第30話
アルストロメリア公演はアマチュアで活躍している歌手や、歌手を夢見ている人が大舞台に上がるために通らねばならない狭き門であった。数少ないクレアレーネの大劇場を使用できるのは、アルストロメリア公演で認められた者達のみ。通過して初めてプロとして起用されるようになるのだ。
歌手を目指す人は数多く、国外からも集まる人もいる。長い長い劇場街としての歴史があるからこそ、門を狭くし、認められた者だけが舞台に上がることができるという規定を作ったそうだ。
それは役者や音楽家も同じこと。アルストロメリア公演に似たような制度を使用し、プロとアマチュアを線引きしているという。
アルストロメリア公演は年に1回の開催だが、必ず1人選出されるとは限らない。全く選ばれなかったこともあれば、一気に3人が門をくぐり抜けたケースもある。
果たしてロッシャはどうなるのか。
いや、まず書類審査が通り、オーディションに行かなければ意味がない。公演の舞台で成功するか否か考えるのはその後だ。
あれから『ロビン』を収録したデータとともに書類を提出した。締切の3日前だった。『ロビン』は何度も録り直し、ラターリオとアディルがいいと思ったものを選んだ。1日で何度も歌い、声が疲れてしまったけれども走りきった。
ラターリオもアディルも疲弊していたが、完成した時には3人揃って安堵の息を吐き、笑いあったものだ。
後は無事に書類審査が通ればいいのだが。
結果を待っている間、ロッシャはラターリオに呼ばれて、いつもの音楽スタジオへと足を運んだ。なかなか時間が取れないと言っていたアディルだが、合間を縫って時間を作ってくれているらしい。
改めて人に恵まれていることを実感する。ラターリオに会わなかったら歌手として舞台に上がるなんて選択をしなかった。したとしてもここまで頑張ろうとは思わなかった。
ラターリオもアディルも、ロッシャに期待をしている。
それに応えなければならない。
スタジオに到着した。今回使う部屋は前回と異なり、楽器とアンプリファイアが置かれた広い部屋だった。バンド演奏の練習に使われるスタジオだ。
ネイコと以前練習したあの部屋とよく似ていた。
ロッシャが部屋に入った時、既にラターリオとアディルはいた。そして彼ら以外にも後2人。壮年の男性と若い女性だ。
初めて見る顔だった。そして、自分が最後の到着であることに気づく。
「ごめん、遅れたか?」
「ううん。僕達は早く来て打ち合わせをしていたからね、気にしないで」
ラターリオは首を振る。いつもどおり、穏やかな笑みを浮かべている彼だが、やはり何処か表情に色はない。
心なしか、あまり元気にも見えない。
「この人達は……」
「お前の曲を演奏してくれる連中だ」
代わりに答えたのはアディルだった。
演奏してくれる人? ロッシャは思わず2人の顔を見る。よく見ると女性はドラムのスティックを持っていて、男性はベースを持っていた。
「こいつはベーシストのナティーヤ。以前ラターリオのバックで演奏したことがある、俺らの古い知り合いだ。そしてこいつはドラマーのルオシン。最近プロ入りした新人だが、腕は確かだぞ」
ナティーヤとルオシンはにこやかに会釈する。ロッシャも慌てて頭を下げた。
歌の収録のために人を集めてくれていたのか。本来ならばロッシャも中心となって探すべきだったのに。
「ごめん、何から何までラターリオ達に頼って……」
「いいんだよロッシャ。こういうのは僕の仕事だ」
ロッシャの謝罪をラターリオは優しく押し返す。その表情は何処か誇らしげで、楽しそうでもあった。
「僕の立ち位置はロッシャのマネジメントだ。ロッシャは歌うことに専念すればいい。それ以外のことは僕がやる」
「けどよ……」
「実際、オーディションに挑む人達も、アディルのような音楽に精通したプロに見出されてレッスンを受けているのが殆どだ。スカウトした人が最後まで面倒を見るのが当たり前。だから何も気にしないでくれ」
オーディションに挑む人達。つまりロッシャからしたらライバルに当たる存在。彼らも今のロッシャのように、プロに見出されてアルストロメリア公演を目指そうとしているのか。
自分だけが特別ではない。
でもそれは却って安心した。みんなと同じ位置からスタートして挑めるのか。
「……分かった」
やはりプロの歌手になるというのは簡単ではないことを痛感する。こうして誰かの力を借りてようやく一歩進めるような。
横の繋がりというのはやはり大切だ。歌でも、踊りでも。
「実は彼らとは結構前から顔を合わせて打ち合わせしててね。先日、君がバーで歌う日に僕は見に行けなかっただろう? あれは彼らと打ち合わせしていたからなんだ」
「え、そうだったのか」
そういえばバーで歌った日はラターリオの都合がつかなかった。そうか。その時点でナティーヤとルオシンをバックバンドのメンバーとして選んでいたのか。
「あのアディルが太鼓判を押すくらいだ。期待しているぞ、ロッシャ君」
「私もこの前までアマチュアでドラム叩いていたので、あなたを目一杯応援しますね!」
ナティーヤとルオシンが交互に言葉を投げる。2人ともロッシャに期待を寄せている目立った。
嬉しい反面、緊張が走る。ラターリオとアディルだけではない。彼らもこうして支え、小期待してくれているのか。
失敗は許されないな。
「『駆け抜けた空』はギター、ベース、ドラム、シンセサイザーを取り入れた楽曲だ。シンセサイザーは別録りをしているから、それを使ってお前らで合わせてくれ」
アディルの言葉に、ラターリオ達は頷く。どうやらこれから曲合わせのようで、今はロッシャの出番ではないらしい。
だが、
「あれ、ギターは?」
ベースのナティーヤ、ドラムのルオシンと紹介されたが、ギターを弾く人がいない。まだ来ていないのだろうか。
「ギターは僕だよ」
「え?」
ロッシャは目を丸くした。ギターを弾くと名乗ったのがラターリオだったから。まさか彼が演奏するなんてと驚きを隠せない。
確かに彼は自らギターを弾いて歌っていたこともあったが、まさかロッシャの歌の収録に参加するとは。
「僕が作曲したからね、任せてよ」
「あぁ、そうだったな……」
「僕らの音合わせが終わったらロッシャも参加してくれ。みんなで合わせよう」
ラターリオはそう言い、壁に立てかけていたギターを手に取る。オレンジ色の綺麗なギターだった。ナティーヤとルオシンも彼に続き、それぞれの持ち場につく。
それを見たアディルは側にあったノートパソコンを取り、何やらキーを打ち込む。よく見るとパソコンにはいくつもの線が繋がり、ラターリオ達の周辺にある機材へと伸びていた。
曲が流れる。
シンセサイザーの、なだらかな。
と同時に、ギターの音が響いた。ドラムが響いた。ベースもその後に続いた。静かだった部屋は一気に音に包まれる。
心臓が一気に掴まれそうになった。
ロッシャは思わず息を呑んだ。
確かな旋律が流れる。『駆け抜けた空』のイントロダクションだ。これが編曲を終えた新しい形。何度も何度もラターリオが以前収録した曲を聞いてきたが、新しく生まれ変わった曲は更に心を揺さぶられる。
ルオシンは小柄な女性ながら、力強くドラムを叩いている。ナティーヤはピックを使わず、指でベースの弦を弾いていた。その動きはなめらか。
そしてラターリオも。
初めて肉眼で、彼がギターを奏でているのを聞いた。手慣れた動きでピックを使い、弦を弾く。その表情は嬉々としている。
まだロッシャの歌が入らない音合わせのみの演奏だが、彼らは音を奏でることを心から楽しんでいるのだなと実感する。
そしてロッシャはこの後、音の中に飛び込む。流されないように、掻き回されないように、音の中心に立って歌い上げるのだ。
魂が突き動かされる。
彼らの音を聞けば聞くほど、歌いたいという気持ちが溢れてきた。
時間にして4分と少し。演奏が終わる。アディルが以前提案したとおり、フェードアウトではなくカットアウトという形で曲を締めた。
「んー悪くねえが、もう少しベースを遊ばせてもいいと思うな。どう思う?」
アディルがうーんと唸りながらナティーヤに声をかける。
「そうだな、最初は単調でいいかもしれないが、サビで少しリズムを増やすのもありだな。この辺りはルオシンと相談する」
「おう、そうしてくれ。ルオシン、お前はいい感じだな。この前よりいい音で叩けてるぜ」
次の彼の目線はルオシンへと。叩き切った彼女は少し疲弊しているのか、肩が上下に揺れていた。だがその表情は輝かしい笑顔だ。
「ありがとうございます!」
声もハキハキとしていた。
それを見ていたラターリオは、ふとロッシャに視線を向けた。
「歌と合わせると、他の課題も見えてくるだろう。ロッシャ、入れるかい?」
「あぁ、入る」
ラターリオに声をかけられ、ロッシャは頷く。彼らの演奏を聞くだけで心が躍っていた。早くあの中に入ってみたかった。
演奏に関しては素人だから、彼らの演奏の何処に課題があったのかロッシャには分からないが、何度も合わせていく内により良いものができてくるのだろう。
目標の場所まで、もう少しだ。
ロッシャは彼らの輪の中へと進んでいった。
それから数日、ラターリオ達と共に音合わせをし、収録に向けて取り組んだ。
その間に書類審査の結果が届いた。合格していた。
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