊をも呼び出せるからだ、いや霊とは場の記憶だ、などと、あやしい話は沢山知ってはいるが、人が転生するなんていうのは本当に詩情の表現に過ぎないのである。ニーチェの永劫回帰にしても、無限回同じ人生が再現されるならば人生が一回性のものであるという結論になんの違いがあろうか。俺は無限回繰り返す中の二回目の生とやらにも同じ魂を見てやらない。とにもかくにも、そこまでの話はまったく世に混乱を極めるばかりで胡乱過ぎてもう語り切る自信がなければ、専門でもなかった。娯楽としてはハチャメチャに楽しいだろうことに想像難くないし、誰かの願いの真実であるところに疑いはない。


 老婆心として最期になるが、私が私の全体として掛かる悩みなりに、なんだかんだで指標に困ったら、血に聞くとよい。

たとえば男のY染色体を男の魂の根拠だとして、奇跡的に常に男児を産み続けた場合には限界で四十世代ぐらいまで男の遺伝子は“生きている”であろうというのがその筋の人の話である。つまりかなり雑に男というものを解釈して、強いて男の魂というものをすっ飛ばして嘯くならば、それはY染色体がどんな女が好みであるか、どんな女を愛するかにある。男女に裸の写真を見せた際、有意に女性だけが男の裸だけにではなく女性の裸にも欲情(と、同じ脳内の信号)を観測したそうである。つまりは女の中には男の魂、陰中の陽がある。女は自分の身体に欲情するものであるとはよく言われるが、まさしくその通りなのであった。とどのつまりは男なんてもの、女のオーガズムの為のデガラシか出汁であり、女の美しさをコントラストとして引き出す為の添え物に過ぎなかった。よしんば男を美丈夫と愛でたところ、持て囃されるは中性的なジャニーズ系、陽中の陰が愛されるのであった。男というものは美に対する欲望の装置として以外はまったくの役立たずの付属物でしかないのである。そんな魂でも有り難がるなら有り難がればいい。女だって自分の中の女である女からは、それが気に入らぬものであれば逃れられぬので悲惨である。どっちもどっちだ。

なにはともあれ、我々は生命を母として、魂を父として生きている。知能は母方から遺伝されるらしいので、もしかしたらば男には何もかもなくほとんど全部が女であるかもしれない。魂などカブトムシの角のような余分である。血は争えないではなく、争うものが血なのであった。欲望は形であり、形は欲望である。さらには欲望によって欲望は欲望たらしめられていたし、世界がまた花開く余剰のためには、なにが正しいか正しくないかではなく、その欲望の求める刹那の中にしか形の美しさというものもなかったのである。


 さて歴史が墓場であるように、この小説に記すものは全て死体か脱殻である。ここに反知性主義と実践の必要性が問われた。ブルース・リーは考えるな、感じろという。書を捨て、街に出なければならない。ならない、と、思う。思うのだが、玄関より先には、正確にはハローワークには、自分が不埒さを肯定されたまま社会人となる場所などないのだと絶望したがために、おかしなものになったかのように動けないのであった。


玄関玄関玄関玄関玄関玄関玄関玄関玄関玄関玄関




ー完ー

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不死身ちゃんのエンディングノート ひとはし @yomotu4kome

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