第33話

 オーディションを受けたビルからラターリオの家までバスで40分以上かかった。こんな時に限って渋滞の列に入ってしまったのが原因だ。きっと本来ならば40分よりも短い時間で到着できただろう。

 バスに揺られながらロッシャはラターリオにメッセージを送っていた。今からそちらへ行くと。彼の返事は早かった。「心配いらないから来なくていい」の一点張りだった。

 しかし引き下がるわけにはいかない。アディルだって心配しているのだ。もっと頼ってくれと訴えた。やがて彼は折れ、家の鍵を開けておくから自由に入ってくれと返してくれた。

 途中でマーケットに立ち寄り、食材と飲み物を購入した。彼の家に何が残っているのかは分からないが、多く買い込んでも問題はないだろう。

 一人暮らしが長いロッシャは一通り料理ができる。病人用にスープでも作ろう。野菜を多めに入れておいたほうがいいか。そう言えばラターリオの嫌いな食べ物って何だったか……?

 などと考えながらたくさんの荷物を抱え、ロッシャはラターリオの家へと向かった。

 玄関の鍵は確かに開いていた。中はしんと静まり返っている。心なしか、空気が物寂しい。

 買い込んだ食材をダイニングに置いたロッシャは、スポーツドリンクの入ったペットボトルを手に2階へと上がった。ラターリオの寝室は2階の奥にある。直接入ったことはないが、場所は把握していた。


「ラターリオ、大丈夫か?」


 部屋は広いながらも殺風景だった。ベッドと本棚、机と椅子しかない。床の上に物はなく、一通りの家具が置いてあってもがらんとしている。

 中に入ると、ベッドの中で横たわっているラターリオがいた。眠っているのかと思ったがそうではないようだ。ロッシャの声に反応して、ゆっくりと身体を起こす。


「ロッシャ、本当に来たんだね……」

「当たり前だろ。あんたが倒れたと聞いて放っておけるかよ」


 呆れたように息を吐いたロッシャは、ラターリオにペットボトルを手渡す。周辺を見渡すと、水の入ったコップがあるだけで、それ以外は何もない。

 ラターリオは礼を言うと、スポーツドリンクを口にする。彼の顔は赤く、息も苦しそうだった。発熱を起こしているのが見て取れる。


「ただの疲れさ。ちょっと体調管理を誤ってしまったみたいでね。でも、薬を処方してもらったし、今は落ち着いているから」

「そんな苦しそうな息をしているのにか?」

「寝たら治るさ……。君に移ったら大変だから、今日はもう帰りなさい。オーディションで疲れたろう?」


 そんな顔をしながらもこちらを気にかける。あぁ彼は優しい人だ。だが今はその優しさに甘んじるわけにはいかない。

 引き下がれないのだ。どうしても、彼に確認しておきたいことがあった。でもそれは病に臥せている今のタイミングで言うべきなのだろうか……。


「本当はオーディションのことを聞いてみたいけれど、また今度聞かせてくれ」

「ラターリオ」


 彼の言葉を遮るように、名前を呼んだ。

 やはりここで聞いておかないと、次がないような気がする。ロッシャは意を決して言葉を紡いだ。


「あんたが倒れる前から、ずっとあんたの調子が良くないって俺は感じてた。レコーディングの時も、いやその前の、俺が楽曲のタイトルを決めた時から」

「……」

「ここ数日忙しかったのは分かる。でもそれだけが原因じゃないだろう? ……率直に言うと、リーアンジェのことが絡んでいるんだろ?」


 あまりはっきりとリーアンジェの名前を出したくなかったが、うまく表現することができなかった。もしかしたら直接的すぎて答えられないかもしれない。


「あの日、俺に言ったよな? 君は未来に生きろって。……あれはどういうことなんだ? あんたは、未来を生きないつもりなのか?」


 今日こそ、あの言葉の意味を知りたい。彼の心を開示したい。全て見ることができなくても、知りたい。理解したい。

 ラターリオは驚いた様子で目を瞬かせていたが、やがてその表情を落とした。


「……君には分かるんだね、ロッシャ」


 あっさりと認めた。観念したかのように小さく笑っていた。


「仕方がないか。君も彼女の想いを知った人間だから」

「……あぁ、そうだな」


 リーアンジェの隠していた想い。それはロッシャにとっても重くのしかかる真実だった。未だに思い出すと、心が晴れない。

 二人の想いが交わらなかったことが正解だったのか、不正解だったのか。それさえも分からない。


「悔しかったんだ。リーアンジェが僕のことを好きでいてくれていたのに、僕はそれに気づくことがなかった。彼女への想いを歌う形で逃げ続け、彼女に向かって足を踏み出すことがなかった。勇気があったら、僕はこんなに苦しむことはなかったのにって」


 シーツを握るラターリオの手は震えていた。細く長い指が、より一層細くなっているようにも見える。


「あの頃に戻りたいと思った。目が覚めたら、彼女と出会った28年前に戻ってくれないかなと。でも目が覚めても僕だけが生きて、彼女がいない現実に降り立つだけ。あまりにも虚しくて、悲しくて……」


 ロッシャは何も言えなかった。

 レアンの前では終わったことだと言っていた。先日、ロッシャの前で、リーアンジェのことを話して心がすっきりしたと言っていた。

 全て虚栄だった。

 本当はリーアンジェのことをずっとずっと悔やみ続けていたのだ。交われた筈の想いが交われなかったことを深く後悔していたのだ。それが心の重みとなって、体調不良を引き起こしたのだろう。


「リーアンジェが死んだ時、僕は狂うほどに泣いたよ。食事も喉を通らなくて、人の顔や声が全部把握できなくなるくらいに消沈した。そして、僕だけが未来を生きることが怖くなった」

「……」

「でも君と出会って、君の成長を見て、未来を見るのも悪くないと思った。……だけど、リーアンジェの想いを知ってから悔しさと悲しさがずっと僕を襲ってね。やっぱり僕は、彼女のいない世界で息をするのが苦しい」


 この言葉は決して、レアンの前では言えないことだ。

 これが彼の本心だ。

 リーアンジェの日記を見て慟哭した時のことを思い出す。あれがラターリオの本当の心で、その直後にロッシャとレアンに語った姿は取り繕ったものだったのだと。


「僕は、未来に行くのが怖いんだ……」


 震える彼は、まるで小さな子供だった。明日へと進む一歩を恐れ、過去の悲しみに縋りつこうとしている。

 彼の言いたいことは分かる。リーアンジェへの後悔がいつまでも燻り続けているのだということを。

 だが、だが。


「……ふざけるな」


 それを肯定するつもりは毛頭ない。


「ふざけるな!」


 ロッシャは声を張り上げた。初めてラターリオの前で大声を上げた。体中がふつふつと熱くなっていく。指先が震える。叫んだものの、声は震えていた。

 ラターリオは驚き、目を見張った。


「リーアンジェのことを後悔している気持ちは分かる。確かにあんた達は揃って失敗をした。少しでも踏み出したらこんなことにはならなかった。俺だってそれは理解できている。だが、過去の失敗にしがみついて足を止めようとするな!」

「……ロッシャ」

「踊れなくなって悔しがっていた俺を救ってくれたのはあんたじゃねえか……。俺に未来を示してくれたのはあんたじゃねえか。なのに、そのあんたが自ら未来に目を向けないのはおかしいだろ……!」


 踊りたい気持ちを吐露したロッシャに、自ら歌い、歌の世界の素晴らしさを伝えてくれたのはラターリオだった。ロッシャなら必ず舞台に上がれると背中をしてくれたのはラターリオだった。

 過去の悲しみを乗り越えさせてくれたのも、全部全部、彼だった。


「リーアンジェと作った思い出を、リーアンジェに対して抱いていた気持ちを、全部後悔の産物にするんじゃねえ……。楽しかったことも、悲しかったことも、あんたの心の中で生かし続けてくれよ、ラターリオ」


 未来へ導いてくれた彼を、過去に囚われさせるわけにはいかない。

 だってそうだろう。『駆け抜けた空』はラターリオの魂も込められているのだ。


「俺は、必ずアルストロメリア公演で歌う」

「……え?」

「俺に未来を示してくれたのはラターリオだ。だから俺は、あんたもリーアンジェもまとめて未来へ連れて行く!」


 『駆け抜けた空』は未来への一歩を踏み出す歌。それはロッシャの歌手としての始まりの歌だったが。

 未来へ行くのは一人じゃない。

 ラターリオだって、歩を進めるべきなのだ。


「絶対に、あんたとリーアンジェの心に響かせてやる……」


 以前、ラターリオは言っていた。たった一人の誰かに届けばいいと。正に今がそうだ。ロッシャはこの歌を、アルストロメリア公演の舞台で歌ってみせる。

 たった一人、いやたった二人のために。


「……」


 ラターリオの返事はなかった。呆然としている様子で、ただただロッシャを見ている。もしかしたら言葉を探しているのかもしれない。

 ロッシャの叫びが彼に届いたのかは分からない。だが、伝えたいことは全部伝えた。あとは彼がそれをどう受け止めるかだ。


「……悪い。具合悪いのに、大声上げたりして」

「え、あ……」

「キッチンを借りる。飯を作り置きしといておくから」 


 安静にしていてくれよと言い残し、ロッシャは部屋を出ようとする。今は一緒にいないほうがいい。スープを作って、早めにここを出よう。

 ドアノブに手をかけ、開こうとした。


「ロッシャ!」


 ラターリオが呼びかける。ロッシャは扉を開ける手を止め、ゆっくりと振り返った。

 真っ直ぐにこちらを見ているラターリオの姿があった。


「……ごめんね」


 ぎこちなく微笑むその表情は、何処となく小さな光があった。曇り空の隙間に太陽が射し込んだかのような光が。弱々しいが、ゆらりと眩しい。


「あぁ……」


 その「ごめんね」が何を意味しているのかまだ分からないが、少なくとも声は届いたのだろう。そう感じたロッシャも同じように笑みを浮かべ、そして部屋を出た。

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