水曜物語

高秀恵子

水曜物語 (第31回ゆきのまち幻想文学賞 落選作品)

「頑張れよ! 当たり前だけど、どんなに厚い雲がおおっていても、その上には太陽が輝いているのだよ。明けない夜はないんだから」

 田中幸雄(ゆきお)先生が星野零士(れいじ)くんにこう話されたのは、星野くんが小学校6年生の、雪の日水曜日でした。その日以来、星野くんは幸雄先生に一度も会ったことがありません。


 火曜日の夕方から降っていた雪が、暖かいこの地方では珍しく、大きな雪だるまが何個も作れそうなほど、たくさん積もりました。

 星野くんのお母さんは言いました。

「こんなに積もったのじゃ、バスが走っていなくてお母さんは仕事に行けないわ。でも病院では患者さんが待っているから休めないのよ。歩いて職場まで行かなくては。あんたも早く家を出なさい。給食代わりの弁当作ったから」

 星野くんはお母さんと2人きりで暮らしています。お父さんは病気でずいぶんと前に亡くなりました。

 星野くんはお母さんに急かされて、家から追い出されるように学校に向かいました。

 外はぶ厚いまっ白な布団を敷き詰めたように雪が積もって、歩道と車道の区別がつきません。冬でも緑の葉をつける街路樹が雪の間から黒茶色っぽい葉を出しています。空は厚い雲でおおわれていました。

 星野くんは雪の中を進みました。お母さんが大きな長靴やコートを用意してくれたので、寒さは感じませんでしたが、それでも慣れない雪のため歩きづらいです。めったに雪の降らない街なので、スノータイヤやチェーンを持っている人がいないせいか、雪の上に車輪の跡もありません。登校しようとしているのは星野くんただ一人です。きっと学校は大雪のためお休みだろうと星野くんは思いました。

 星野くんは、とっても勉強ができる生徒です。背が低くて体育こそ苦手でしたが他の科目はいつもいい点数を取っていました。手先が器用なので図工や家庭科の作品も上手に作ります。同級生たちは星野くんに一目置いていました。

 そんな星野くんでも、大雪の日にお休みかもしれない学校に向かうのは大変苦痛です。

(お母さんかお父さんが家にいればなあ……)

 星野くんはそんなことを考えながら学校へ向かいました。どうせ家にいても一人だし、家も学校も同じです。星野くんの気持ちは、まっ白な雪とは反対に暗闇です。


 やっと学校にたどり着きました。星野くんは靴を履き替え教室に向かいました。教室の暖房のスイッチを付け、お母さんが準備をしてくれたタオルで濡れた服や足を拭き、靴下とズボンを履き替えました。少し暖かくなりましたが星野くんの気持ちは晴れません。

 実は星野くんにとって学校は、ただ楽しいだけの場所ではなかったのです。

 同じクラスには私立の名門中学校に進学する生徒が何名かいます。3学期になってから、入試を理由に学校を休む生徒もいました。そういう生徒は学費のかかる遠くの塾に通って特別な勉強をしています。星野くんは受験も私学進学もしません。明らかに星野くんより成績の良くない生徒も塾へ行って有名進学校を受験しているのをみると、星野くんはうらやましくなります。星野くんはお母さんに相談しましたが、お母さんは全く聞く耳を持ちません。

 星野くんの夢は科学者になることです。数学や情報関係の学者になるのか、それとも宇宙や天文を研究するのかはまだ決めていませんが、いずれにしろ一流中の一流の大学や大学院へ進学する必要があるのは確かです。

(僕は大学へ行けるのだろうか? お父さんがいないと、将来は勉強時間をけずってアルバイトしなけりゃ大学へは行けないのだろか)

 星野くんは誰もいない教室で泣きそうな気持ちになりながら教科書を取り出しました。  

 そのときです。教室のドアが開いて、見たことのない若い男の人が教室へ入って来ました。その人は、何の特徴もない、平凡な顔立ちでした。ここの学校の先生方がよく着ている白い上着をこの人も羽織っていたので、たぶん先生なのだろうと星野くんは思いました。その人は言いました。

「なんだ君は! 教室で一人で」

 星野くんは恥ずかしくなりながら手短に理由を話しました。先生と思われるその男の人は、優しい笑顔で言いました。

「君が星野零士くんだね。6年生で勉強がとてもよくできるって、職員室でも話題になっているよ」

 星野くんはますます恥ずかしくなって顔を赤くし、黙ってしまいました。

「先生のことを知らないんだね。先生の名前は田中幸雄だ。1年生を教えている。1年担当の先生で大けがをして入院された先生がいたよね。その先生の代わりに来た、臨時教師だ。皆には幸雄先生と呼ばれている」

 先生は自分の名前を書きながら、そう説明されました。星野くんはますます恥ずかしくなります。ひょっとして校長先生が朝礼で幸雄先生を紹介して下さったのに、星野くんはその時も、先生の話も聞かずに宇宙のことや数字の不思議を考えていたと思ったからです。

「教室は寒いだろ? 用務員室へ行って、ストーブに当たろうよ」

白い服を着た幸雄先生は、そうおっしゃいました。


 案内された畳敷きの用務員室で、星野くんは算数や英語の自習をしました。幸雄先生も書類を広げたりノート型PCに向かったりして、仕事をしています。全く静かで、星野くんがノートにシャープペンシルを走らせる音や幸雄先生がキーボードを打つ音だけが響きます。

 お昼ご飯の時間になると、幸雄先生は星野くんにカップラーメンを作って下さいました。星野くんにとっては久々のカップラーメンです。何しろ星野くんのお母さんは忙しいときでも即席のラーメンは健康に悪いと言って食べさせてくれないのです。カップラーメンの白いスープのおいしさが忘れられません。

「さあ、食事も終わったから腹ごなしに面白いところへ行かないか?」

と、幸雄先生はおっしゃいました。

「どこへ行くの?」

星野くんはたずねました。

「6年生の教室は最上階の4階にあるだろう? あそこには火事などのときに使う、非常用脱出袋があるんだよ」

 星野くんはびっくりしました。6年間も同じ小学校に通っていて、そんな話を聞くのは初めてです。

 見慣れた6年生の教室のある4階の廊下へ先生と二人で行きました。廊下の片すみには、『非常用救助袋』と書かれた、スチール製の箱があります。普段は好奇心旺盛な星野くんも気に留めたことのない箱でした。幸雄先生は鍵も使わずにその箱のドアを開けました。少しすると、白い筒型の長い布袋が、校舎の外へ飛び出しました。筒袋の先端は雪の校庭の上にあります。

「火事のときには、この袋の中を通って下へ逃げるんだ。避難訓練では生徒がたくさんいるから使わないけど。星野くん、この袋を使って外へ出てみないかい?」

 星野くんはそう言われて、ちょっと怖くなりました。何しろ4階から庭まではかなりの高低差があります。袋の中を早いスピードで落下して尻もちをつくかも知れません。

「怖い? 先生が先に降りようか?」

「ううん。僕が最初に使ってみる」

 星野くんは勇気を出して筒型の袋の中に入りました。袋に入るとすぐに下へ落ちるものと思いきや、意外と中を通るのに時間がかかります。まるで白い闇に包まれているようでした。ようやく下まで降りると、星野くんの足とお尻は雪の中に落ちました。

「先生も降りて来てよぅ」

 袋から出た星野くんは幸雄先生に言いました。

 幸雄先生が袋から出て来て、星野くんは雪の中で二人きりでした。校庭は雪だるまを作るような低学年の生徒もいないので、雪がきれいに一面に積もっています。

「そろそろ家に帰ろうよ。雪が止んで太陽が出ているからね。本当なら家まで送ってあげたいけど、先生は車を持っていないし、この雪じゃ車があっても送れないし」

 それから幸雄先生は星野くんを校門まで送りがてらこうおっしゃいました。

「頑張れよ! 当たり前だけど、どんなに厚い雲が覆っていても、その上には太陽が輝いているのだよ。明けない夜はないんだから」

 これを聞いて星野くんはおかしく思いました。地球は太陽の周りを公転し、地球は自転しています。この先生は低学年を教えているから地動説ではなく、天動説みたいなことを言うのだろうか……星野くんは幸雄先生の言葉を聞き流しました。道に積もった雪は解けかけて滑りやすくなっています。


 翌日、正常通りに学校の授業は始まりました。星野くんは幸雄先生を探してみましたが見つかりません。同じPCクラブの下級生にもたずねましたが誰も幸雄先生を知りません。

 幸雄先生は星野くんの卒業式に出席されなかったし、卒業アルバムにも写真はありませんでした。今でも幸雄先生の行方は分かりません。そして先生の顔も思い出せないのです。

 

 星野くんは15歳になりました。星野くんが辛くなったとき、悲しいとき、心が醜くなったとき、今も幸雄先生の「頑張れよ! 当たり前だけど、どんなに厚い雲がおおっていても、その上には太陽が輝いているのだよ。明けない夜はないんだから」という言葉が、星野くんの心を温めてくれるのです。(了)

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