第7話猫の鳴き語彙


 これは、ちょっと長い、俺という猫の鳴き声だ。


 シモーヌ・ド・ボーヴォワールによると、 「ひとは女に生まれる のではない。女になるのだ」そうである。これはしかし男にも言える話に思えた。人は男に生まれるのではない、男になるのだ、というのも感じるし、むしろそれすごい男性讃歌なのかもしれんがしんどいなあ、とか思う。


 男女でしんどさってそんなに変わるのか。また全ての産業と役割が機械化されて代替可能となったところで、何者をも演じる必要もなくなった我々は幸せなのだろうか。何者としての役割も割り当てられなくなったら、そら存在しなくてもいいよ、と、ニアイコールな気がするのだ。パターナリズムに左右されず、居場所は自分で作るものなのかもしれないけれど、少なくとも男女論の中に存在の辛さを訴える人の、居場所のなさを性別だけの責任にするのは、少し無理があるかもしれないし、問題のポイントが違う可能性も見てみる必要があった。勿論どこにも逃げ場がなくなるほど責任を追求しなきゃならんのも人情としてつらく、男女であることそのものぐらいに悪態をつくぐらい、許されて然るべき所作であるような気もした。俺だって俺の地獄の殆どは社会学的な観点として階層が固定化されて遺伝しているだけなのだと無力を嘆くぐらいには弱虫だ。賢しらに「親のせいである」と言っているに過ぎないが。


 全部を追求して、物事を自分の責任でしかないとしか言えなくなったら、それこそきっと人は自殺するしかなくなる。自分がダメなくらいで死ななきゃいけないほど狭量な世界ってのは、自分が作り上げているもののような気もするが、だからこそ人が生きるのに大事なのは、お互いにボヤかした認知で許し合うことなんじゃないだろうかと思えていた。それはもう一つ前の話でもちょっと語ったことだけれど。むき出しの現実なんてものがナニを救うのだろう。


 補足として語るなら、統合失調症という病に何故自殺者が多いかといえば、この他者の中にボヤかされてあるべき認知の遊びが感じられなくなる病であるからである。ともかく責任の因果を手繰り寄せてみれば、どこにだって責任は読み取れるのであり、もしくは「自分の責任である」と強く意識できてしまうが為に、言葉のサラダと言われるほどの方々に、責任の因果をむちゃくちゃに結びつけてしまっているのかもしれなかった。我々は確かに物理的な因果としてこの世に存在していた。であるからにはその幾つかは悪いことにきっと当たっていたし、結びつけた現実のすべては、因果を逆転させて、割れた鏡のすべてが刺してくるがごときに様相を変えたのである。或いは関係ないものに結びつけることで、真実の幾つかから逃避しているとさえ言えたのかもしれない。兎にも角にもそれはもう社会的な意味で責任として遡及されて断念されるべきポイントなどというものは空の彼方に音速で過ぎ去り、結局は「ただ自分が生きている」というシンプルなことそのものだけを苦しみの結論として、テンションで終わらせるぐらいしかなくなるのであった。かくして統合失調症の患者は妄想の中で、或いは彼の者の現実の実相としての地獄のアルファにしてオメガとして完成するのである。地獄が地獄でなくなるためには、まずは地獄ではない現実を必要とした。


 そんな特殊な話はともかく、だいたいこれから次の一手を踏み出す人間にとっては、たとえ真っ当らしい学術的な結論、社会階層が遺伝するだなんて話だって無責任かもしれないし、学術が嘘っぱちの積み重ねである可能性だってなくもなかった。世の中、擬似相関の因果関係や時代文化の刷り込みが先にあることだってあるのである。統計学であれば質問自体によって答えが歪むことだってあり得た。そもそも、辛さの責任の所在で他人が辛かったとして、どのくらい辛さをわかったらいいんだろうかもわからない。共感が救いになるかさえ怪しかった。たいていのことは言葉になれば救われるものだというが、先の統合失調症の話であれば辛さを分解して語彙にすることは自分自身の責任であることを明確にするだけやもしれず、救いになる保証なんてのはまるでない。問題なのは感情の処理の方かもしれない。けどもたとえば共感して一緒に心中でもしてやればいいなんてことはないだろうし、そんな風になるぐらいなら、他人は他人の不幸をわかってやる態度なんかとらん方がいい気がした。実際わかんないのだから。飯でも奢って、お互いをわからないことの中にも救いがあるって、一時でも寄り添うなら、それだけの力はあるし、それだけの力しかないのが実際じゃないだろうか。喜びは倍に、悲しみは半分に。しゃらくせえが、それは理解よりもディスコミュニケーションによって成立する話ではないだろうか。本当にしゃらくせえ、お前なんかにわかられてたまるか!くらいで生きられる可能性だってある。生き物は生きたいから生きるのであって、生きるのが正しいか?なんて問い立てでは、正しさの定義なり、司法の次元として死んだ方が良いかもしれないからして俺に確かなことは言えないが、少なくとも話を聴くからには思考リソースは割くのだろうし、解決しないにしても俺は良い奴だと言っておくれよと言いたい。二人考えたって明日は来てしまうのだけど。


 人の悩みを聴く段にあっては、俺にどんだけ力があれば良いっていうんだろう。猫の力ほどにもなくていい。そんなもんお前にだってなくたって良いじゃないか。人の力を高く見積もり過ぎなのである。所詮人間自分の選択肢の自由の中で、満更でもないことにケチをつけて優越に浸って生きていく、そういう処世しかないのである。そしてそれだけ自分には人間としての深みがあるとか、自由意志があるとかを酔っていたいだけなのである。でもそれでなにが悪いというのだろうか。お互いをバカにし合うことで十分な救いかもしれない。その営みに愛はあるんじゃないだろうか。か弱い愛かもしれないけれど。


 大体にして再三であるが、人間が本当に愛されなければ生きてはいけないものであるかは考えてみるべきである。「愛がそんなに重大なことなのだろうか? 愛されなければ幸せになれないという思いはただの錯覚であって、人は愛されなくても生きていけることがなぜわからないのだろう?」と、中島義道も言っている。もしも愛が偉大であると錯覚をしていたいなら、そう錯覚することで自分がさも重大な存在であると錯覚していたいからである。俺もいい加減身内の中では目の上のタンコブ程度の認識でしかないことはわかっている。それでも自主的には生きていては貰わなくてはならない、という程度の存在だ。俺が自殺するくらいのことでも世界は不穏になりえたし、俺が生きなければいけないのは、強いていえばたんに周りの人達が平穏を愛しているからに過ぎなかった。俺の人格を優先してのことではない。そもそも人の人格が優先されるような世界なら、たいていの人の人生が辛い必要もなかっただろう。人格を無視して人を仕事に縛り付けて自由奔放にさせないのは、更なる地獄を味合わせない為の詭弁、かつ実際でもあったかもしれなかったが、そのようにして、わかりやすい愛なんかなくてもこれまでやってこれたのである。ならばこれからだって愛がなくても普通に生きていける。だけどそういうことではなく、中島義道には悪いが、愛という嗜好品の全くない人生というのはありえない風に過去の俺には思えた。労働の中で疲弊して、困窮して認知能力が下がっているほどに突飛な愛の希望は必要とされ、切実に必要に思えたのである。まるで貧しい中にこそ本物の宗教が成立するかのようであった。人はこよなく無駄の罪を愛さなくてはいけなかったのである。それは即ち自分の持っている心そのものが労働機械としての自分には、心底無駄であったからだ。機械の如く、ボロ雑巾の如くに働くほどに、その無駄は大切だと思えたのである。或いはその嗜好品の愛の為には死んでみせるほどの愛、死んでみせるほどの意味自体がなければ、あまりにも生きていることが無価値に思えて、生きていける自信がなかったのである。世に死にたい辛さあれば、愛のために死ねなかった辛さだってあった。死ねないことで、自分の生命に掛かる愛が薄っぺらいものだったんじゃないかって、そういう後悔を抱いて生きていくこと自体、よくある話だったのだ。労働環境として「死にたい」だけではなく、愛のために「死ねない辛さ」。言葉にしてみれば簡単に思えるが、これらが複合的にあるが為に、二重苦の感情としてあるがために、言葉にできないようなものになってしまって耐え難かったのである。



 人は人生が辛いものであるほどに、自分の人生を愛する必要があるように出来ていた。



 これはとてもふざけたマッチポンプの構造だ。



 そしてこのマッチポンプの中においてマッチポンプを語彙として昇華せず生活し続ける表象は、そのものを全否定でもしないかぎり、これもまた精神病にでもなんにでもなるしかなく、テンションで自害を試みるよりなかったのである。



 そして俺は頑張ることを辞めた。



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