第10話再来のマリア


 「暇だにゃー。カラスを絶滅させるか、保健所の人間を絶滅させるかしかないかもしれないにゃー。不謹慎な話、保健所の人間なんていうのは動物を虐待する嗜好が抑えられない人が就いた方が功利主義的に考えて社会の最大幸福なんじゃないかと思うにゃー。何かを殺すことが日常に入り込んだ人間にどういう想像力を働かせていけば良いのかわからないけれど、行動から感情を逆算して納得するようになる時、人は何よりも冷淡に日常を受け入れていくだろうことはわかるにゃー。職業は必要とされた役割であるからして、社会が必要とした時点で人類すべての罪だと思うにゃー。保健所の人間に限らず職業というものに就いたら大体そんな感慨に苛まれるシーンに出会うことはあるにゃー。まさに汚れ仕事かつ誰かの尻拭いにゃー。にゃーは生まれて生きていること自体が間違いだったにゃー」


 俺は野良猫を待ちながらひとりごちていた。


 今更言っても詮ないことなのだが、ライトなノベルのヒロインという奴は一話目に出会うべきであるし、とりあえず出会って30秒でラッキースケベを発生させて乳を揉め、というのが鉄則だった。リアリティに拘泥して粗を探されるよりは、有り得ないフィクションとしてのキャラクターを作ってしまう方が目をつぶって貰えるのである。だが俺は人間にキャラクターというものがあるなどとは信じていない。俗に言うキャラクターと言われる部分というのは人間の外見(そとみ)であり、他人が自分の精神の安心感のために「他人には一貫性を持っていて欲しい」と他人に抱く幻想である。逆をつけば他人の為に用意するものであり、我々といえば死んだ人の弔辞の後にハナクソも穿ればオナニーもするのがリアルだ。不合理で矛盾した感情も持っているし、損にしかならない馬鹿もやらかす。一貫性が必要な場面というのは、我々が不自然になにか力を働きかけなければならない場面、自分の利益のために一貫性を信じたい場面にしかない。一貫性というのは共通の理念でもなければ我々に於いては付け焼き刃の思い込みのことであり、崩壊するのが自明であった。寝ている間だけが人は賢く、起きている間は愚かだと言えた。アンチ・アイデンティティ。アイデンティティなどというものは自分の害にしかならない。


 であるが、そういう人間の一貫性の愚かしさを書く事がドラマであり、小説というものの趣味の悪さだろう。ともかく人の愚かしさについて書くには他人に対しては好悪の前に損得感情があることを前提としなければならない。損得に付随させて好悪の思い込みを発生させること以外に人が人に力を働きかけることなどない。打算的な期待を愛と呼ばせて、それほど愛してもいなかったとほろ苦い感じを出すしかないのである。我々の感情がいかに浅いかを書きたい。我々は我々の浅さ自身によって深い痛みを得るのである。そして主人公が貧しければとにかく詐欺師になるよりないのだ。期待を釣り上げ、皮算用のままに人を動かし、それをご破産させればよかった。或いは雄弁であれば、その雄弁さによって結末の違うこともあるのかもしれない。嘘から始まる手前、何らかのツケやボロ、後日談はあるものだとして。


 それはそうと、何度も言うようだが、俺は社会に対してまるで一貫性を持ちたくない。ダメージのアタリ判定になってしまうのもあるし、自己存在をブレブレにして見えなくさせておきたかった。愛するものを持つと人は弱くなる。心ゆくまで話を脱線させると、精神科医は一貫性を持ちたくない俺に対して諦めて社会に従いなさいというのであるが、社会というのを丸ごと目の前に持ってくる事はできない訳で、我々は観念としての将棋の盤面をお互いに突っつき合わせて、やれお互いの飛車角がないだのなんだのと言うしかなかった。俺がルールを破って盤面を飛び出そうとしていると言われても、盤面の外に出たらまた違う観念があるだけであった、なんてことしかないのである。観念に観念して腹を括れというのは正しいのかもしれないが、ともかく確固たるキャラクターもなければ、そこに向く純粋な好意というものを想像するのはたいへん難しい。「自分というものは無いままに愛されたい」、これはとんだウルトラC級のトンチが必要だ。好意を向けられるからには好意を向けるだけの実像がなければならない。しかしそれも億劫であるが魔術が使えるという胡散臭さをダシにビルドしていくしかないであろう。架空の飛車角を作り出すのである。フィクションなので自己についてあり得ざることを書いて悪いことはない。正しく願望を書くならそれも少しは自分の芯に近いのだ。そしてこの世にはフィクションよりわかりやすく単純なものもないし、わかりにくい社会や現実の摂理を求めるのは実に不毛で誰も求めていない楽しくないことだった。だいたい社会というのは自分を管理してくれるようでそのまま容易に殺してくる。いや殺してくる手前、早く死んでしまいたいが、個人の人生の中身については社会というのは関心がないし、結構どうでもよかった。芸能人のように関心を持たれてもまあ困るというものである。殺してくるものでありながらどうでも良いというのは、結構な怒るべきポイントだ。関心を持つとしてもどうでも良い関心の持ち方しかしないのである。けれど社会を構成する他人にとって、他人がどうでもよいのは悪意でもなんでもない。諦観を覚えるべき話だ。視聴者のいない番組の編集が適当になるように、どうでもよく思われている以上、自分で自分に対してもどうでも良くなっていっても仕方がなかった。「はやくお前もどうでもよくなってしまえ」、それこそが我々が生存し、敵対している社会の総意であり殺意であり呪詛である。いやはや人間生理的にガタがきて自分自身あらゆることにどうでも良くなってしまうことはわかっているのであるが、なればこそ理性のある内に拘るべきデリカシーみたいなものがあるというのが擦り減った人間の言い分だ。中身のないものであればこそ、人生には美しいものがある、あるべきだ、その美しいものを見つけ出すまで、作り出すまで、どれだけの怠惰を世間が許してくれるのか、そんな自分だけしかわからないチキンレースの中で、虚無しか生み出し続けることが出来なければ敗色は濃厚で、もしかしたら調伏されてしまうのかもしれなかったが、そこで発狂できる元気があるか、おずおずと背を向けて絶望的な状況に抵抗をやめてしまったマウスのようになるか、そんな独り相撲の中でジタバタと精神を乱高下させて、過活動になったり鎮まったりしながら、何も得られぬその内に、自分自身、他人の人生の中身というものを恐れるようになって、虚無であることを願い、他人を否定しだすのやもしれなかった。まず一番に俺自身が何も見えていないし見たくもなかったし、他人に対してデリカシーがなかった。そうして疎外の中で認知をボロボロと落として、さながら認知を衰えさせながら車両の運転をして悪態をつく人のようになるのであった。好きで見えていない訳ではなかったが。


 そういうわけで社会は俺には毒沼である。社会の中で修養をして、修養を出来たこと自体を評価して貰おう、などという道はあり得ない。そんな擬装した自己が愛されることで自分が満たされるなどと信じるほどにはアホではないのである。セックスで性欲は満たせるかもしれないが、そんなものは適当でいい。世間の人は綺麗に思い込めるプライベートの配分が出来ているのかも知れなかったが、俺はそう器用にはできていないのである。人の愛を求める前に、自分のために生きる必要があるように思えた。愛されないことを、真に自分で自分を愛せないことの理由として求めることはちょっと無理があるように思えたし、その錯覚は永遠に飢(かつ)える為の罠に見える。不細工はイケメンの旦那を見つけても結局自分の不細工に悩むのである。子供には期待できるかもしれないが。まず自分の不細工な顔を、自分で愛さなくてはならない。


 思えば俺はポジティブな富とか栄光とかいうものについてまるで信じていないし関心もない。インスタ映えとか、TikTokでバズるとか、なにそれおいしいの?といったことであった。精神をおかしくしておきながら、ハングリー精神が足りなかった。それはある程度に於いて富めるものであるからだというのは置いておいて、切実な退屈である。俺にとって生きることは、退屈を、苦痛を引き延ばすことだけでしかない。生きることというのは死という真実の点Pに向かって「引き伸ばす」ことそのものだ。この宇宙というのもウドンのように引き延ばされているものらしいからそれと似たようなものである。これは物語においてもそう難しいことではなくそうなのである。「ある地点」から「ある地点」へ行くこと、その中で心境の変化があろうと無かろうとそれがストーリーというものであり物語だ。近頃最終的な地点である死についてよく考えるが、死を見つめて動けない退屈な生はとても苦しく、精神を苛んだ。


 「朝があれば夜があるし、物があれば下に落ちる。そうした自然法則に従って精神は形作られて、まったく宇宙そのものの似姿のように寄り添い、しかし最期には宇宙と関係なく死んでしまう。我々が宇宙に適応的であることそのものが最期には裏切られる。生存の終了と共に宇宙を擬態するエゴがなくなる。我々の生とはそういう侘しいものだにゃ」


 たとえどれだけ懸命に生きたとして、べつに宇宙の最期とは友達になれない。それが我々の孤独の実態だ。人は無意味に唐突に死ぬ。それを引き合いにして何ほどのものが得られることもない。いずれ有機物として分解されて消費される義務がある。それはわかっている。わかっているが、わかっているが故に生きる者として、最終的な地点である死について語り得るか、この小説で辞世の句を読めるかには自信がなかった。未だ出会わざるものという意味で、運命と死と女、これは俺にとって同じ意味を持っていた。果たしてそれらはいつ頃やってくるのか?構えに構えて、弁慶のように突っ立っているだけであった。


 第一、女が笑うくらいのことで惚れていたら馬鹿を見るのであった。女というものはゼンマイ仕掛けの玩具のようによく笑うように出来ているのであるが、これはあらゆるストレスに対する反射でよく笑うのであって内心本当に笑っているか好意的であるか、快く思っているかというのはよくよく注意が必要であった。彼女らは許容できるストレスというものを常に峻別していて、嗤っているのが微笑みに映っているということもあり得た。モナリザの微笑でさえAIに解析させたら悲しみの成分が多いのである。よく笑う女というのはストレスを解消する能力が高いので信用には値するのだろうというのは思うのだが、そもそもにして笑いの起源というものは、敵対対象に歯を剥き出している時にそれが仲間であった時の弛緩した表情だと言われている。つまりギャップに人は笑うのであり、踏み込み過ぎれば地雷を踏むのが明白であった。俺の生というもの、余裕もデリカシーもないし、仕方ないから笑ってあげるに過ぎない人生なのである。そう、しかしこの「仕方ないから笑ってあげる」ということは確かに愛だった。妥協で我々は愛されてるし、愛されること自体が妥協、それが即ち地に足のついた真実ではなかろうか?とにもかくにも、我々はなんらかのおこぼれで生きているに過ぎなかった。そしてセンスのない男に対して女に愛があるとすれば、それは気まぐれに過ぎないのである。


 ではセンスのある男はどうか?モテる男はイジるのが上手いというのが言えるだろう。踏み込んではいけないギリギリを見極め続けることができるし、その試行回数によって信頼を得るのである。それは即ち相手に対して安心を持てる距離感を保てる、距離が「見えている」ということであり、安心して付き合うにあたって最重要であった。踏み込んで良いカーストにあれば、そういう描写もできたかもしれない。俺は将棋盤の埒外の者であるからして、そんなカーストは築きようもなかったが。


 いやはや、俺にも姉が居たような気はするし、そこで何かしらを学べる機会もあったのではないかという気はするが、異性というだけでまるで他人事に思えて、真面目に考えようなどと思えたことはなかった。そのことで何かしらの人生のツケのバツとしてのしっぺ返しがあった気がしなくもない。


 「こんにちは。私は保健所の人です。ここに悪い猫ちゃんが居ると聞いてやってきました。貴方ですか?」


 ……予定と違ったけれどとりあえず女は現れた。作るまでもなく現れた。それはそうかもしれない。なにせブルゾンちえみが男の数を35億と数えるのである。逆に女の数もそれだけいておかしくなかった。それは過当競争を表した、現実としての倍率はなに一つ変わらない考え方であるように思えたが、とりあえず我々がどれだけ日常の中で不可視化している異性がいかに多いか、という話でもあった。出会うだけであったらまったく簡単なのかもしれない。女はテレビでしか見たことのない、ヘビを捕まえるために先っちょがループ状になった棒を持って立ち塞がる。その顔は森井夜鶴の顔をしていた。中の下は保証された。なるほど汝が俺の死か。


 「とりあえず今更遅いがおっぱいを揉ませろにゃ。乳を揉んでFinでいいにゃ。先に報酬を予感させないと男は冒険に旅立たないにゃ」



 「言っていることがデタラメな猫ね貴方。

苦しまないように殺してあげるから安心しなさい」



 次回はどうやら猫魔術戦になる模様である。猫魔術とはなんであろうか?

筆者にもわからない。愛などない。引けなくなるポイントがあるだけだった。

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