ないものねだり

長月瓦礫

ないものねだり


遠い昔のことです。とあるお屋敷の鏡の中に、魔女が住んでいました。

元々はこのお屋敷の持ち主だったのですが、共に仕事をしていた悪魔を怒らせてしまい、鏡の中に封印されてしまったのです。


そのことを哀れに思った町の人たちは、彼女を助けるために屋敷を訪れるようになりました。


ある日、肉屋のご主人が金の皿に盛った羊肉を持ってきました。

魔女に少しでも気に入られようと、お土産を持ってきたのです。

ほどよく茶色の焼き目がついたそれは、見るだけで食欲をそそりましたが、魔女はそれをひっくり返しました。


「こんなの食べられるわけないじゃない!」


鏡の中から出られないのですから、何かを飲み食いすることはできません。

怒った魔女はご主人の体に火をつけて、丸焼きにしてしまいました。


次に、古本屋の店主がボロボロの青い本を彼女に見せました。

有名な魔術師が書いたその本を使えば、悪魔の魔法を破り、鏡から出られると思ったのです。しかし、魔女は言いました。


「こんなの読めるわけないでしょう!」


鏡の世界にいるので、何もかもが正反対に見えたのです。

もちろん、本の文字も逆さに見えたので、読めなかったというわけです。

本屋の店主は大きい本に押しつぶされ、ぺちゃんこになってしまいました。


魔女は訪れた人々を容赦なく殺したものですから、次第に足が遠のいていったのは言うまでもないでしょう。


黒い傘を持ってきた人は皮と骨だけになって傘のように開かれた。

黄色い果実を持ってきた人は庭の木に串刺しにされた。

菫色の壺を持ってきた人はバラバラに砕け散った。


訪れる人たちの死に様を見て、町の人たちは愛想をつかしてしまいました。

せっかく助けてやろうとしているのに、こんな酷い目に遭うだなんて。

こんなに性格が悪いのでは鏡に閉じ込められて当然だと、人々は話し始めました。


ある日、青年が屋敷を訪れました。

彼の手には、小さな紫色の鏡がありました。


「鏡に鏡を渡すなんて……おもしろい人だわ」


彼女は初めて笑顔を見せました。

給料を必死に貯めて買ったものだったので、少しだけ誇らしく思いました。


「私ね、嘘つく人が大嫌いなの。演奏家や運送屋、掃除夫とかね、いろんな人たちが来たけれど……みーんなダメだった。貴方は何者かしら?」


一瞬だけ言い淀んで、ハッキリと言いました。


「私は物書きをやっているのです。名乗れるような名前もありません。

世界中に知られるような物語を出すことだけを夢見て、今を生きています」


「あら、正直者なのね。嫌いじゃないわ」


魔女はおもしろそうに手を叩いてみせました。


「ひとつだけ、聞いてもいいですか?」


「何かしら?」


「どうして、鏡の中に閉じ込められたのですか?

悪魔と魔女は契約関係にあり、反逆行為は許されないと聞きました」


魔女は腕を組んで見せ、しばらく黙りこみました。


「いいわ、物語の種くらいにはなるんじゃないかしら。教えてあげる」


緑色の匙を取り出して、左右に振りました。

悪魔と契約していたのは確かですが、彼に恋をした使用人がいました。


魔女と言えど、彼女もひとりの人間です。

根も葉もない噂は使用人の心を燃やす燃料となり、覚束ない術式で魔女を鏡の中に閉じ込めてしまったのです。


そして、仕事を続けることができなった悪魔は彼女を見捨て、屋敷を去りました。

魔女を閉じ込めた使用人の行方も分からず、彼女だけが取り残されたのです。


「本当に仕事だけの関係だったんだけど、嫉妬の炎って怖いわよね」


「じゃあ、どうすれば、あなたはここから出られるのです?」


「何か勘違いしているみたいだから、言っておくけれど。

この中の世界も悪くないのよ、意外とね」


鏡の中は何もかもが正反対です。

生きている者はおらず、時計の針もすべて止まっているのです。

こんな静かな世界もないのでしょう。煩わしい物は何もないのですから。


「そんなに私を出したいのなら、ある物を探してちょうだい」


「ある物、ですか」


「それがこの世界から抜け出す鍵になるの。

それは椅子にあって、机にはない。

それは右にも左にも下にもあるけれど、上にだけないの。

それは太陽にも月にも星にもあるけれど、空にはないわ。

それは私にあるけれど、貴方にはない。何か分かるかしら」


一気に言われてしまい、青年は面食らってしまいました。

いつも持ち歩いているメモ帳に、言葉を整理します。


「それは左右、どちらにもあるものですか?」


「左右なんて一緒くたにまとめないで、どちらか一方に決めたらどうかしら?」


「それは僕にもありますか?」


「考えようによっては、持っていると思うし、持っていないと思うわ。

ただ、あの悪魔は持っていなかったようだけれどね」


「それは今、ありますか?」


「今はあるわ。過去にはないけれど、未来にもあるの」


メモを書きつけて、頭の中を整理します。

小説家らしく、ペンを走らせるのです。


しばらくして、青年は目をカッと見開きました。

彼女にも読めるように、鍵を鏡文字にしてメモ帳に書きつけました。


「あなたの探しているものは、これですか」


「正解! さすがだわ、よく分かったわね!」


魔女は嬉しそうに匙を振りました。

鏡は溶けてなくなり、骸骨がばらばらと落ちてきました。


鏡の世界はすべてが正反対です。

生きている者はおらず、時計の針もすべて止まっているのです。


青年は膝をついて、骸骨と紫の鏡を見つめることしかできませんでした。


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ないものねだり 長月瓦礫 @debrisbottle00

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