第32話

 指定された時間に来た時点でロッシャは1人だった。まさか自分だけ? いや、そんなことはないか。

 恐らく複数を一斉に見るオーディションではないのだろう。他の参加者に会わないまま控室に案内された。呼ばれるまでそこで待っていろということらしい。

 部屋の中でロッシャは一息つく。あぁ本当にオーディションが始まるのだな。前々からこの日に向けて取り組んでいたけれど、こうして実際に会場に辿り着くとあまり現実味を感じない。

 まるで夢を見ているようだ。ふとした瞬間に目を覚ますのではないかと思うくらいに。

 いや、これは夢ではない。紛れもない現実だ。

 ラターリオと何度も何度もレッスンを行い、最初の頃よりずっと歌が上手になった。声のコントロールもできるようになり、曲と歌詞に合わせた表現力も身についた。滑舌も良くなり、この前エデュートに「話し方が綺麗になった」と言われたほど。アディルにも厳しいながらも太鼓判を押された。

 全部本当のこと。

 そして今までの経験が、ここで発揮される。

 いつもどおりやればいい。ラターリオはそう言っていた。肩の力を抜いて、楽しく歌えばいいと。

 それはダンスの時と同じだ。ダンスも体に力を入れすぎないように踊ってきた。楽しく、スポットライトの光を浴びながら、踊ることで自分の世界を作り続けてきた。

 かつてラターリオがロッシャに披露してくれた時のように、歌で自らの世界を作り上げよう。そして審査の人を巻き込もう。

 いつもどおりに。


「……」


 だが、ロッシャはふとスマートフォンを見る。ラターリオからメッセージはなかった。今は午後1時。病院へは行ったのか。

 恐らくこちらに気を遣ってメッセージを送っていないのだろう。何かあったらアディルに連絡を入れているかもしれない。

 ラターリオが気がかりだが、今は考えないでおこう。オーディションが終わった後に連絡を入れよう。

 今は何も考えるな。いつもどおりに。いつもどおりに。

 そう自分に言い聞かせた。


 ◇◆


「元ダンサー?」


 オーディション用の部屋はスタジオのような、窓のない部屋だった。奥の壁は一面の鏡張り。ダンスの練習をする時に使うスタジオとよく似ていた。

 審査する人間は3人。30代から40代ほどの男性達だ。ラターリオやアディルよりは年下だろうか。穏やかそうな顔をしているが、その眼光は鋭い。

 まるで品定めされている気分だ。いや、オーディションというのは本来そういうものか。ダンスの時だって審査員達はこんな目をしていた。


「はい。2年ほどプロとして踊っていました」


 自己紹介をした後、真っ先に聞かれたのがこの質問だ。アルストロメリア公演に参加する理由や歌う理由などを最初に聞かれると思ったが、先にこちらか。

 だがこれは間違いなく聞かれると分かっていた。ダンサーから歌手に転向するのだ。その理由を聞かれないわけがない。


「どうして歌の道に?」

「事故で踊れなくなったからです」


 こうして、事故に遭ったことを話すことも慣れてきた。話す度にあの時の光景が思い出されるが、それでも心がささくれ立つようなことはなかった。

 もうあれは過ぎたこと。

 もう終わったこと。

 目を背けることができない過去だが、ロッシャはもう既に受け入れている。


「俺はクレアレーネの舞台に立つことが夢でした。ダンスと出会い、ダンスの道を志し、プロになりました。でも半年前に事故に遭い、左足に後遺症が残りました。もう踊ることはできません」


 しっかりと両足で立っているが、左足は上がらない。走れない。階段を昇るのが精一杯だ。

 足を踏み鳴らすだけの簡単なステップなら問題ないが、それでもロッシャの得意分野だったハウスダンスはできる筈がなく。



「でもある人と出会ったことで、歌手の道を志すことになりました。その人は舞台に上がれなくて燻っていた俺に光を与えてくれました。舞台に立てる道はある。踊れないなら歌えばいいと。最初は、生半可な気持ちだったけれど、レッスンを続けていく内に歌うことの楽しさと奥深さを知りました」


 ラターリオは言った。何処かにいる誰かの心に響けばそれでいいのだと。そして自身が楽しく歌って、それが人々に伝わればいいのだと。

 彼のように国中の人を夢中にさせることはできないかもしれないけれど、名前の知らない誰かの心には響かせたい。

 そんな歌を歌ってみたい。


「その人は誰ですか? 現役の歌手ですか?」

「……いえ、過去に舞台で歌っていた人です。彼の意向で、名前までは」


 約束だった。決してラターリオの名前を出してはいけないと。引退したとは言え、今でも強い影響力のある男だ。彼の名前が出た瞬間に目の色が変わる審査員が現れるかもしれない。

 それを危惧したラターリオとアディルがロッシャに言ったのだ。ラターリオの名前を出すなと。特にアディルに強く念押しされていた。

 もししつこく聞かれたらどうしようかと冷や汗が流れたが。


「そうですか。分かりました」


 あっさりと引き下がった。

 もしかしたら、勘がいい人なら見抜かれたかもしれない? アマチュアの人だったと嘘をつくべきだったか……。


「つまり、ただ舞台に立ちたいから、踊りから歌に移動したということかな?」


 別の審査員が訊ねる。優しい口調だが、何処か棘のあるような。オーディションにありがちな、意地悪な質問という奴だろう。

 だが、ここで狼狽える筈がなく。


「はい」


 ロッシャは迷わず答えた。一瞬、審査員の表情の色が変わったような気がした。


「俺はこの街が好きです。歌も踊りも、演劇も音楽も絵画も揃っている、芸術だけが集約したこの街が。この街に生きることが夢だった。そしてこうして今、この街の一部として俺は生きている。舞台のスポットライトを浴びながら観客を魅了し、観客を芸術の世界の中に取り込んでいく、あの感覚が大好きで、忘れられない」


 踊りと歌は違えど似ている。表現することで自身の世界を築き上げ、そして観客を熱狂の渦へと巻き込んでいく。そして一緒に世界を構築していく。

 あの小さな世界を作り、熱に浮かされる感覚がロッシャの原動力となっていた。

 それは踊っても歌っても同じこと。


「俺は舞台に立ちたい。表現者になりたい。俺の舞台を見てくれた誰かが、クレアレーネに来てよかったと思えるように」


 心からの言葉だった。

 舞台を諦めたくなかったのは、この街で生きたかったからだ。だからラターリオの伸ばした手を取った。歌の世界に踏み込んだ。

 そう、表現者。

 歌手もダンサーも、役者も音楽家も全て表現者だ。自分自身を武器に舞台に立ち続け、そして人々を魅了する。

 踊りから歌に転向しても、表現者であることに変わりはないのだ。


「踊れなくなったことは悲しいことだし、今でも悔やんでいます。でも、その過去を抱えて、俺は次の道を歩みたい」


 ダンスに対する未練は微かながらに残っているが、その未練を歌の力に変えよう。踊れない事実を、歌える事実にしていきたい。

 過去の苦しみも悲しみも、全部未来へ持っていくつもりだ。


「なるほど、分かりました」


 意地悪な質問を投げた審査員の表情は、何処か穏やかだった。まるでその答えを求めていたかのような。いや、それとも模範すぎて面白味がなかったか? 表情の真意を読み取れなかった。


「では早速、提出した歌を歌ってもらえますか? 『駆け抜けた空』ですね」

「はい」


 足に力が入る。先程熱く語ったおかげで心臓が煩い。

 話したいことは話した。自身の、歌や舞台にかける想いも語った。後は表現者としての歌声を披露するだけ。

 1人の男性がパソコンを触ると、曲が流れ出す。ラターリオ達で切磋琢磨し、完成した曲が。

 未来へ向けて駆け抜ける歌。

 踊れなくなったロッシャが新しい道へと一歩踏み出すための歌。

 そして、今は亡きリーアンジェへと届ける魂の歌。

 ロッシャとラターリオ、そしてアディル達の想いが詰まった、世界にたった1つしかない楽曲。

 この歌で舞台に立ちたい。

 この歌で未来へ駆け抜けたい。


「水色の帳、裸足で駆けた春の終わり――――」


 そう願いを込めて、ロッシャは歌い上げた。


 ◇◆


 建物から出た後、スマートフォンを確認する。オーディションを受けている最中に電話があったようだ。電源を切っていたから分からなかった。

 だが、その名前を見てロッシャは目を見張る。


「……アディルさん?」


 紛れもなくアディルだ。同じ名前の別人はいない。しかし、電話番号を教えていたとは言え、彼から電話がかかってくるのは初めてだ。

 彼が電話をかけてくるなんて珍しい。何かあったのか?

 まさか。

 背筋がゾッとしたロッシャは、慌ててアディルにかけ直す。コール音が数回。なかなか取らない。

 もしかして仕事で電話が取れないのだろうか。メッセージを送ったほうがいいか? それとももう1回かけ直す?

 どうしたらいいのか心が掻き乱される中、ようやくコール音が止まる。


「おうロッシャ。悪いな、忙しいのに電話してよ」


 電話の向こうにいるアディルは冷静だった。いつもどおりの彼の声が聞こえてくる。


「本当はメッセージを入れようと思ったんだが、まどろっこしくてよ。オーディションで忙しいのに悪かったな」

「あ、いえ、大丈夫です」


 アディルの声を聞くと少し安堵するが、それでも掻き乱される焦燥感は抑えられそうにない。

 何故、電話をしたのだろうか。オーディションの感想を聞くためではなさそうな……。


「本当はオーディションの手応えとか聞きたかったが、ちょっと頼みがあってよ」

「は、はい」

「ラターリオがぶっ倒れちまったそうだ。今家で寝てるんだが、様子を見に行ってくれねえか?」


 やはりか。

 心がより一層掻き乱された。やはり彼のあの咳は体調不良の兆しだったようだ。まさか倒れてしまうほどの状態だったとは。


「……やっぱり。以前からなんだか調子が悪そうだったから」

「まぁ不健康な生活をしているから、なるべくしてなったというか……。季節の変わり目になるとよく調子悪くなるからな」


 そう話すアディルだが、ロッシャは不健康と季節の変わり目以外の可能性を感じていた。

 間違いなく、リーアンジェのことが……。


「オーディション受けたばかりで悪いが、俺は今仕事で手が離せねえし、あいつの家に気軽に行けるのはお前しかいねえしな」

「はい、俺ならまっすぐ向かえます」

「頼むわ。あいつの家何もねえだろ? 食い物くらい持っていってやってくれ」


 確かに彼の家には何もない。食材のストックも少ないし、飲み物も水か酒くらいしかなかった。菓子類もなかったし、サプリメントはあっても薬の類はなかったような。

 とりあえず必要だと思えるものを買い込んで彼の家に向かわなければ。ここからだとバスで30分くらいか?

 急がねば。急がなければ。

 きっと彼は、まだ彼女への後悔が巣食い続けているだろうから。

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