第29話
ロッシャがスタジオに戻ると、アディルは既に電話を終えていた。だが誰かにメッセージを送っているようで、スマートフォンを離していなかった。
その表情はとても柔らかい。
普段は堅苦しい表情を浮かべている彼だが、こんな柔らかく優しい顔を見せることがあるのだと驚いた。
「……おう、戻ったか。ロッシャ」
ロッシャに気づいたアディルが顔を上げる。柔らかさが消えてしまった。あの姿を見られたのはほんの一瞬だった。
「すいません、邪魔しました?」
「いや、娘にメールを送ってたところだよ」
「子供いるんですね」
まぁアディルの年齢を考えたら子供がいたっておかしくない。そして子供の前では良い父親なのだろう。あの表情を見ていると分かる。
ロッシャの父親は無口で無表情だが、たまにはあのような顔をするのだろうか。
「テルトリナって言ってな。もうすぐ17になるんだ。ガキの頃からテニスをやっていてよ、試合の日にゃ、俺は仕事を休んで見に行くんだぜ」
「良いお父さんですね」
「お前にはやらねえからな」
と敵意むき出しの目で見られてしまい、思わず息を呑んだ。アディルの娘なんて今名前を初めて知ったくらいで顔も分からないのだが。
娘を大切に思う父親の心境なのだろう。ロッシャは男兄弟のみだったから、父親のそんな姿なんて見たことはなかった。
だが今はその話をしたいわけではなく。
「アディルさん、曲のタイトルを決めました」
「お? 本当か」
顔付きが父親からプロデューサーに変わった。この切り替え、まさにプロだなと思わずにはいられない。
ラターリオはまだ戻ってきていないが、先にアディルと話をしてしまおう。
「『駆け抜けた空』です」
ラターリオは即座にいいと言ってくれたが、彼はどのような反応を示すのか。プロデューサー目線から、色々ダメ出しが来るかもしれない。
「……なるほど。まぁ悪くはねえな」
「え?」
「何驚いてんだ。お前が考え抜いて考え抜いて出した曲名だろうが。自信くらい持て」
まさかアディルもあっさりと肯定するなんて思わなかった。プロデューサーとしてのいろんな持論でも述べてくるのかと思ったのだが。
自信くらい持て。
そうか。自信を持っていいんだな。
「変に他国の言語を使ってカッコつけるよりもいい。だが、100点とは言わねえぞ。70くらいかな……」
「あ、ありがとうございます」
「ラターリオに寄せてこない辺り、お前らしい歌になるんじゃねえか?」
確かにこのタイトルはラターリオとは毛色の違うものだ。彼自身も、自分では考えつかないと言っていたくらいだ。
ロッシャが歌う歌。だからこそロッシャらしい言葉が相応しい。
だからこその、アディルとラターリオの肯定なのだろう。
「そうと決まれば、さっさと書類書いて出しちまうぞ。書類審査には1ヶ月ほどかかるが、通ったら1週間後にはオーディションだからな」
「え、早くないですか?」
「早えぞ。オーディション受かったら2週間後に本番だ。本当にスケジュールカツカツでやる公演なんだよ。何年やっても改善されやしねえ」
改めて、自身がアルストロメリア公演について詳しく知らなかったことを思い出す。ラターリオとアディルに頼ってばかりだ。
自分ももっと知らなければ。
舞台に立って歌うのは自分なのだから。
「だが書類審査からオーディションまでの期間が長いんだ。その間に編曲を済ませて曲を完成させる。オーディション時に、その収録した音源を持って歌うことになっている。公演当日でも使うから、完璧なものを作らねえとならん」
「……なるほど」
「あと、書類審査時に歌声を収録したデータを送る必要がある。歌声の審査だから何を歌ってもいいんだが……」
と、何かを考え込むアディルだったが、ふと顔を上げて、ロッシャを見た。
「お前、この前バーで『ロビン』を歌ってたんだってな」
「え? どうしてそれを……」
「ラターリオが教えてくれたんだよ。割と好評だったそうじゃねえか。それを書類審査用として歌うぞ」
知らぬ間にバーで『ロビン』を歌ったことをアディルに話していたようだ。動画データはラターリオに渡していないから、恐らく歌っている姿は見ていないと思うが。
なんだか少し気恥ずかしくなった。
「お前の力強い歌声なら『ロビン』は映えるだろ。コンディション整えたら収録するぞ」
「あ、はい。……あの」
ふとロッシャはあることを思い出す。つい先程、ラターリオと話した言葉が浮かんできたのだ。
悲恋しか歌わなかったラターリオが『ロビン』を作った理由を。
「あの歌、アディルさんとの合作だってラターリオから聞きました」
「あぁ、そう言えばそうだったな。歌詞の一部は俺が作った。あいつが書くとどうも悲観的になっちまうからな」
懐かしいなぁとアディルは笑う。きっと当時の制作の様子を思い出しているのだろう。きっと様々なやり取りを経てできあがったに違いない。
「そういや、『ロビン』はあいつが21の時に作った歌だ。ちょうど今のお前と同じだな」
「え?」
「いいじゃねえか。21歳で『ロビン』を歌うことが、お前とあの時のラターリオの転換期だったってことだ。あれを作ってから、あいつもアルバム曲に明るい歌を入れるようになったからな」
『ロビン』はラターリオが21歳の時に作ったものだったのか。つまり22年前。ロッシャが生まれる前にこの歌は完成されていた。
なんだか、不思議な縁を感じた。
「俺も好きでよ。この歌があったからラターリオと親友になった」
「この歌で?」
もっと早い段階から親友だと思っていた。そうではなかったのか。
「……うん。いっぱい意見をぶつけ合って、いっぱい喧嘩して、完成した時のお酒は美味しかったね」
アディルとロッシャの会話の中に、別の声。
振り返ると、いつの間にか戻っていたラターリオがいた。恐らく途中まで話を聞いていたのだろう。
「ま、ある意味友情の歌だ。悪くねえ話だろ」
そう笑って話すアディルも、微笑んでいるラターリオも楽しそうだ。よほどこの曲に良い思い入れがあるのかもしれない。
そんな歌を今から歌う。ジャズ風にアレンジしたものではない、オリジナルの音源で。
「ラターリオ、話聞いてたか? 書類審査用にこいつに『ロビン』を歌わせる」
「賛成だよ。『駆け抜けた空』も『ロビン』みたいなアップテンポなナンバーにしたいんだ。後でその打ち合わせもさせてくれ、アディル」
嬉々として話を進める2人。先程編曲について議論をしていた時と同じような、息のあった会話ができている。
親友であり、仕事の仲間である2人の確かな絆だった。
「……」
だがロッシャは、ラターリオを見ると胸がざわついた。
先程、別れる際に言ったあの一言が心の中に張り付いて、そう簡単に取れそうにない。
――――君は、未来へ向かうんだよ。
あれは一体どういう意味なのか。今ここで問いただしたくなったが、アディルに聞かれてはいけないような気がして言葉が出ない。
ロッシャは未来へ向かえ?
では、ラターリオは?
言葉の真意が見えなくて、1人だけ世界の端っこに取り残された気分になった。
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