第34話
「……あぁ、母さん? 俺だけど。……あぁ元気だよ。急で悪いんだけど、チキンスープってあるだろ? 俺が風邪を引いた時によく作ってくれた。あれを作りたいんだが、鶏肉を柔らかく煮込む方法を教えてくれねえか? え? あぁ俺が風邪を引いたんじゃなくて、友達がな……。男の友達だよ、彼女じゃねえから。……あぁ、うん、うん」
久しぶりにする母親との電話がこんなものになろうとは思わなかった。
ロッシャや弟が体調を崩した時、母はいつもチキンスープを作ってくれた。柔らかく煮込んだ鶏肉と、甘い玉葱と人参、コーンも入っていたな。優しくて暖かくて、どんなに具合が悪くてもこれは食べられたものだ。
ラターリオの口に合うかは分からないが、作らないよりはずっといい。
彼女から鶏肉を煮込む方法を教わる。普段気にしていなかったのだが、結構な工程があるようだ。いつもこうやって手の込んだ料理を作ってくれていたのだな。
改めて母親のありがたさを感じた。
「それとさ、母さん……」
言葉を紡ごうとしたが、ロッシャはそれを止めた。喉まで溢れてきた言葉が、引っかかって出てこない。
まだだ。まだ、言うべきではない。
「……いや、何でもない。またかけ直す」
電話の向こうから母親が興味津々に聞き出そうとする声が聞こえたが、それを遮って通話を終える。とても元気そうだった。ロッシャを心配しつつも、明るさだけは維持していた。
まだ言えなかった。アルストロメリア公演に挑戦しようとしていることを。オーディションの結果が出てから話すことにしよう。ダンスを辞めて、歌の道に進むということも、改めて。
その際、ラターリオの名前を出したら彼女はどんな反応を示すのだろうか。今でも彼のファンであり続けている彼女には衝撃的なことかもしれない。最初は疑うだろう。そしてなかなか信じないだろう。
ここ半年近くに起こった出来事については、またいつか。
ロッシャは母親に言われたとおりに鶏肉の下準備をし、野菜を切ってスープを作った。マーケットで一式購入しておいてよかった。やはりこの家には何もなかった。調味料も塩と胡椒、砂糖とビネガーくらいしかない。本当に普段何を食べて生活しているのだろう。
今の精神状態のままだったら、益々必要最低限の食事しか摂らなくなりそうだ。ただでさえ細身なのに、余計に肉のない身体になってしまいそう。
このままではいけない。
リーアンジェの思い出を抱えて、彼もまた未来へ踏み出してほしいのだ。踊れないという悲しみと苦しみを全て飲み込んで前に進むことを決めた、ロッシャのように。
「……」
野菜を煮込みながら、ロッシャはふと考える。
もしラターリオとリーアンジェがお互い歩み寄り、結ばれていたら? それはそれで二人にとって幸せなことだっただろう。二人の間に子供ができて、ラターリオはよき父親になっていたかもしれない。そして、歌手も続けていたかもしれない。
その世界線だったら、きっとロッシャとラターリオは出会うことはなかった。ロッシャが事故に遭っても、彼は救いの手を差し伸べてくれなかっただろう。歌手の道を選ぶことなく、ロッシャは傷ついた足を抱えて故郷に帰っていたに違いない。
そしてレアンも生まれることはなかっただろう。
いや、こんなあったかもしれない未来を考えたって仕方がない。もう過去は戻らないのだ。リーアンジェと結ばれなかった事実と、彼女と死別した事実を抱えて生きねばならない。
それが生きる者の使命のようなものだから。
煮込み終わるまでまだ時間がある。ロッシャはキッチンから離れ、側にあったダイニングテーブルまで歩いた。がらんとした部屋の中。先日、ここでレアンとともに、ラターリオの過去を聞いていた。
親に愛されることがなかった少年が、姉になった少女と出会い、恋をした。想いを告げることなく、それを歌にしたためたらクレアレーネの舞台に上がった。しかし少女は大人になって別の人と結婚し、少年の恋は終わった。そのまま舞台を降り、静かに暮らした。大人になった少女は子供にも恵まれて幸せに暮らしていたが、事故で死んだ。
そして実は、少女も少年を愛していたのだ。彼女は告げる勇気を持てないまま、他の男性と結婚し、そして死んだ。
改めて要約すると、映画のような話だ。本当にこういったことが現実でもあるのかと驚かされる。ロッシャは21年生きてきて、そんな出来事に巡り合ったことがなかった。今後巡り合う可能性も低い。
おもむろに、本棚を見る。リーアンジェの写真が立てられていた。
「……リーアンジェ」
写真の彼女は若かった。20代前半か。恐らく結婚する前の姿だろう。ラターリオにとって、結婚する前の彼女が最も愛しい存在だったのかもしれない。
一番愛しくて仕方がなかった時期の彼女を、こうして写真の中に閉じ込めている。忘れられない思い出として。
ロッシャはそっと写真立てに触れる。贔屓目で見なくとも彼女は美しかった。その笑顔は太陽のようで、思わずこちらも笑みを浮かべてしまうほど。
写真の彼女は、何を思っている?
今のこの状況を、どう思っている?
「悪い。実は俺、あんたの日記をまだ捨てられずにいるんだ……。誰にも見つからないように保管しているけど、捨てるのに踏みとどまっちまって」
レアンから預かった彼女の日記は、まだロッシャの部屋の中にあった。捨てると言っておきながら、その一歩が踏み出せない。
いつか、またいつかと思いながら、ずるずるとここまで来てしまった。
「なぁ、リーアンジェ。……俺は、あんたとラターリオのために歌うよ。あんたがラターリオにせがんだ歌を、俺が」
呼びかけても返事は当然、ない。
それでもロッシャは声をかけるのをやめられなかった。
「これは、あんたに捧げる最後の歌だ。どうか、見守っていてくれ……」
ラターリオと歌い方が異なるけれど、ラターリオみたいに耽美に歌うことはできないけれど。
それでも、想いは同じだ。
必ず、アルストロメリア公演で歌い上げてみせよう。
その直後、ふと背後から人の気配を感じた。
「っ!?」
思わずばっと振り返るが、そこには誰もいない。そんな馬鹿な。確かに人の気配があった筈だ。てっきりラターリオが下りてきたのかと思ったが、そうではなく。
今のは何だ?
気のせいか?
いや、きっと……。
「……」
ロッシャはこれ以上考えるのをやめ、写真立てを元の位置に戻した。もうそろそろ煮込み終わる頃だろう。鍋の様子を見に行かねば。
最後に写真立ての前で祈り、ロッシャはキッチンへと戻っていった。
オーディションの合格通知が届いたのは、それから6日後のことだった。
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