第36話
そろそろ冬の風が近づいてくる秋の最中、アルストロメリア公演は開かれた。クレアレーネ中心部にある大型のホールを使い、複数の観客と複数のメディアがやってくる。
新たなクレアレーネのスターが生まれるかもしれないと、誰もか胸を躍らせる。当然チケットはなかなか入手できず、殆どの人がインターネットの配信で見るしかない。
参加者は関係者席に4人まで人を呼ぶことができる。ラターリオとアディルは別口があるから大丈夫だと言ったので、両親と弟を呼ぶことにした。残り1枚をエデュートかタトカに送ろうとしたが、エデュートはネイコと一緒に配信を見るからと言って断り、タトカも都合でそっちには行けず、配信で見ると言われてしまった。
とにかく、公演の日がやってきた。言ってしまえば一旦のゴールだ。まだまだその向こうに行くつもりではいるが、ここを乗り越えなければ先に進めない。
緊張して眠れないかと思ったがそうではなく、いつもどおりに眠っていつもどおりに起きた。いつもどおりに支度して、近所へ出かけるかのようにバイクに乗って。
これから舞台で歌うということは分かっていても、まだ実感が湧いていなかった。
会場に到着して、専用の控室に案内され、進行スケジュールを伝達されても実感が湧かなかった。
控室には全員が入っていた。スマートフォンを弄っている人が殆どで、誰も会話をしない。一通りの挨拶はしたが、それだけ。
一応ここにいる人達はライバルに当たる。必要以上に馴れ合おうとしないのはそのためか? まぁダンスの世界もそんな感じだったな。プロになればライバルだろうと仲良くなっていたのだが。
2時間ほどリハーサルを行い、ロッシャは舞台に立った。久々の舞台だった。そこから見える観客席の景色は圧巻だ。そこでようやく初めて、あぁ、この舞台の上で歌うのかと理解した。
ずっと立ちたかった舞台。ずっと帰りたかった舞台。
少しばかり体が震えた。緊張と、期待がせめぎ合った震えだった。暫くそれは止まることがなかった。
「ロッシャ」
リハーサルが終わり、控室に戻ろうとしたロッシャはふと呼び止められる。それは聞き慣れた声だった。即座に誰か理解し、慌てて振り返る。
「ラターリオ、なんで……?」
そこにいたのは紛れもなくラターリオだった。ここは関係者以外は入れない場所だ。何故平然とここにいるのか。
一応周りに気付かれないための配慮なのか、薄めのサングラスをかけていた。
「ここのスタッフに知り合いがいて、ちょっとだけ入れてもらったんだ」
「そ、そうなのか……」
とうの昔に引退しても、横の繋がりだけは強いのだなと実感する。彼の繋がりが、ある意味ロッシャをここまで連れてきたと言ってもいい。
ふとロッシャは辺りを見渡す。他の参加者は既に控室に戻っているようだが、廊下の真ん中で立ち話をしてもいいのだろうか。
「大丈夫、あそこに座るところがあるから」
ロッシャの動きを理解したラターリオは、奥を指差す。よく見ると自動販売機と横に長い簡易なソファがあった。
「よく覚えてたな」
「ううん、さっきそこを通っただけだよ」
「なるほどな……」
本番までまだ時間はあるし、少しくらいなら問題ないかと、ロッシャはラターリオとともにソファのところへと向かった。
ラターリオが体調をもとに戻してからはアルストロメリア公演に向けたレッスンがメインで、時間を取ってゆっくり話したことはなかった。病床の彼に投げた言葉も、彼がどう受け止めたのかロッシャは知らない。
あれから特に変わった様子はないが、今の彼の心境はどうなのか。
まだリーアンジェのことを悔やみ、悲しみ、未来へ踏み出すことを恐れているのではないか。
「まずは、ここまでよく頑張ったね。僕はロッシャならアルストロメリア公演へ行けると思っていたけれど、いざ実現すると喜ばしいものだ」
「あぁ、俺もまだ実感が湧いていないけど、さっきリハーサルで舞台に上がって強く感じた。俺は舞台に立つんだって」
半年以上前、突然の事故で踊れなくなった。舞台に上がることができなくなった。もうこの街では生きていけないのだと思った。
彼の手を取ったからこそ、ここまで辿り着くことができたのだ。
「ラターリオのおかげだ。あんたが俺を見捨てずに見ていてくれたから、俺も頑張ることができた」
「見捨てないよ。君には確かな実力があったのだから。それに君は素直で真面目で、何でも吸収していった。だから上達するのも早かったんだよ」
確かにラターリオのアドバイスは全て聞いていた。一度も反論したり、嫌がったりすることはなかった。歌の道は何も分からなかったから、彼の言葉に従うことが正しいと思っていた。
そして最初の頃よりずっと上達した。だからここまで辿り着いた。
「……君にはたくさんの苦労をかけた」
「え?」
「リーアンジェのことで、君を振り回してしまった。歌に専念してほしかったのに、余計なことを考えさせて……」
「そんなことはねえよ」
ロッシャは首を振る。確かにリーアンジェのことは大きな出来事だった。驚き、戸惑い、すれ違っていた義姉弟の想いに苦しさを覚えた。
だが、振り回されたという感覚はない。
「リーアンジェのことを知ったからこそ、彼女に向けて歌を歌うんだという意識が高まった。この歌はリーアンジェに届ける。必ず……」
それは先日、ラターリオの前で言った言葉と同じだった。必ずこの歌を、ラターリオとリーアンジェに届けるのだと。
その想いはずっと変わらない。
「……あれから、僕は考えた。リーアンジェへの後悔ばかりが心を蝕み、明日を迎えることが楽しくないと思った。彼女を失った時以上に、未来が恐ろしくなってしまった」
「……」
「でも、君の言うとおりだった。リーアンジェと作った楽しい思い出、彼女と結ばれなかった悲しい過去、全て抱えて踏み出さないといけないのだって」
そう話す彼の横顔は、とても寂しそうだった。まだそう簡単に巣食った悲しみを払拭することはできそうにないらしい。
それでも微かに、ほんの微かに。
彼から光が宿っているように思えた。
「彼女のことを忘れずに生きないと、彼女は本当に死んでしまう。僕が愛した彼女を、僕の目で見てきた彼女を心の中で生かして、僕は前へ進むんだ。……君の言葉で気づかされたよ」
「ラターリオ……」
「ありがとう、ロッシャ。僕は君に出会えてよかった」
ロッシャの言葉は、届いた。
未来へ進むことを怖がっていた彼は、一歩踏み出す決意をした。リーアンジェへの悲しい感情も嬉しい感情も全て抱え、生きていくことを。
過去は戻らない。でも未来は変えられる。リーアンジェと結ばれなかった過去は、いつか何らかの意味を持つかもしれない。
「僕と君は遠く年齢が離れているけれど、君のことは友だと思っている。僕は君という友と出会えて、とても幸せだ。……舞台の成功を祈っているよ」
「それは俺の台詞だ。ラターリオは俺の恩人であり、歌の師匠であり、そして大切な友達。あんたと出会えてよかった。必ずあんたとリーアンジェに響かせてみせるから」
そう言って、お互いの拳を軽く打ち付けた。もう迷いはないし、振り返る必要もない。前を向いてひたすらに走るだけだ。
暫く会話を繰り返した後、ラターリオは戻っていった。アディルのコネクションで手に入れた関係者席にいるよとだけ伝えて。最後にまた一言、応援の言葉を投げてくれた。
1人になったロッシャは、控室に戻ると歩を進める。本番までもう少し。ロッシャは4番目だ。他の人の空気を読み取ってコンディションを整えられるいい順番だとラターリオは言っていたな。
後は舞台に立って歌うだけ。
時間をかけて培ってきた力と想いを、発揮するだけ。
「ん?」
ふとロッシャは足を止め、振り返る。そこには誰もいない。先程までラターリオといたソファがあるだけ。
でも確かに視線を感じたような……。そう言えば、以前ラターリオの家でも同じような感覚が。
あぁ、そうか。
見ているのだな。
「……あんたのために歌うよ。聞いていてくれ」
そう言葉を投げて、再び歩き出した。
本番の時間が、やってきた。
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