第12話君と響き合うR PG

 雨が降っている。森井夜鶴は倒れている。




 俺は何を騙るかが知性で、何を語らないかが品性であるというなら、確実に品性の欠如した文章を書いている自信がある。誰も得しないから語らないもの以外に、俺が開拓できるような青い野原がどこにも残っていなかった。


 女のことなんて結局はわからないので、男性のつらさ問題について語ろうと思う。男性の不幸、自己管理能力の欠如、自愛の足りなさ、セルフネグレクトは、たとえば女性は若く早いうちから生理というものをもって自己の本質を見つめてメンテナンスをする教育的なベースラインがあるのに対して、男にはそれがなく、わからずやであるからだと言えないだろうか。俺は屋号を「わからず屋」に変えるべきなのかもしれない。というか男性の、という主語は正しくなく、俺の辛さ問題はそうだった。


 生きることの根本的苦しみとはなんだろう。俺は自分が誰に頼まれるでもなく生きていて、誰かの似姿だという部分を求めて、誰かに対しても誰かの似姿であることを求めているし、人と人の魂は響き合っているのだ、ということをどこかで信じたかった部分はやはりあるのかもしれない。たとえば持論をぶち上げるなら、ユングの集合無意識を発展させた仮説として、世の中には幾つかの震源地となるペルソナのアーキタイプがあって、似たようなペルソナや隣接するペルソナが輪唱するように共振し合っているんだと思っていた。それはインターネットの水面下にある現実のネットワークで、仮想の方で認知するのはラグだといえるのではないかと思っているし、差別とニアイコールのものとして、人は人を類型で見るバイアスが確実にあって、それはもう人間の機能であるからして、人間を排斥する以外に差別を撤廃する道はないだろう、くらいには捉えてもいた。そのくらいに人間を理解していたらば、もう逆に俺の苦しみというやつはそんなにはないのではないかとも思える。


 個々に責任というのは追求されるにしても、我々は誰かの似姿であるのは間違いがない。感情なんてものはミラーニューロンを経由して体得された影法師だ。誰かの言葉を真似て、俺の言葉を吐いている。であるからには、似たくもなかったけれど似てしまう後続の人に少しは配慮せにゃならんのだ。魂なんてのは本当にバトンレースなのだろう。量子力学的に説明すれば波みたいなものだ。量子力学では波が物質で物質が波なのだが、じゃあもうどの程度の振幅を魂とするかなんて人それぞれなんじゃなかろうか。文脈とダイナミズムの相似でみるよりない。書いていることわからないけれども。俺が俺を責任放棄することは、俺と似たような人間に対しても責任放棄すること、信用を落とすことになる。この世はたぶん魂の団体戦だ。死んでしまえばそりゃあ俺が日頃から口すっぱく言っているように誰とも関係なくなるけれど、他人の話でも胸に思い当たることがあるならば、それは現実としての正しい認識で、そうして事後的に気づくしかないのが人生で、自分でやったことの思い当たる尻拭いは自分でしなければならなかった。それも全部の処理が追いつくものだなんて思ってはいないが。だいたい他人に対するありふれた共感を、自分の実際の因果として問い詰めれば、そら気狂いだ。誰の話をしていても自分の話に持っていってしまう人いるよね、解決方法もわからないけれどさ。とにかく思い当たる節、節というのはエピソード、つまり読める文脈があるなら内省すべきではあった。過度に文脈を読み取ってしまうのも、それは病気であると言われてしまうのは承知である。他人のストーリーラインを無垢に信じてしまうほどには俺はバカなのだ。或いはバカであることで問題を先送りにして引き伸ばしていた。


 そんな様であるからして、自分が唯一無二のオリジナルである、などというのはとんだ驕りなんじゃないかと思えた。たとえば俺と似たようなやつは、俺のような苦しい生を、べつに正しいとか正しくないとかじゃなく、好き好んででもなくとにかくやってきたのだろう。そういうつもりでなければ、この先歩めない気がしてならなかった。何より“絶対の存在としての孤独”なんてものを確信してしまっていたら、ナニをしでかすかわからないという怖さがあった。それは俺が袖触れ合ってきた人々を侮辱するようなことで、むしろ侮辱してやりたいならそれでも良いのだと言われるのかもしれないし思うのかもしれなかったが、確実に悪かれと思って存在してきた人々ばかりではなかったし、同じ宇宙でやってきたというだけでも讃えあうべきブラザーなんじゃないかと思ってはいた。それだけのことでいちゃいちゃと馴れ合うつもりもなかったし、仲良くなるのも限界があったが。当たり前であるが俺には全宇宙を肯定できるようなパワーなんてものはなく、自分だけでも肯定してやることが、今は仕事なのではないかと思っている。誤解を招かぬように前置きを置けば、俺は宗教的抽象解釈の合理性にも一抹の光を感じてはいたし、それは昔の人の心理学ではあったのだろうとも思っている。それもどんなガワを気にいるのか?というポリシーの問題だけで、あるべき自己存在の膜をすべて融和させるのがおかしいのは言うまでもないことだった。何も人の納得に自分の納得を合わせる必要はない。それは敵対というのでもなければ自立の概念であると言えた。そんなことはわかっている。個々の信仰の中でどうあれ、それが信仰たり得るのならば秘めておけばいい。ただ、俺は神様なんて遍くすべてという意味しか持たない無責任を信じているわけではない。信じるべきは常に自分自身であって、それについて振り返らないことの方が大事だった。なんだか振り返ってばかりで、正直いえば自分なんかクソほどにも信じきれないのだけど、そういういちいち信じきれなくなる表層、瑣末としてのエラーではなく、心で信じなければならない部分は、確実にあるのである。つまりは俺は俺という宗教を持っていたが、そこで派閥を作るというのは他人を自分の信仰の為に利用しているようでいて、厳密に考えてしまったら間違いであると言えるだろう。しかし“わかってほしい”くらい程度のことは、自然なる人情だろうと訴えたいし、強いていえば“わかってほしい”ぐらいのことで一昼夜費やすのが異常というだけだった。俺はとにかく自分が楽になれるであろう真理を求めていた。


 俺は現実世界でいちいち誰かにヤバい奴だと思われることにいちいち傷ついていた。自分自身を信じることを通して、俺はそういう心無い奴らと違って、誰かを肯定してやることが出来るのだと信じたかった。第一にメンヘラという魂の疲弊自体には罪が無い。疲弊は疲弊であってそれ以上でも以下でもないのである。俺にはスリムクラブのネタがネタとして消費しきれるかがギリギリだ。ネタは正しく現実の悲哀であることには間違いがなかったし、いつかの俺だったと思う。



 森井夜鶴は倒れ続けていた。

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