第26話
外の世界は何も変わらない。いつもどおりの、何処にでもある空気が流れているだけだ。きっと中央部へ行けば観光客がひしめき合い、車のクラクションがけたたましく鳴り、忙しない空間が広がるのだろう。
何も変わらない。
例えラターリオの引退の事実が分かっても。例えラターリオとリーアンジェのすれ違っていた想いが発覚しても。
世界がそれに呼応するわけではない。
「レアン、お前何処から来たんだ?」
バイクを押しながら、ロッシャはレアンと共に道を歩く。もうすぐ夕方が近づいてくる時間帯だ。いくら日が沈むのが遅くなったとは言え、夜の闇はそこまで迫っている。
ラターリオとのレッスンは当然ながら中止となった。暫く1人になりたいという彼の願いを汲んで、ロッシャはレアンと共に家を出た。レアンがバスで中央部へ向かうというので、バス停まで送る形となった。
「マシア。クレアレーネから電車で1時間ほどにある街だ」
「遠いところから来たんだな」
とは言え、ロッシャの故郷は電車で乗り継いで3時間以上だ。そう考えると近いのかもしれないが、まだ少年であるレアンにとっては長旅だっただろう。
「……リーアンジェの墓も、そこに?」
「あぁ。定期的に父さんと俺が墓参りをして花を飾ってるから、そこら辺の墓よりもずっと綺麗だよ」
「そうか。それは見てみたいな」
リーアンジェの死から10年経っても、欠かさず花を飾っているセドレンとレアン。今もずっと彼女のことを大切に想っているのだろう。
「ラターリオって墓参りに来たことあるのか?」
「あるんじゃないか? 俺は見たことはない。……でも仮に行ってたとしても、あの様子だったら、墓参りの際に自分の想いなんて言えてなかったろうな」
「……」
ラターリオはリーアンジェの結婚を機に、彼女の幸せを願うことを選んだと言っていた。きっと彼はセドレンとレアンのことを考え、彼女の墓前で愛の告白をしていないだろう。いやそもそも、墓参りに行ったことがあるのかさえも分からない。
あぁまさに悲恋だった。
最初から結ばれない悲恋よりも、結ばれていたかもしれないのにそれに気づかず終わってしまった悲恋のほうが遥かに悲しい。
「ラターリオ、日記はいらないって言ってたけど、いいのかな」
ふとレアンは自身の鞄を叩く。中にはリーアンジェが遺した日記が入っている。ラターリオがレアンに返したのだ。もう必要がないと言って。
「持っていたほうが余計に苦しくなるからだろ。リーアンジェのためにも、そっと処分しておけよ」
「……あぁ」
「なら、俺が処分しておこうか? お前の父さんに見つかったらまずいんだろう?」
父親に見つからないようにこっそり捨てるというのは難しい。特に廃棄物の管理は親が担当するものだ。運悪く見つかってしまうのもありえる。
ロッシャも実家にいた頃、こっそり捨てるつもりだったものが簡単に母親に見つかってしまったことがある。家族と暮らすのはそういうもの。秘密なんて案外筒抜けだ。
「別に悪用したりしねえけどよ、信用ならないなら別に……」
「いや、ロッシャさんに託すよ」
レアンは鞄を開け、ロッシャに日記を手渡した。たった数ページしか書かれていない厚めの日記が、ロッシャの手元へ。
「最初はあんたのことをよく分かっていなかったけど、とても真っ直ぐな人だなって思った。ラターリオの歌の想いとか全部受け止めてくれて……。だから、俺はあんたを信用してる」
「そっか。ありがとな……」
「俺もロッシャさんの歌を楽しみにしてる」
一番最初の荒々しかった態度は何処にもなかった。やはり根は優しくて真っ直ぐな性格なのだろう。
年若いのにしっかりしていると、ロッシャは感心した。
「ロッシャでいいよ。そう呼ばれるの慣れてねえし……」
「え? じゃあ、ロッシャ……は、アルストロメリア公演に出るのか?」
「あぁ、まずはオーディションに通らないとだけど」
そういえばオーディションまでもう少しだ。早くラターリオに託されたこの歌を完成させなければ。
近々、アディルと合流して最終調整をしようという話になったなと思い出す。
「……母さんが、よくラターリオの話をしていたんだ。クレアレーネの人にスカウトされて、アルストロメリア公演で歌ったって。母さんはその時、劇場に足を運んでラターリオが歌っている姿を見たらしい」
「そうなのか……」
「とても綺麗だったって言ってた。あの時の母さんは、ただただ弟の舞台を楽しそうに話してるのだと思ってたけど、きっとそれだけじゃなかったんだな」
ラターリオがアルストロメリア公演に出演した時、リーアンジェはまだ結婚をしていなかった。ラターリオに想いを寄せていた時期だろう。
その時の気持ちと感情を思い出しつつも、それを決して表に出さないように押し留め、レアンに話していたのかもしれない。
「なぁ、レアンから見て、ラターリオはどんな男なんだ?」
「俺にも優しいし、父さんとは友達のように接していたし……血の繋がらない叔父さんではあるけど、家族だなって思えた。滅多に怒ることもなかったから、さっきラターリオの大声を聞いた時はびっくりした」
「あぁ、俺もだ」
激昂したラターリオを見て驚き、戸惑ったと同時に、少しばかりの安心感が遭ったのは嘘じゃない。
ずっと穏やかな調子を崩さなかった彼も、人間らしいところがしっかりとあるのだなと。
「母さんのことで色々あったけど、でも結局あの人のことは嫌いになれねえんだよな……」
レアンにそう思われるほど、ラターリオの人柄が良いことが伺える。実際そう。ロッシャを優しく、時に厳しく指導し、導いてくれるのが彼だ。
最初に彼と出会った時は半信半疑だった。本当にロッシャを舞台にあげようとしているのか、別の目論見があるのではないかと思った。だが、実際は違った。彼は心の底から、ロッシャを舞台へと導こうとしていたのだ。
ラターリオはずっとロッシャを光と称しているが、ロッシャからすればずっと彼が光だ。
「ロッシャ、ラターリオのことをお願いしていいか? 俺も父さんもそう気にかけてられないし、今はあんたが一番一緒にいるみたいだし……」
「あぁ」
「勿論、ロッシャもアルストロメリア公演を頑張ってくれよ。俺は応援してるから」
「……お前、良い奴だな」
最初に抱いた印象はとっくに消え失せた。思った以上に優しい性格の持ち主ではないか。
「そういえば、お前いくつだ?」
「もうすぐ17」
「17?」
もう少し若いと思っていたが、17歳だったか。とは言え、しっかりしていることに変わりはない。きっと誠実な大人になっていくことだろう。
「まぁ、俺が言えた口じゃねえけど、勉強頑張れよ。俺は勉強をおろそかに踊ってばかりだったから」
「……そういえばラターリオが、あんたには足の後遺症があるって。まさか」
ふとレアンは気づき、ロッシャを見る。あぁそうか。レアンには何も話していなかったな。かつてはダンサーだったこと。今はもう踊れないことを。
「あぁ、事故で左足が駄目になった。歩けるけど走れないし上がらない。階段を登るのにだって体力がいるし、長時間立っているとすぐに疲れる。ダンサーとしては終わってしまったけど、それを拾ってくれたのがラターリオだ」
以前のロッシャはこの話をするのがとても苦痛だった。踊れないという現実が受け止めきれなくて、苦しくて。今はもうそんな感情を持つことがない。
歌うことの楽しさを知った。
歌うことで確立した存在理由を知った。
だから今のロッシャは、踊りに対する未練が薄れている。完全に断ち切ったとは言い難いが。
「だから俺は、ラターリオに恩義がある。必ず彼の歌を、リーアンジェのために作った歌を歌ってみせるさ」
ラターリオとの会話で改めて決意した。
必ずアルストロメリア公演で、いやその先の未来でも歌ってみせるのだと。
「きっとロッシャならできる。俺は応援してるよ」
ふと微笑んだレアン。その表情は、写真の中で微笑んでいたリーアンジェの姿とよく似ていた。あぁやはり親子なのだなと気づいた。
その後、バスに乗ったレアンを見送ったロッシャは小さく息を吐く。
レアンから預かったリーアンジェの日記を鞄に入れ、バイクに跨る。たった一冊の日記なのに、随分と重く感じる。
リーアンジェが10年以上抱えていた想いが詰まっている。
後はそれを、彼女とレアンが望むように処分するだけ。
「……リーアンジェ」
ふと名前を呼んだ。当然、返事はない。
ロッシャが11歳の時に亡くなってしまった彼女。リーアンジェはロッシャのことなど知らない。ロッシャだけが一方的に知っている状態だ。
空の上にいるだろう彼女は、ロッシャに何を思っているだろうか。
ラターリオにリクエストした歌をロッシャが歌うことに、何を感じるだろうか。
それを知る由などない。
しかしもう歌うと決めたのだ。これはロッシャとラターリオの魂を叫ぶための歌だ。それをアルストロメリア公演と、リーアンジェに届ける。
とは言え、
「こんなことになるなんて、思わなかったな……」
つくづく人生とは何が起こるか分からないものだと思いつつ、ロッシャはバイクを走らせた。
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