第8話仮説ビルド・イヴ
今ここに魔術師として目下の課題があった。
女キャラクターを生み出さなくてはいけない。肋骨の一本で作れるだなんて思うのは、昔の神様は女というものを安く見過ぎである。森井夜鶴は失敗していた。美人とかそうでないとかいったルッキズムの話題に、女の子はフランクに乗らないものであるし、そういった話題に対しては関心事であるかもしれないが、ナーバスになるのが普通であった。話題自体がエチケットに反するのである。当たり前であるがファッションとか空気感を肯定するべきであり、描写のポイントもそこにずらす必要があった。そもそも俺自身、顔の好みは大変にあるにしても、凄い美人で整った顔が好きだということは全然なかったし、街で見かけていいなと思う女子は、ファッションセンスのいい女子だった。そもそも近眼なので空気感だけでいいなと思うことしかない。なんか使ってる鞄が可愛いなー、とかそんなんであった。完全に顔を見てないことすらあった。心理学的には視線を合わせた方が自分も相手も好きになるらしいので、無理矢理視線を合わせまくって取り敢えずサクッと恋に落ちてみてそれから考えよう、みたいに考えに考え、おかしな事になったこともある。自分はこれから恋をするし、恋をする為に思考リソースを割き、思考リソースを割けばサンクコストバイアスで好きになれる、みたいな考えでただの執着になってしまったこともある。実に死にたい経験だし、事実死のうとした。恋は初めから構えてするものではなかった(自分自身は見事、自己洗脳に成功したのであった)
そんな有り様であるからして、実際の女なぞわかるはずもなく、猫である内に猫を改造して女の子にしてしまおうと思っている。自分が人から猫に変えられたので、逆もアリだろう。最近では骨髄細胞をネズミに移植して人間の血液を作らせることにも成功しているし、脳細胞を作ることにも成功している。俺じゃなく研究機関が。あんまりネコネコ言っているとゲイ界隈のネコとタチ、腐女子で言えば受けと攻めみたいで嫌だったので、俺自身も猫から女子を作った後には人間に戻るつもりだ。どう作ったものか。まず女とはなにか?その偏見を並び立てなければいけない。嫌な作業だ。
女というのは穴が空いている方である。そこから連想するイメージはなんであるか。底なし、ウケ、マゾヒズム、「愛されるもの」、「愛される側」、と、ここでそもそも俺は童貞であるのでまずセックスそのものがなんであるかも明確にしなければならなかった。おそらくな話であるが、愛があるからセックスするのではなく、断絶を埋める為にセックスがあり、そのあとに愛が生まれる、というプロセスが人間としてなり生物としてなり自然のことなのだろうと俺は思う。セックスそのものはそんなに愛ではない。愛になって欲しい希望ではある。まずお互いの遺伝子を組み合わせた自己破壊と再生ののちに、愛せるかもしれない自分をガチャガチャのように生み出そう、というお互いの了承による投機である。ポジティブな動機だけでセックスに希望を持っているとは俺は1ミリたりとて信じない。人間がなんで不倫するかっていったらば、セックスしたい性欲はあるのに、その性欲を満たす為にはある程度の断絶が必要だからなんじゃないかと思う。だから愛では逆に不倫を止められないみたいな事情があるだろう。存在を受容してしまっていたら、そこに穏やかなものはあるはずだが、それは性欲を満たすものとは違うのである。だから愛とセックスそのものがイコールであることはない。思うに男の性欲は単純に排泄欲の部分があるので逆にコントロールが簡単なところがあるが、女の場合率先して断絶を求める感覚(マゾヒズムとニアイコールのもの)と性欲がセットになっているので、女の性はよりセックスに根源的でコントロールが難しいみたいなことがあるんではないかと思う。そして男は女よりもセックスの根源を理解していないので、ストレスなくセックスをお遊びお巫山戯にしてしまってキャッキャできるのであり、バカだなあ、などと思われているのである。さてしかし女の性欲にマゾヒズムが必要でも、サディズムに必要なのは支配欲だろう。おそらくは需要と供給を満たす為には同じ欲求同士ではいけない、非対称でなくてはならないのではないか、というのが童貞の推論だ。これには男性が根源的にはセックスをわかっていない事が逆に良い風に働く。排泄欲にいちいち感情を込めて女に対してラグジュアリーにできるかっつったら無理であるが、たとえば聞き齧りな話、ドSのSがサービスのSというのは言い得た話であり、これは単純な排泄欲としての性欲を超克している必要があるように感じられた。まあそうなるとお仕事になってしまうし、俺は無職のが得意だし難しいな、ってなってしまうわけだが。
男はなんだかんだもの凄いエロを求めているようで、いざエロ動画などを観れば、心の平穏の方が大事だよな、などと反面教師にしてしまったり、エッチ大好きより女の子が大好きでありたい。とか感慨を抱くのである。だけど労働やストレスは男女ともにお互いの関係の味わい深い部分をショートさせて、ただのセックスに変換していく節があるのではないかと思えてならなかった。そうしてエッチをした子を大事にしないのである。わからんが。勝手なもんである。このストレス社会は、実は少子化対策だったのではないか?
そういったストレス社会において、女というのはゲイの友達、オネエの友達がいる事をステータスとしているフシがある。というか、実際に気楽なのだろう。ゲイとかオネエの男と女が仲良くなれるとしたら、それは普段女の子がルッキズムに晒される苦しみと、性的マイノリティが故に彼等が容姿に持つ苦しみが相似形だからだ。そして同性ではないので戦場が違うし、少なくとも戦場、同じ狩り場で拗れることはないままに戦友であるかのような状態になれるだろう。それも片方からの思い込みであることが重々承知であり、タバコをぷかぷか蒸す間柄、負の連帯であるかもしれないが、人間はそういうものが好きなハズだ。そういってしまうと女そのもの固有の特徴かというと違う気がしたが、まあそんなもので大丈夫だろう。しかしなんだったか、女とは「愛されるもの」「愛される側」ではないか?という疑問もあったはずで、それはもうキャラクターの生活様式なり挙動を可愛くするよりない。本当にゲイの友達がいることをステータスにする女、という設計図で良いのだろうか?なんだか女子会ばかりやっていそうである。
だめだ、わからない……。
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