月皓

霞花怜(Ray Kasuga)

月皓

月の光が浩々と、夜風は静かにさらさらと。


もう木戸も閉まろうという時間に橋の上で男が一人、川のせせらぎに耳を傾けていた。

着流しに一本の長刀。

総髪を結っただけの浪人風のその男が、

人気も疎らな小橋の上で項垂れるように立っている。


帰る場所がないわけではない。


ここから程なく歩いた棟割長屋に彼の棲家は確かにある。

ただそこに自分の帰りを待つ人はいない、というだけだ。

ほんの少し前までは、確かにそこに彼女はいた。

妻、と呼べる存在だったかは解らない。

身寄りの無い者同士が身を寄せ合って暮らしていた。

それだけのことだ。

しかしその生活は、総てを失った彼の心を満たすのには充分だった。


彼女は気の利いた聡明な人であった。

何故一人であんな労苦の生活をしていたのか聞いた事はない。

彼自身も、何故こんな生活に身を落としたのか話したこともない。

それでも二人の生活は貧困ながらも慎ましく、

互いの失ったものを補うには充分だった。


それもこれも、彼女のお陰だ。

何とか稼いだ日銭を元に、その生活をやりくりしてくれていた。


そんな彼女の身体を病魔が蝕んでいたことなど、

彼は最後の最期まで知る由もなかったのだ。

「何故、一言も、何も告げずに」

枯れた声が風に攫われて消えてゆく。

もう何度その名を叫び続けたことか。

その亡骸を抱いて、どれだけ泣いたかわからない。


部屋に横たわる、もう二度と目を覚ますことのない女性を

ようやく埋葬する決心がついたのは、

彼女が眠りについてから何日も後のことだった。

その帰り道、彼はこの橋の上で家路に着く足を止めた。

あの人の居ないあの家に戻ることなど、何の意味があるのだろう。


いっその事、共に逝けたなら。


過ごした時は短くとも、自分の人生の中であれほど充実した時間が

今までにあっただろうか。

思えば思うほどその想いは募り、彼の心を深い淵へと追いやった。


「もし、お前様」

掛けられた声に、ゆっくりと垂れていた頭を上げる。

そこに居たのは、紛れも無くその人だった。

「どうして」

呟いた言葉は、喉の奥に詰まって声にならない。

確かに今日土葬したはずの彼女が、そこに立っている。

これは夢か、幻か。

そんなことは、どうでも良かった。

男は彼女に駆け寄り、その身体を力一杯抱きしめた。

「お前様」

女は懐かしさの残る声でそう呼ぶと、男の胸に顔を埋める。

男は、ただただ彼女を強く抱きしめた。


これが夢でも幽霊でも構わない。


最期にたった一人で逝かせてしまった、その詫びを伝えなければ。

男が言葉を告げようとしたとき、彼女は優しくその顔に微笑を向けた。

「地獄のような生活から貴方様は私を救ってくださった。私は貴方様と出会うことができて幸せでした」

「しかし俺は、お前をたった一人で」

後悔の滲み出た表情に女は小さく微笑んで、

「お前様はきっと、後悔していると思っておりました」

懐から一つの櫛をを取り出した。

それは彼女の好きな花の飾りをあしらった櫛だった。

少ない稼ぎをこつこつと溜め、ようやく買えた安物だったが

彼女は大層喜び大事に持っていてくれた。

遣わなければ意味がないと何度も口説いたが、

勿体無くて使えないと大切に持っていた。

「この櫛は、ずっと懐に入れていたのです。私がこの世から消えたあの日も、これは私の元に在りました。私は一人ではありませんでした」

女は彼の手の中に、そっとその櫛を握らせた。

「私は最後の最期まで、お前様と共に在ったのですよ」

男は櫛を握り締めたまま、女の身体を引き寄せた。

「本当に、済まなかった」

泣き通したその声は言葉を紡ぐには限界をこえていた。

女はまた微笑んで、

「謝るのは、よしてくださいな。これでは安心して眠れませんよ」

そうして男の瞳を見つめる。

瞳の色が男に静かな寂しさと、少しの安堵をもたらした。


「ありがとう。お前がいてくれて、幸せだった」


女は満面の笑みを浮かべた。

「お前様はどうかどうか、幸せになっておくれなさいな。それが私への供養になると思って」

女は男の胸に顔を添える。

男は優しく、その肩を抱きしめた。

彼女の懐かしい髪の香りか、ほのかに香る。

静かな川風が二人の間を流れてゆく。

男は目を伏して、もう温かさのない女の肩を、ただただ抱いていた。


ふと目を開いたとき、男は橋の上で一人立っていた。

周りに人影はない。

女の姿は既に消えていた。


あれは幻だったのか。

しかし、その右手には、あの櫛がしっかりと握られていた。

男はそれを握り締めたまま、その場にうずくまり、涙を流した。

もう言葉など出てくる筈もない。

しかし、男の心には彼女の言葉が、しっかりと刻まれていた。


忘れることなどない。


そう心の中で呟いて、その櫛を力強く握り締めた。

夜の闇が一つの小さな幻を彼の元に引き寄せた。

男は毅然とした表情で立ち上がり、懐かしい香りの残る家へと歩き出した。


月の光が浩々と、夜風は静かにさらさらと。

夢か現か幻か、確かに在るのは揺らぎ惑う人の心の深き想い。


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月皓 霞花怜(Ray Kasuga) @nagashima

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