第6話内山・ザ・ライジング

 現実語りにも飽いてきたが、皆それなりの現実を生きている。


 眠ったり、魂がどっかいったり、意識が途中断絶したりしながらも、平気でその現実を生きている。小説みたいに文脈が常にあるわけでもなく、描かれない現実、意識に登らない現実は数多とあった。そういう現実を生きている。


 だいたい、人間お互いにガッチガチに認識しているから生きていられる訳じゃなくて、お互いの興味と認知のスキマに許されて存在している。我々もっとお互いの現実の見えなさに感謝すべきだよね、という気持ちと共に、親の認知の範囲狭くなったな、とか、そこに胡座をかいている自分はクズだなとか、しっかりしなくちゃいけないのかな、とか、自分も見えてないなとか、そういうお互いにわかり合えないことが決まっている中で、寂しさを覚えつつ、愛とかあんのかな、とボーっと生きている。大人になると叱ってくれる人がいなくなるというのは、みんな前を向いて自分の現実を生きていくことに忙しくなるからである。そして劣等感を抱きつつ、自分一人誰にも愛されはしないのだということに気づくには鈍感であった。そも劣等感で世界を歪めてみるのは、或いはそのことで世界なんてものはどの方向からにも自分には興味のないものであるという現実からこころを守る手段であったりするのだ。そこに気付いて、他人は自分の劣等感なんぞにはなんら興味はなく、ゼロベースで何を築けるかが話せないと、生産的な話なんざできんのであった。マイナスな話をしても仕方ないじゃないですか、ってなってからが大人なのである。そんなことはもうとっくにわかっている。それぐらいには年齢大人なんだけど、だがそういうことは成果を上げた上で書きたかった。すべては実力の上で、そこからあらゆる人間の行いには貴賤などたいしてないのだと悟り、子供の言うことにも一面の真理を認められるぐらいの余裕のあるポジションでありたかった。極端な話、カリスマをもって全部を生産的な話につなげて管を巻きつつも成果をあげて、誰にも恨まれない処世を身につけたかった。


 性欲もいよいよなくなると人生目的失ったなー、という感じが強く、目的を失ったから仕事をするか、というのが常人の思考かもしれない。愛されない現実、愛のない現実などというのは特異なものではない。失礼な話、バーコードハゲデブモブも生きているのである。そうした場合にも凍りついた仮面をつけて人はシラフで生きていくのである。ドラマみたいな愛なんて誰にでも平等にあるわけもなく、或いは孤独な人間には、孤独の時間が長すぎると、ちょっとわかられるくらいならいっそ愛されたいみたいな怠慢があり、流されそうになるのかもしれないが、たとえば相手がそんな自分の心象をわかっていたとして、孤独な人間を嗅覚で嗅ぎつけるのはたんに人生経験の長さからであって愛ではないのだが、世の人間はそれもわかった上で時には利用したりワンナイトするんだろうか、などと知らぬ世界に思いを馳せるのであった。


 第一に、わかりあうことなんて簡単ではない。永遠にわかりあえないなんてわかっているんだから、奪い奪い合うだけでもしていた方が人生の虚しさだけはなくなるんではなかろうかとアクティブな人種になりたかったかといえば、来世あったとしてならんだろう気がする。生きていくことは、あらゆる意味で自分にも他者にも諦観を覚えることだ。つまりは自分の不可能も認めることだ。その方がつらくない。楽だった。


 しかしそれにしても若い頃にサクっと苦い感じでセックスしていないやつは、超自我やら親に対する承認が抜けきっていなくてネチョネチョしている奴が多い気がすると童貞の俺は思う。ようは乳離れというやつができていない。たぶん歳食ってから綺麗な段階を踏んでから脱童貞をしたのでは違う。そういうプロセスを重んじる人間は何かと縛られている体質であり、超自我でなくとも女に縛られるようになるのが結局サマになっちまうんじゃないかと思っている。縛られるものが変わるだけだ。若い頃に後ろ指を刺されるような後味のわるい愚かなセックスをしてこそ、そのセックスを通じて親、引いては人類のだいたいと同じことをしたというなんとなく穢れた感覚をもってして、人間はたいしたことないしくだらねえな、となって執着が捨て切られ、そのニヒリズムの中から、改めて積み上げる現実を選びとる強さを持ち、人の自立に繋がるのだと思う。現実のセックスなんて現実を生きるにあたって素晴らしいものであってはいけないし、さっさと日常にでもなんでもしてしまった方が良いのだろう、というのが童貞の俺の持論だった。概要だけはわかる。童貞のロマンチシズムは自己愛を腐らせるだけでしかなく、執着のなくなった人間が積み上げるものの価値よりも人を生かす愛としては劣っている。幻想という幻想は早めに打ち壊されていて然るべきだ。言い方悪いが早めに自分に裏切られている必要があった。それが即ち社会的に去勢された人間であり、社畜として自立できるだけの可能性を持つ人間になり得るのである。或いは自分が生きるに差し当たっての段階の話でしかないのかもしれないが。


 テニス部の内山はそうした思考を頭の中に走らせて微睡ながら目を覚ました。14歳なので童貞だ。たいした思考も巡らぬのは当たり前である。


 「4時か……」


 中途半端な時間に目を覚ましたものである。日中きちんと活動をしていないと人間は寝覚が悪くなる。もうすぐ朝日が登る。ここはテニス部らしくランニングでもするべきだろうか。俺はこの小説でテニスを理不尽に雑に扱ったことを申し訳なく思っていた。何故ならば世の中には男と女というカテゴリの下には、食と音楽と芸術とスポーツというカテゴリしかないからだ。雑かもしれないが小説もここに入る。実に不自由に思えるかもしれないが、この中でやっていくこと自体に間違いはない。なにか足りなくて飽いている気はしたが、人生のテーマもその中から選ぶしかないではないか。学問というものを選ぶこともできたかもしれないが、それはちょっと逆に人の感性としては変態的な気がしていた。頭が悪いのでしかたがない。


 俺は寝巻きからジャージに着替えると、冷蔵庫からスポーツドリンクを取って一口飲んでからウエストバッグにセットした。顔を洗ってタオルで拭いて、そのタオルを首に巻きつけたまま、スポーツブランドのスニーカーを履いて玄関から公園へと飛び出した。準備運動もせずに走り出す。


 ぐにゅ


「ぎにゃー」


 不幸なことに猫を踏んだ。この場合不幸なのは猫の方であったが、中身はトキオカなので問題ない。


 「どうしたんだトキオカ。猫になっちまって。呪いでもかけられたか?テニスを馬鹿にした罰だな」


 「それは違うと思うニャー。森井夜鶴と吾妻というやつにやられたニャー」


 「なるほどよくわかった。ネコ語は俺にはわからないし、保健所には連絡しておこう」


 「血も涙もないニャ」


 俺はシッシ、と猫を追い払ってランニングに戻ることにした。明日の全米オープンまでには間に合わせねばならない。

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