第9話仮説ビルド・イヴII


 俺は女というものの細かな設計、要件定義はともかくとして、森喜朗の女性差別発言(?)とやらを眺めながら、女とはなんであるか、その答えに近づいていた。こんな事を言ってしまうとフェミニストには怒られてしまうかもしれないが、女という概念自体、セックスを考える際の便宜上作られた指示語、という意味以上はないのではないか?つまり男という立場から女性という概念を持ち出せば、それだけでセクハラになるのではないかと思えた。男からしてみた際の単純な考えとしてはこうだ。実に下世話な話であるが、チンコが勃起するのが女であり、それ以外は女ではない、ということになる。実にアバウトだと言えたが、それが言葉の機能を考えた際の本質であると言えた。そうではなく、女性は女性それ単体として、男という概念と関係せずに女という概念足り得るのである、ということを言いたい向きもわからなくはないが、そういう文句は森喜朗ではなく神様に言うべきである。便宜を図るものが言葉であれば、なんの便宜も図らずに女という概念が存在することもあり得なかった。


 であるからして、何故セクハラ問題というのはなくならないのかは自明であった。これもセクハラというのが、時に「女性を女性としてみなかったこと」が問題となったり、「女性を女性としてみたこと」が問題となったり、その成立の要件がくるくると変わる所にある。じつに取り合っていられない不毛な政争の具材だ。我々はそんな政治劇場を見るために税金を払っている訳ではないが、ローマにおけるコロッセオの役割、民衆から気を逸らせる目的があるのだ、と言われれば、この話題に乗ってしまう我々はまさしくドツボにハマっていた。秘書に対して「女性というには歳だ」なんていう発言、これを取り沙汰すれば確かに発言としては酷い。その話題を政治家としてする必要あるかってったらまったくない。しかし24時間生物として男であるという部分を全部自分から除外して政治家だけしていられるかっていったら無理だし、発言の逐一を監視されたらボロも出るに決まってるでしょうね、という感想以外は俺にはなかった。政治家は24時間政治家をやれという訳だ。無理もいいところである。だいたい、性に関係なく人間として自立して立派にやってきているんだ、というところにいきなり性別の物差しで見られることで水を差される気分になることもわかるが、しかしけれど人間性別関係なくみんな当たり前に自立して立派に仕事をしているのが織り込み済みなら、次の話題としてはやっぱり性別くらいしかないのである。我々は日常に飽きていた。所詮世の中男と女、欲望をみないことはかえって政治ではない。政治が人間の欲望の流れやインフラを整えることだとするなら、むしろそこを自覚することは強く大事なわけで、政治家個人の小さな欲望自体にケチをつけて、誰の欲望でもないよくわからないものを作り上げるのが一番悪い結末でloss-lossだと思うのであった。だいたいにして最近の潮流はどうなんだろうか?LGBTが騒がれる中で誰にでも平等にする為にアセクシャル化するのが最適解みたいになるのもかなりおかしな世間の歪みではないのか?政治なんて自分の欲望を叶えてくれそうな人間、沿う人間に投資しろ、でいいし、ポリティカルコレクトレス(政治的妥当性)という言葉自体が政治的ではなく、政治を停滞させるだけのものではないかと思えた。平等理念が個人としての欲望を叶える闘争の邪魔をするなら、そんな世界に生まれていることの意味自体なんなんですか?という話である。欲望自体を否定してやることではなく、欲望と欲望のマッチングなり斡旋をするのが政治家の仕事で、政治家個人が秘書に”求める”のが妥当かは知らないけども、生物学的な観点でいえば例え妻帯者であろうと閉経した相手だけを女性として見ていくことには不可能があろうし、その現実の実態に沿わせて自分を男性でないと自認して生きていくのにも侘しさを感じるであろうことは深く想像ができる。だいたい、チンコが勃たない相手を女性扱いするのは互いの浪費で侮辱だろうが、日常に飽きたらそれ以外に話すネタもあるのか怪しかった。おじいちゃん、ネタも種もなく寂しいだけで、そこは想像して配慮して愛嬌とするところも優しさなんじゃないですかねと思うのであった。だいたい人間みんな老化してみた時のことを考えてみてほしい。おじいちゃんがおじいちゃんをやる日常なんてものは飽き飽きなのである。秘書の不快な思いも汲めよといえばそらそうなんでしょうが、実際に手を出す話でもないのである。たぶんであるが。老化に伴うお互いの辛さを緩衝してやることに不寛大な世間を作ったって、ギスギスするだけで回り回って老後の自分が苦しくなるに決まっていた。そうして馬鹿にされた誰かも、誰かを馬鹿にすることでバランスを保っている。それが世界の実相で間違いなかった。


 だいたいにして、政治家の無意識の”失言”ではなく、意識的な”政治”の部分、具体的に何をどうしたの部分の方が世間に認知されない、ニュースとして伝わってこないことが問題であって、政治家本人が個人として失礼な奴かどうかなんて本当にどうでもいいし、そんなトピックだけで話を停滞させないでほしかった。「女性」という概念があるだけでどちらかにフレるので、もう女性という概念をなくしたらいいかっつーと、セックスを考えることは少子化問題と不可分であるともいえた。森喜朗がセックスを考える必要性あるのかつーたらそれもセクハラで、いやしかしセックスなんて本来なら個人が解決していたお粗末な話であり、じつにどうしたらいいんですかね、どうもしなくてよくないですか?という話だった。個人として生物として増えたい前提として、勝手に増えてくれるべき、自然に解決するのを望む話であり、セックスというのは他人事としてまるで興味はなくてよかったはずである。それが確かに国体を保つのに関係があるということになってしまった。では立ち返って、美辞麗句だけで済むセックスなんて逆にあるのだろうかと問えば、そもそもとして自分に対してふざけてないとセックスなどできなくないですか?という話なのである。自分の遺伝子に見切りをつけるという裏切り行為であるからして、だからこそ貞操を守っていると、「真面目だねえ」とか言われちゃうのであった。我々が立腹なのは、このふざけなければいけない問題、ふざけた問題の中に人生があるということそのものにであって、そういう不満は本当に神様にでもいうしかなくないですか、という話であり、森喜朗を槍玉に挙げたところで絶対に1ミリも解決しない不満なのだった。まずそのことを自覚すべきなのだった。


 我々は、ふざけた自分に対する裏切り行為のふしだらさについて、愛という名のコーティングをしなければ立ってもいられないほど軟弱だ。正当化を必要とした。他者に対してと、自分に対してを区別する必要に駆られていた。その様相の我々はまさしく差別的であり、邪悪そのものの現実逃避、現実を生きる為の現実的な現実逃避であったかもしれないが、それが生命を肯定する限界だった(俺はこれを自己聖別化欲求と呼ぼうと思う)であるからして、理念として平等や差別を無くそうと考える者にも等しくそれだけの欲望があり、人間の欲望はすべて汚れているという前提で政治をしてほしい。




 さてなんのことを話したものか、だいぶ話が見えないところまで来てしまったが、とりあえず女というのは女と見ること、チンコを立てりゃ女であるという雑解釈から、猫をズリネタにすれば認識が逆転して猫は女になり、女は猫になるというような、量子的なゆらぎを作ろうと考えようではないか。まずこの量子的なゆらぎというものがわからないが、アイデンティティなどよりも強い本質であるからして難しくないか?、そんなことも頭に浮かんだが、まあとりあえず猫の俺は猫に段ボールを被せて中身が最高の女になるように呪いをかけることにする。医学的なアプローチを記述するよりは適当で良さそうなのでこの小説にとって現実的だ。シュレーディンガーの猫だってそんな雑理論であっただろうか知らないが、ここはできる世界なのである。フィクションにケチをつけるな。ともかくとして俺は公園で猫缶を仕掛けて猫を待つ事にした。自分も猫である手前、缶詰を口に咥えることは難しかったが、今時サザエさんの世界でもないし魚屋から魚を盗むのも逆に面倒に思えたので、なんとか用意をした。途中でカラスに食べられてしまわないかだけを警戒する必要があり、餌があるのに餌の周辺でカラスを追っ払うだけの何をしているのかよくわからない猫と化していた。



「ちやほやちやほや!最高の女になーれ!


ヨシ、この呪文でいこう」



 計画はバッチリであった。

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