第5話完全無神論➖吐き気を催す宇宙のシミに

 唐突だが俺は社会人という言葉が嫌いだ。社会人という言葉は定義がじつに曖昧である。曖昧なままに社会人としてしっかりしろだとか、そのままでは社会人失格だぞとか、その言葉には漠然としたイメージしかないのに、説教として使う側にはさも社会人のイメージがあるかのように装えて、なにをしてもそこから逸れていたら永遠にグチグチ言うことが出来る最悪ワードだからである。人間は単語単位ではなく文脈によって言葉の意味を読み取るが、しかしだからとて文脈の中にこういうフレーバーだけの、単語の定義として曖昧なものを混ぜてなし崩しに要求を通そうという輩は絶対に許したくない。俺の存在自体がフレーバーの香り以上に希薄かもしれないがその事とは別だ。言いたいことの具体性を出さない卑怯な言葉の使い方を俺は他人に認めない。とにかく社会人という言葉は、権力者が被支配者側に対して忖度を要求する文脈でしか使われることはなく、つまり権力勾配がある前提で使われるわけであり、パワーハラスメントの言葉である。もっとも俺は日常においてポリティカルコレクトレスを徹底しようとか、相手に対しても自分に対しても生活コストの高いことを要求しようとは思わないが、やれ自分が無限叩きに合うターンとなっては、これを徹底的に拒否しようと思う。社会、いや社会なんてものは、それはそれは会社の数ほど、人の数ほどある。だのに会社はさもお前のいるべき社会はここにしかない。ここ以外に行ったらお前に生きる術はないとか洗脳をしてくる。それは支配者がていよく人をこき使うための都合だ。そして逃げたいのにそこしか場所がないと洗脳された人々は、いや逃げてみて、本当にこの世に居場所はねえなと早まって洗脳解けぬまま自殺するのである。家族からもお前が勤めているところは大きな所だから間違いないだろう。他のバイトを探す?無理だ無理、などと言われて会社も家もどちらもクソで、誰にも苦痛を理解されることが不能となればこれはもう本当に自殺するしかない。


 それはともかく吾輩は猫になってしまったようなので猫の恋人を作ろうと思う。猫ならニャーニャー鳴いていればそれだけで恋人が作れよう。完全に猫を舐めている。俺は今更だがシュレディンガーの猫というよりは、マクスウェルの悪魔になりたい。自己をゼロとして、無限のエネルギーで情報を整理する番人になりたい。じつに人間の魂だ。


 と、そんなことを思っていると、どこからかピューっと紙切れがとんできた。ここまでついてきた忍耐強い読者でも、出だしから読む気がしない筈なので、次の◆まで飛ばして欲しい。読まなくとも目を滑らせるだけで中身はわかる。シミさんのものだ。


 アナタがいない事がこの世の不幸なら良かった。

逆にしたらアナタがいることがこの世の幸せになるから、そうしたらロマンチックの言い訳に出来る。

けれど世の中そんなロマンチックはなかった。アナタがいなくても具体的な不幸は訪れないし、日は過ぎるし、アナタがいることの方が心底不幸を呼んでいるかもしれなかったわ。わたしはアナタの幸せを祈れないでいる。なぜならわたしの力ではアナタを幸せにすることが何一つもできないから、ずっと惨めに自分の無力を思い知らされる。だからやっぱり不幸なのかしら。人は自分で幸せになるものだというけれど、幸せであれた記憶がアナタと遊んだことしかないから、アナタを幸せの形だと思い込んで、ずっと次の幸せに踏み出せないでいる。とっても無駄な時間だわ。アナタのことを今では本当に死んでしまえばいいと思ったりするのだけど。もういなくても平気なのだから、どうせならできれば死んでいてほしいわね本当に。こんなことを願うわたしは本当にゴミみたいな人間で、今日も神様に愛されているわ。ゴミみたいな気持ちを抱いているほどに、わたしがこの世で無為に生きているという謎の原理を噛み締めるの。これは神様の愛。だってもうわたしを愛する人はどこにもいないもの。父母も、隣人も、みんな死んでしまって、わたしが生きていることを愛さなくなってしまったわ。だからもうわたしを愛してくれるのは、わたしを生かしている神様だけで。わたしにとってはもう、不幸を感じることを鈍らせることだけが幸せの定義なの。あなたがいないことはやっぱりとても不幸にしなくちゃいけないから。やっぱりちゃんと死んでいたら大手を振るって悲しむことができるでしょう?悲しむ資格なんかないけれど、もう遊んでくれなくなったアナタを、わたしはまったくこれっぽっちも愛してなんかいないのだから。きっとアナタが死んでもわたしは今日も変わらずに生きている。ご飯を食べ、寝て、ああなにも変わらなくて、発狂しそうで、わたしが死んだらまかり間違って、わたしアナタを愛していたことにならないかしらと思ったりもするの。わたしの身体を神様の生贄にして、臓器でもなんでも移植して、わたしが死ぬことでアベコベに貴方が生き返ったりしないかしら、なんてことを妄想して。そうしたらわたしはアナタに対してなんにも無力だったってことにはならないじゃない。アナタの幸せにまったく関係のなかったわたしが、最大の復讐をした気になって死ねるの。目一杯の恩を着せられるの。そうしたらわたしね、本当に幸せなのよ。わたしがアナタにとっていてもいなくても関係なくて、犬死だっていいわ。だってわたしやっぱりアナタに対して無力なわたし自身が嫌いだもの。思い通りになってくれないアナタとっても嫌。嫌いよ。支配欲だって言われても仕方ないけど。自分が嫌いなくらいで死んでいられたら、わたし本当に良かったのに。



 風に吹かれて飛んできたのは、湿っぽい片想いの恋文である。重い。真っ当な人間からすれば怪文書だ。相当なメンヘラ度である。付き合ったらマジで後腐れ悪い女に違いない。これは神社に行ってお焚き上げしてもらおう。


 「……おそろしい人間もいたものだ」


 恋愛、というか片想いはなぜ苦しいと感じるのだろうか。相手に対してなんら影響を及ぼすことができないという自認で自己効力感がいつまでも潤わないからである。そして人は恋愛が上手くいかないことと、自らの劣等感を重ね合わせてメンをヘラ散らかす。それらは別のものであるはずなのにだ。相手に対して効力がなければならないというのは支配欲ギリギリのことであるので、そこも冷静に見る必要がある。劣等感そのものを恋愛の成功体験だけで埋めよう、などというのも、筋道が違うように思えた。エゴイズムじゃないか。ああ、しかし俺もエゴイズムに浸りたい。人生にはタッパーたっぷり入ったアイスクリームを独り占めをして食べるような醍醐味が必要なのである。愛されたくて何が悪いというのだろう?


 この小説のテーマは愛とか書いたけど、しかし客観的にみるとやはり死でしか浮き彫りにできないような愛は愛ではないんじゃないかと思う。タッパーたっぷりのアイスクリームではない。呪いだ。愛とは共に生きることであって欲しいし、自分が死んで引き換えに誰かが救われるような場面、現実でどれだけあるというのだろうか。はっきり言ってゼロだ。死の瞬間が愛であるようなシーンにするのは現実としてはよほどの調節が必要である。俺は魔術でその調節をしようというのだが、はっきり言ってそんなことを考えるやつサイコパスである。調節ができる余裕があるなら生きることを考えるべきであり、自殺なんてのは世界に対して自己イメージを壊したくないという自己愛、ナルシシズムがよほど強いのである。愛せる自分じゃなくなったから死ぬっていうのは筋が通っているようには見えるが、どれだけ自分を理想高く見ていたいんだよ、脳味噌お花畑でポエムかよ、顔面を見ろと言いたい。その顔面がいいのかもしれないが。


 ともかく“死”そのものではなく“死ぬまでの過程”で、いくばくかの認識できる受け取ってもらえた愛があったならそれでいいではないか。それが現実的な考え方である。俺の文章だってもう少し受け渡されて嬉しい形に体裁を整えたいが、それにしたってクライマックスでカタストロフ的に死が訪れるシチュエーションがやってくる、なんて現実で思っているやつがいたら、それは頭がおかしい馬鹿であるというか、宗教か物語に洗脳されている。物語の弊害だし、公正世界仮説とかに汚染されている。物語を読ませるよりも、もしもこの小説を読んでいる人でそんな洗脳にあっているやつがいたら緊急に早めに目を覚ましてもらいたい。お前専用の特別な死に方なんてものは訪れないし、人は死期を選べないし、選ぶべきじゃない。お前の人生に一貫性なんかなくていいし、一貫性をもって終わるのは物語だけで充分だ。一貫性のないものに物語を見ている貴方の主観は尊重するが、受動認知仮説というものである。貴方自身の主観の人生でさえ、“そういう見方もあるかもね”程度のものだ。というか今現在暗い気持ちで人生歩んでいるなら、明日のメシのことでも考えて、明日は自分のポジティブな所を拾って、違う見方で生きてくれ。ネガティブな方向へしかいかない積み重ねた文脈を破壊しろ。人生に必要なのは意味ではない。勢いだ。意味というのは角度の問題であるからしていつでも人間を裏切るように出来ている。勢いに身を引き裂かれそうで立ち止まりたい時もあることは察するが、耐えろ。だいたい、あの世に自分専用の天国も地獄もないのである。そういうエゴイズムのわがまま通りに世界が存在していると捉えてはいけない。この世だって道路はみんなのものでみんなの税金で賄われている。ともかく天国も地獄もこの世にある。あの世に信じているなら人に何を言われようと信じ続けるだろうし構わないしこっちくんなとしか言えないが(俺に強要する必要はないし、俺はあなたの天国と地獄に関与する存在ではないはずだし)そんな振り分けをするインフラがあるなら、どんな科学、或いは有機的な化学のシステムで出来ているというのか。インフラというのは人の意志と知恵、生きているものの努力によって築かれるものである故、我々の現世についぞあの世のインフラを作っている人の話を聞くことがなければ存在しないのである。どうしてもというなら、機械仕掛けの神、デウスエクスマキナ、そういったものを生きている我々の知恵で作るしかない。だいたい我々が振り分けられているのは質量とエネルギーである。そこに魂もあると仮定して、仮説でしかないがとりあえず持論はあるので展開してみよう。


 まずは我々は質量の塊である。ここに疑いの余地はない。そういうわけで魂というのは重力そのものに紐付けられているものなのではないかと考える。我々の心は基本的にネガティブだ。放っておけば下に下にと流される。だからポジティブになれと言っておいてなんであるが、重力に従うものであると想像できる。と、ここで、というかもしかしたら重力そのものなのではないかと俺は考えた。魂の重さは21グラムであるとかいう、アレは与太話だというが、逆に考えるのである。“質量を持つものは全て魂を持っている”としてしまえばいいのではないか。さてじゃあこの世の最大の重力、いや正確にいうなら引力とはなにかといえば地球である。我々は引力を通して地球が見ている夢なのではないか?引力を通じたクラウドみたいなものが我々なのではないか?それだと我々は通じ合っているみたいだが、引力はほとんど横方向には向かわないから我々は孤独なのである。ここが日本ならブラジルの人とは逆に繋がれるかもしれない。俺の無意識はブラジル人?ここまで論理を飛躍するのはオカルトではあるが、しかしともあれ魂は引力であるという、この仮説に基づいてさらに思考実験をする。だがまずここで引力という言葉を一旦質量へと戻すことにする。あえて誤った思考実験だ。読まなくていいので次の◆まで飛ばしてほしい。


 魂を質量、まあ物質として、あり得ないデタラメな話だが、完全な真空無菌室の密閉空間の箱の中にブタだけを入れよう。何故かこの空間ではブタは生きられるものとする。ブタは共食いをして死んだり生きたりしているが、そうすると取り敢えずその箱の中でブタの魂とやらはブタの質量の塊として振り分け続けられるはずだ。無限地獄の完成である。人の力のインフラで魂を振り分けることが出来た。さて次にブタと人を入れる。魂はブタか人、というかブタと人に混ぜこぜに振り分けることが出来るだろう。無限地獄の完成である。人の力のインフラで魂を振り分けることができた。ともかくそういう風に作っていくしかないことになる。憎いあん畜生の上司を殺したい場合には殺しただけではその塊はこの世、少なくとも地球上からは消えないだろう。宇宙に放逐しないと駄目だ。死刑囚も死刑にするほど徹底するのであれば、地球の外まで放逐するべきである。そうして徹底すれば、いつかは善人だけの楽園が出来るかもしれない。その中でもまた殺し合いが起こるだけなのだろうとは思うけれど。何故なら川底のない川を作ることが不可能なように、底辺の世界というのはあり続けるからだ。不幸をとりたてて取り上げて論ってみたって、この世の不幸の総量が変わるわけもない。我々は人間として地上に浮かんできているだけで運がよい。あるいは山に登ることもできるだろう。しかし、もしかしたら宇宙の果ての方に自分に向いている世界がある可能性だってなくはない。月にでも漂着すれば、しばらくは静寂の中で過ごせるだろう。ともあれまた地球に生まれたいかどうかである。さんざ異世界転生モノ流行っているし、よっぽど地球はdisられている。ここは異世界転生へのカウンターとして、地球に生まれるのを持ち上げた話でも流行ればいいのではないか。浮かばないが。というか俺もこの世に嫌いなやつが多かったので、嫌いなやつ全員を宇宙に放逐するのも面倒だから、宇宙葬を望みたい。マジでこの世界はナニ世界なんだろう。話が逸れまくっている。知識のない赤ちゃんがこの画面をみれば、白い画面に黒いシミがあるだけであるはずだ。シミ世界だ!俺はシミをたくさん書いたぞ!


 ◆


 話を元に戻そう。しかしこの思考実験が成功してしまえば、或いはアニミズムを信仰する未開の部族がワニを食ってワニの魂が自分に宿ると信じるのと変わらない話になってしまうのである。仮に肉体全体のターンオーバーが終わる期間までワニを食い続ける実験をしたって、俺はそれで人間の魂を失い、ワニの魂が得られるなどとは思えない。読者の皆様にしたって直感的にそうである筈だ。俺の中にも猫の魂がマジであるかもしれないことになってしまう。いや猫食ったことはないが、この俺の肉片に猫の質量だったものが毛玉ほどぐらいには紛れているかもしれないからである。一次的なものではなく、二次的以上には離れた形で俺は質量的には猫な筈だ。それでも俺の魂に猫成分が入っているなどというのは猫をバカにするにも程がある。間違っても皆さまにおきましては猫だけを食い続けたら猫になれるとは思わないでいただきたい。猫アレルギーになる。


 ということで、もうお分かりでしょうが、消去法で魂は質量(物質)ではなく、引力の方にある。とにかく現状引力というものは、魂と同じで不明なものだ。少なくとも魂の性質である。つまり置き換えてもたいして問題はない。なにがどう問題でないかというと、俺が詐欺な人間だとしてバレようがない。広辞苑にでも載せるなら、引力の方に魂と書き、魂の方に引力と書けば循環させることができるし不都合もない。言葉なんていうのは近似の概念が雲の様に集積されて体系化されたマトリクスに過ぎないし、不明なものと不明なものが近似というか等しい可能性は大いにあるだろう。やった!俺は魂の発見者である!


 さてこの小説はいったい全体いつになったら愛の話をするのだろうか。いやはや愛というものが引き合う力であれば引力には違いあるまい。足の引っ張り合いである可能性も大いにあった。こうして文字を読ませて読者の生活の無駄であることそのものやもしれぬ。とかく人生は己と他者に対して諦観を必要とした。そんなものを果たして愛と呼んで良いのか、俺はまだ知らない。

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