第4話シュレディンガーの捨て猫


 「吾妻くん、人は人の社会で利用される概念を選り分けて知識で物を見ているし、知識で人になるの」


 森井夜鶴は美人の先輩だが、言っていることがけっこうわからない。日差しの眩しい通学路には、雀がチュンチュンと鳴いていた。


「なんですか、やぶからぼうに」


「けれど、たとえば同じ赤い物に対する知識があっても、色盲の人には灰色に見えていたりする。どちらが正しいというのでもなく、便宜的に同じ概念を共有していても、どういう見え方をしているかなんて本当の所はわからないわ」


「まあ、そうですね」


「物の本質が変わらなくても、人によって物の見え方は変わってくる。もしかしたら、物の本質なんていうのは揺らいでいて、物が持つ可能性を引き出すのは観測者の方かもしれない。同時に、可能性を集束させているのも観測者かもしれないわ」


「シュレディンガーの猫、好きですね」


「私達は知識で人の精神と自意識を保っているわ。けれどそれは、きっと突き詰めればとてもあやふやなものよ」

 

 そう言うと、先輩は宇宙人みたいに微笑んだ。朝の通学路でする話なのだろうか。


「まあ、世の中先天的にミームが溢れていますからね。そういうミームに汚染されて、自分の本来の感性に気付けない人とか、鈍っちゃう人もいるかもしれないことはわかりますよ?夜鶴先輩みたいに」


「いうわね吾妻くん」


「まあ、正確な認知を持つと、人間うつ病になるらしいですからね。先輩の論でいうと、可能性が集束されすぎちゃってて、もう雁字搦めで未来がないなー、とかなってると鬱になるのかもしれませんね。沢山お金貰ったらうつ病治るって話もありますし。現金なもんですね正に」


 僕はネットで聞きかじったことを適当にならべてみた。

果たしてお金で人の可能性は拡がるだろうか、と、ふと思う。正確な現実の報奨にしか救われない人間は、それはそれで創造力がなくて、余剰価値を生めないつまらん人間のような気がする。根本的に真面目でバカをやれる器がないのである。バカをやれるというのは、つまり自分は無駄なことに対する支払いをする気がありますよ、仲間に貢献できますよ、というアピールであり、決して息の詰まるような正しさだけでは結束してはいませんよ、という不完全な自分達への――――


 わぶち!


空から人が降ってきた。


 「あいたたた、トキオカの野郎、いきなり俺をゴミ箱に捨てやがった。なんの恨みが」


 「どうやら此処はゴミ箱の中らしいわね、吾妻くん」


 「なにを冷静に。どなたかは知りませんが、大丈夫ですか?」


「辛うじて生きているので大丈夫ですが、なんか男女二人の会話に混ざるとかちょっと自分ムリなんで、上の世界に帰る方法知りませんか?」


 書いている本人すら知りえようがなかった。俺は第4話は“わぶち”のところまで別の小説だったものを、無理矢理この不思身ちゃんのエンディングノートに繋げたが為に展開は考えていなかった。その小説にしろ、この小説にしろ行き詰まっていたし、ならばせっかく書いた文字数だけは活かそうと、ゴミとゴミをドッキングさせただけだ。完全なゴミを読者に読ませるつもりもなかったが、苦肉の策、というやつである。けれども繋げた瞬間からもう秒で繋げられる気はしていない。登場人物にシラを切らせる体力も尽きていた。


「どうしましょう吾妻くん、わたしの知識ではこの方の言っている意味がわからないわ」


 だが、森井夜鶴は小説の中の人物たろうと形だけ努めた。吾妻にもそうさせる。


「いやもう知識で現実を見ようとするの辞めましょうよ夜鶴先輩。たとえば夜鶴先輩の絵のデッサンとか観ていれば、俺はいかに夜鶴先輩が現実を観ないで知識だけで絵を描いているかわかりますよ。光と影の境目の稜線って濃くなるよねって知識だけで描いているから、夜鶴先輩の絵はいかにも絵です〜って感じで、わざとらしくてなにも見ないで描いているのがマジ丸わかりなんですよ」


「痛い所を突いてきたわね吾妻くん。けれどその話は今ではないわ。貴方、ええと、お名前をなんておっしゃったかしら?」


「トキオカ山田次郎内山橋上です」


「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ?」


「違います。名前は人として最初に与えられる祝いであり呪いなので伏せております」


「思いつきでよくわからない拘りをみせないでくれるかしら?貴様に名乗る名などないということかしら?」


「いや、お母さんが知らない人に名前を教えちゃダメって」


「けれど上の世界とやらに帰らなければならないのでしょう?名前を知らない方に親切に協力するぐらい訳はないですけれど、物語的な便宜上、進行に便利だから必要なのよ」


「なるほど。これから長い関係になるとでもいうのか。つまりは結婚だな?」


「吾妻くん、この童貞、手に負えないわ。無視しましょう」


「待ってください夜鶴先輩。僕たちまだ自己紹介していません。人に名前を訊くならまず自分からです。なんか本当にここまで引っ張られるとイラッときますが」


「必要かしら?会話の流れでわかると思うのだけど。こっちはお互い呼び合ってるんだから勝手に悟れやダボナスって気持ちしかないわ。もしも吾妻くんのいう理由で頑なに名乗らないのならクソ面倒くさいわこの主人公。吾妻くんに似てるわ」


「待ってください夜鶴先輩。理不尽なダメージをこっちに飛ばしてくるのは夜鶴先輩が美人なアマだから百歩譲って許しますが、その発言はまたこいつのメタな語りがオンになります。僕がこいつに吸収されて統合されるのでやめてください。バイオハザードかなにかの類いですよコレ」


「吾妻が似ているなら吾妻マークIIで我慢してくれよう。帰りたいよう」


 俺は本当に現実に帰りたかった。やる気のないまま書き進めてもクオリティは目に見えて下がるばかりである。だいたい脈絡のない内輪ノリの罵り合いなりノリツッコミだけをいきなり文字として書き連ねてみても、自分でもよくわかっていないし薄ら寒くなるだけだ。今更メタな語りを止めるわけもないのに、誰が貴様を統合してやるものか。


「帰る場所いるのかしら。どうせスターバックスで執筆しているとかではなくて家でポチポチこの文字も打っているのでしょう」


 スターバックスのコーヒーに失礼であるが、もしかしたらコーヒーに恥じない文章を書ける可能性は1ミクロンあるかもしれ……いや、絶対に集中できない。今も文字だけの女を登場させただけで集中ができないし、女に対しては永遠にどうでもいい話で話を逸らせ続けていたい。あれ?それは好きってことかもしれない??


 「ちょっと吾妻とやら、俺を投げるかして上の話に戻れないか試してくれないか?」


 「無理を言わないでくださいよ。執筆が横書きとして、小説の位置エネルギー的に下に落とす以外無理です。もし万一文庫になったならば左にしか貴方は進めません。ここはゲームブック的にダイスを降って指定したページに進む方式を採用しましょう」


 「いや、なんか根本的にシナリオから逃げられている気がしないし、そういう仕掛けは初めから用意しないと駄目なんだ。なんとか書き換えるまでの経緯を残しつつ書き換えました、みたいな体裁にできないだろうか。同じ文章繰り返すのはさすがにアレだしなぁ」


 俺は涼宮ハルヒのエンドレスエイトのことを思い浮かべていた。アニメで同じシーンを別角度で描き続けて伝説になったやつ。


 「根本的な疑問としてですね、この世界のこの“話”の何が不満なんですか?美人の夜鶴先輩がいるのに?都合のいいものをもっとホイホイだせばいいじゃないですか?羞恥心が今更どこかで仕事をしているのでしょうか?」


 「俺の羞恥心は油を売る天才でな。とにかく何もかもが不満だよ。“美人の”以外描写ねーじゃねーか。美人を描写しようという言葉の解像度もこだわりも足りねえ、そもそも何が悲しくて文字だけのものに、いや挿絵を描けばいいかもしれないが、そうじゃないな。なんだろ。とにかく俺の描写力が不満だ。魔術の冴えだな。あとスポーツ選手じゃない」


 「そのスポーツ選手好き設定まだ引きずってたの?もういいわ吾妻くん。魔術とか言い出したこの人の電波と自分探しに付き合ってあげる必要はないわ。これ以上私こんな奴に台詞を言わされるのも耐えられない。女としてもっとすごいボロが出る前に学校へ行くべきな気がするわ。ボロを出していいのは現実の女だけよ。中の下くらいの美人でも美人と認めてくれる世界でしか私生きられない」


 「ふうむ学校か、では何か転校生的なものとして俺も随伴しよう。ここまで読ませて弟子になってくれる読者が現れないとはいやはやである。正直な話、この小説は素人だけど小説作法に安全圏から物申したい教えたがりおじさんの話なんだ。魔術とこれまで書いてきたがいやもう面倒臭い、小説作法の暗喩だ。弟子の小説作法を痛くない所から的確に気付いた所だけdisったり褒めたりして、有名になった時に〇〇は俺が育てた!とドヤ顔したいだけのおじさんの話だ。この小説が小説の体裁であるかは無論棚にあげる。小説は幅広いのだ」


 「うわあもうこいつ面倒臭い。自己肯定をする投資の仕方が迂遠に過ぎるやつだ。困る。子供は貴方の玩具じゃない!夜鶴先輩が変なこと言い出して限界なので僕としても夜鶴先輩に従うしかないですね。そういうわけで、ついてくんな、かえれ」


 「そんな捨て猫みたいに邪険にしないでも。帰りたいんですよ俺も。あ、シュレディンガーの捨て猫とかどうですか?」


 「なにがどうか知りませんが、段ボール箱に包まれて夜露に濡れていてください。あげますから」


 どこからともかく俺には段ボールが被せられた。


 「にゃ、にゃあー」


 そして俺は取り残され、俺の猫の鳴き真似だけが虚しく響いた。段ボールから覗く天の空は晴れ模様から曇天に変わりつつあったが、ついぞ描写力という名の魔術の力は降って湧いてくる様子はなかった。

 

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