第2話 私は、また忘れていく2
―――その日は何かによって目を覚ましたわけでもなく、ぱちりと目が見開いた。
窓からの光を微かに遮る絹布は少し開いた窓から入り込んだ風に揺れている。
肌に触れる生暖かい風はブーミュ地方特有の温かさを感じさせ、心地がいい。
うん、いつものような優雅な昼だ。
私はわざとらしく、「よっ」と声を出して、ベッドから降り、自室に設けられた鏡で寝癖を整える。
だって、このままだとスミカに笑われてしまうもの。あいつに笑われるのだけは嫌だ。
髪を直し、あくびをしながらドアを開けると、宿の中はやけにしんとしている。
いつもなら冒険者や修道僧なんかが騒がしく階段を来たり下りたりしているのに。
私は不思議に思いながら、こういう日もあるんだなぁなんて呟き、下の階へと降りていく。
今日はスミカと何を話そうかしら。
昨日はスミカが武器屋の馬鹿息子が好きだなんて告白するから、からかったけどそれはもう過ぎたことだ。
いっそのことだから、スミカには一昨日におめかしで着ていたスカートが実は破れていたことでも話そうかしら。
きっと、あの子は顔を赤くして、乙女の恥だわ、純潔さが失ったじゃない! なんて演劇のように言葉を吐くに違いない。
そしたら、私は武器屋の息子が好きな時点で純潔は失っているとでも言おう。スミカは宿の仕事を放棄して口論してくれるかも。
だとすれば、武器屋の息子の話はまだ捨てられない。
私は鼻歌交じりに階段をどんどん下っていく。
静かな宿。昼食の匂いはなく、光に塗された埃が宙を舞っている。
長い階段の終に、私は記念に両足で着地すると、寝起きの乾燥した枯れ声で叫んだ。
「ねぇ、スミカったら聞いてよ!」
私は少し歩を進ませ、受付に顔を出す。
スミカは宿屋の娘で、いつも受付で気怠そうに仕事をしているのだ。もう何度も見たあの横顔は筆さえ渡してくれたら、その様子を完璧に書くことができる。
しかし、部屋を出た時と同じで、受付もしんとしていて、壺の中に入れた私の声が還るようにただ、こだましている。
「スミカ?」
私は無意識に声を出し、受付の裏を覗いた。
けれども、やはりそこには誰もいなくて、声もしない。
もしかすると、食堂なのかな。まだ昼食でも食べているのだろうか。
あぁ、きっとそうだ。スミカは成長期真っただ中の乙女と自分で豪語しており、食の細いあんたの十倍は食べるって言っていた。
食の細いとは言うけど、私だって自分で言ってあれだけど、結構食べるほうだ。
だから、スミカがその十倍も食べるなら、屈強な冒険者の食糧量に相当するはず。
なんて、恥ずかしい乙女なんだ。可憐さの欠片もない。
けど、そんなことはどうでもいい。
私はあんまりスミカとは食卓に並んだことがないから、できるなら同席したい。
私も今日はいつもより腹を空かしているんだ。もしかすると、スミカの百倍は食べられるかもしれない。
腹の空きを自覚すると、より腹が減って、太鼓が一度鳴った。
「うっわ」
乙女の恥じだ。笑われる。
こうして私は自嘲しながら食堂へと向かうと、ガラス戸の入り口がいつものように開放的ではなく、半開きになっていることに気が付いた。
その隙間からは微かに鉄剣の錆びの匂いが漂い、それは食堂らしからぬ匂いだった。
もしや、珍味な食物でも食っているんだろうか。
―――とは考えに至らなかった。
この匂いが鼻についた瞬間、過去の思い出が蘇ったからだ。
奥底にしまわれて思い出すことすらも難しかったあの思い出が、蘇ったからだ。
血濡れの彼ら彼女らが私の目前に一瞬、映ったからだ。
「―――そ、そんなはずないよね……」
―――まさかだ。まさか。そんなはずはない。
もう二度と私の前に悪夢は蘇らないはずだ。
―――まさか。まさか、まさか。
動悸が速くなっていくのが感じられる。
ガラス戸に差し出した手は今に汗が滲み出て、呼吸が乱れていく。
―――まさか。まさか、まさか。
私は嗚咽しながら、戸を開け、できる限りの声で「スミカ」と叫んだ。
けれど、その声は空気のない世界に放り込まれたようで、虚無に吸収されていった。
私の目に映った世界は超現実的な展覧会だった。
―――宿屋を出て、町へと降りていく。
いつもは燦燦とした美しい街の光景が赤に染まっている。
石路にはぱっくりと頭が開いた人。剣で胸部を貫かれた人。首のない遺体。
優しい花屋のマチルも少し怖い武具屋のレノンもインチキくさい祈祷屋のハナヒもみんな死んでいる。
こんな私を受け入れてくれた人たちは余さずに死んでいた。
血で滑る通路は下れば下るほどに、屍の数は増えていき、日光で熟成されたその匂いに羽虫が漂っている。
―――何があったの。
目的は私を攫うことじゃなかったの?
私を攫うだけでよかったんじゃないの?
なぜ関係のない人まで殺すの?
自責するほどに意識が朦朧し、感情の奥底から、しまっていたはずの声が漏れそうになる。
それは吐き気に似ていて、胃酸が喉元で保たれているようで、苦しい。
やがて石路を下り、大通りが目に入ると、そこに人影が二つあった。
さっさと私は捕らわれればいいのに、どうしてか本能的に酒場の脇に出された大きな樽の陰に身を潜めた。そして、息を押し殺した。
「―――こっちは娯楽が少ないし、飽き飽きしたからね。だから、君がこの町に来るのを見計らって、あっちの世界に戻ろうとしたのさ」
自分の心臓の音と微かに途切れた誰かの声が聞こえる。
それは聞き慣れた声。私を救ってくれた声。救世主の音階。
……サトウの声だ。
よかった。生きてたんだ……!
もう敵兵を全部倒してくれたのかもしれない!
そう感じたとき、私の体の緊張が部分的に解れた気がした。
そうだ、もしかすると、サトウならこの状態をどうにかしてくれるかもしれない。きっとサトウなら不可能を可能にしてくれるかもしれない。
そう、私はサトウを神格化しているのだ。
なぜなら、サトウは今までもどんな災害が来ようとも、どんな状況になろうともそれを打破し、個人を、町を救ってきたからだ。
そうだ! きっとサトウならどこかから物凄い魔法とか薬を持ってきて、皆を救ってくれるかもしれない!
絶望の世界から私は躍起になって、樽の陰から抜け出そうとした。
ただただ、元の世界を望んで、駆けだそうとした。
―――けど、サトウではないもう一方の声を耳にして、私は立ち止まった。
「だが、たとえその目的だとしてもだ! どうして町人たちを殺す必要があった!」
怒りに満ちた女の声が聞こえる。
この声を私は知っている。
つい三日ほど前にこの町に来た転生師と呼ばれる魔法使いだ。二日前に、私は彼女と宿で夕食を一緒にした。
だから、覚えている。優しい女の人だった。
それよりも。
―――町人を殺す必要があった? どういう意味だろう。
頭が混乱する。混乱する。
「いや、ほんの実験だったんだよ。そんな怒らないで。ほら、たとえ洗脳したとしても暴力の命令までは適応できないこともあるでしょ?」
「まさか、お前。そんなことを試すために……」
失望した転生師の声。私の知らない面を見せるサトウ。
「……なぜ、初めからそうしなかったんだ?」
「そりゃあ、覚醒した能力を把握できなかったからね。一人を洗脳することでもまる一年はかかった。まぁ、そこからはすいすーいって事が進んだんだけどね。おかげで、今では簡単に人を洗脳できるようになったよ」
「……あの子を拉致したのも、結局その目的のためだったんだな」
「そりゃあそうさ。なぜ僕が無利益な行動をするのさ。そこまで利他的に見えた?」
「あの子はお前を信頼していたぞ」
「へぇ、そうだったんだ。知らなかった。まぁ、優しくだけはしておいたからね。当然と言えば当然か。これで、あの子と僕はお互いにいい取引になったんじゃない?」
「……町の人間を全員殺しておいて、よくそんなことを言えるな」
「もーう、その文句は良いからさ、早く次元魔法を措置をしてよねぇ。あと、僕が殺したわけじゃないからね」
退屈そうに愚痴をするサトウ。破壊者のようなサトウ。裏切りのサトウ。
私は。ただ。単純に。利用されていただけだったのか。
そりゃあ、そうか。そりゃあ、そうだ。よく考えてみれば、そうだ。
なぜ、私を良くする必要がある? それは明確だ。私は単純な媒介者だからだ。
―――あぁ、私が。私が。私がいなければ。
この町は破壊されることはなかった。
―――死人は出なかった。
スミカは気怠そうにしながら年をとり、武器屋の息子と結婚していたはずだった。
マチルは花がいっぱいに包まれた棺桶に幸せそうにして眠るはずだった。
レノンは年と共に少しずつ柔らかくなり、皆に受け入れられていくはずだった。
ハナヒのインチキは時間の経過で真実に近づいていくはずだった。
私の家族は死ぬことはないはずだった。
平和はいつまでも誰しもの心の中にあるはずだった。
―――それを私が壊した。
壊してしまった。
「きひ」
喉奥から声が漏れる。
私は泣きながら口元を抑え、屈んだ。
頭を固い石路につけ、樽の陰で震えながらただこれは夢だと念じた。
誰かが私を終わらせてくれるはずだと念じた。
「―――できたぞ」
声が聞こえる。
「おそいなぁ。まぁいいけど」
通路に固いブーツの足音が響く。
「君を完全に洗脳させることができたら、一緒にきてもらおうかと思ったんだけどねぇ」
「死にやがれ」
「いやん、怖い怖い」
低い薄ら笑い声は消えた。
―――その声が消えると世界全体の鼓膜が破れたように、町は静かになった。
視界も、聴覚も刺激がなくなると、ここが現実かどうかも分からなくなる。
なのに、鼻にこびりついた血の生臭さが脳を作用し、衝動を思い起こさせる。
その時には私の笑い声が抑えた口元から漏れていた。
―――足音が近づく。
「……あなた。そうか……、あなたの能力だと干渉されないのね―――」
世界が閉ざされたはずなのに、頭上から声が降り注ぐ。
「もしかすると、あの子たちが言っていたように。あなたは……」
私は耳をも塞ごうとすると、肩を強く握られた。
そのせいで、顔が露になり、その泣き腫らした顔を見られる。
「ねぇ、聞いて。お願いがあるの」
涙でぼやけた視界から、転生師の輪郭が見える。
私は目を拭うことなく、声のするほうへと顔を向ける。
「サトウは元の世界に戻って、能力を乱用しようとしているの。もしかすると、またこの惨劇を繰り返すことをするかもしれない。だから、あなたが……」
「もうそんなのいいから、私を殺して」
どうしてあの日の時点で私は口にしなかったのだろう。
もっと早くこう言っていれば、皆が違う未来を歩んでいたはずなのに。
潤んでぼやけた視界は徐々に鮮明になり、今ではすっかり転生師の顔色も覗ける。
その顔はさほど驚きも納得もした表情ではなかった。
転生師は首を横に振る。
「残念だけど、それは出来ない」
「どうして?」
私は冷淡な口調で聞く。
「それはね。君は少なからず死ぬべきではないからだ」
死ぬべきではない? 何を言ってるんだこの人は。
私はそこらの暴虐な帝王よりも悪なんだ。私のせいで何人死んだと思っている?
「君は自分の能力のせいで多くの人たちが死んだと思っている。
けど、それは違う。確かに君が起因ではあるのかもしれないが、責任を負うべきなのは君ではない。
君は大きな枷を背負わされているだけだ。それも見知らぬものから負わされただけ。君はその枷を下すことができなかった。それだけだ」
「……そんな説法はいいから。いいから、早く殺してよ!
枷とかよくわかんないけど、私はそんなものを背負って生きたくないの!
至極普通に生きていたいの!
それができないのに、周りを不幸に落としてめて、仕舞にはみんな死んで。
そんな私に生きる価値も必要も、もうないじゃない!」
転生師は私の言葉に反論することはなかった。
その代わりに肩を優しく摩り、淡々とした表情で私を見ていた。
その顔を見つめていると、次第に私は自分のことがよくわからなくなってきた。
「……世界には、運命というのがある。
―――例えば、平坦の運命。これは一つの軸が大きくぶれることなく終を迎えるというものだ。他には峰の運命。谷底の運命。無の運命。―――なんて色々な運命がある。
その中で私が思うに、君の運命は望まれた運命だと感じる。誰かが望んだことを君は請け負って、それで誰かの望みを叶えた。そして、それが惨劇を招いた。
でも、さっきも言ったようにこれは君が悪いわけではない。誰かが望んだその卑しい願望が悪いんだ。
―――っと、私が言いたいのはそこではなくてだね、この望まれた運命には必ず終止符を打つ人がいるんだよ。言わば、救う運命を持ったものがね。けど、君にはまだその運命を持ったものと出会ってはいない。
君はその者と出会うべきなんだ」
薄くなる意識の中に、遠方から何かの音が聞こえる。
これは馬だろうか。その闊歩した音が響いているのかもしれない。
「っと、さすがは国軍。情報を受け取るのが早いな」
転生師は目線を後方に向けて、そう呟くと、再度私を見て微笑んだ。
「ふふっ、長々と話しをしたけどね。要はあなたは救われるべきだってこと。
そして、あなたを救ってくれる人がいるってことを言いたかったの」
私の髪を転生師は掬う。
「こんなにも綺麗な髪を持って、可愛らしい顔をして、死ぬなんてもったいないわ」
私は口を動かすことができずに、もごもごとしたまま、ただ転生師を見つめた。
「あなたを救ってくれる人がきっといる。私は知ってるの。
だから、あなたは救われなさい。そして、サトウの能力を消去して」
私は抱擁された。思えば抱擁されたのは数年ぶりでどこか懐かしさや優しさが蘇った。
「―――全部終わったら、そっちに行くから」
転生師の指が私のこめかみに触れると、私の意識が薄らいでいった。
そして、ゆっくりと地に体を落とされると、何やら優しい光に私は包まれていく。
ぼやけた視界が町の様子を写す。そこには誰もいない。
私は「ごめんさなさい」と口にしながら、目を瞑った。
―――世界は一度、暗闇に包まれた。
―――真っ暗な部屋。照明はない。
そこに私はいる。
そして、目前には幾数人の人たちが。みんなの顔はわからない。
光がないのに。それでも様子は伺える。
おそらく、こちらを見て、見下したり、睨んだりしているのだろう。
あぁ、当然だ。そうされて、当たり前だ。
あの時点で死んでいれば、どれだけ良かったか。
何度、自分の存在を消去したかったか。
けど、依然として私は生きている。
昔、性格の悪い人間ほど長生きすると母から聞いたことがある。確かにそうかもしれない。結局は性格が悪くなる要因というのは不幸だとか谷底にいることなのだから。
だから、私は生きている。皆が死んで、私が生きている。
分かってる。駄目なことは分かっている。
何度も自分を消去しようとした。でも、出来なかった。
今だって、自分に言い聞かせている。
―――消去。消去。消去と。
今も口にしている。
―――消去。消去。消去と。
「何度も何度も言ってるんだよ……」
―――消去。消去。消去って。
今も言ってる。今も言い続けている。
「―――消去。消去。消去。消去。消去。消去」
やがて、そう口にして続けていくうちに、私の前にいる人たちは消えていく。薄い靄に光が差し掛かるように消えていく。
違う。消えていくのはあなたたちじゃない。私のはずなんだ。
―――私は最後に大きな声で「消去」と叫んだ。
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